ぼんやりとネットサーフィンをしている時。
ひとりでお風呂に入って、体を洗ったあと、ゆったりと湯船に浸かっている時。
ふと、口をついて出てくる歌がある。
さのさ、だったり、民謡だったり、都々逸だったり新内だったり。
今日は、のーえ節。
富士の白雪ゃ ノーーエ
実になめらかに、よく歌い込んだような歌いぶりだ、と、他人から指摘されるまで気付かなかった。
あたしの「ソレ系の歌」は、本職仕込みなのだ、しかも個人教授。
あたしの亡母は、あたしがまだ幼かった頃に数ヶ月入院したことがある。
そのとき、あたしには「ばあや」がつけられたのだが。
そのばあやは、ちょっと「変な人」だった。
大人達がこそこそ噂していたのを立ち聞きした所によると
「大きいじいちゃまが花柳界から拾ってきた」のだ、という。
(オトナは、二歳~三歳の子どもは「聞いたって分からない」と思っているんだよな。)
カリュウカイってものも知らないし、人間を拾ってくるということも理解出来なかったので
あたしは、いつものごとく「黙っていた」。
黙っていたからといって、記憶に残らないのではない。
理解できない事は記憶の引き出しにしまい込まれ、関連事項が現れると整理できるのだ。
物事が「分からない」ときは、じーーーーーっと、それに関するあらゆることに気配りし
目配りし、耳を澄ませているに限る。
情報は、おのずと浮き上がってくる、ものだということを、あたしは本能で感じていた。
ばあやの所には、時たま「親戚」と称する何人かの女性が訪れた。
自室にこもって、数時間を過ごし、さらに数年経った頃には泊まっていくこともあった。
(ばあやは、母が退院したあともずっと居続け、死に至る病で入院するまで、我が家に居た。)
あたしは、まだ「ほんの子ども」だったので、その自室に、一緒に居ることができた。
彼女たちは、いつも綺麗な着物を着て来ていた。おしろいの良い匂いがした。
その着物の裾を割って「足相撲」をしたりとか、野球拳で踊りまくって遊んだ。
お酒も入って、いろんな歌を歌って、厳格な我が家では見たこともないようなはしゃぎぶりが
幼心に楽しく、面白かった。歌を教えてもらったのは、いつもそういう時だった。
「女ってのはねぇ、良いのよぉ?とぉ~~~~っても、イイの。」
酔った「親戚の女性」があたしの顔に顔をひっつけてにこにこ言うと、ばあやは怒った顔で
「要らないことを子どもに吹き込まないでくれる?」
とつっけんどんに言い、彼女たちは、きゃらきゃらと笑って謝った。
ずっと後になって。
あたしは高校生くらいだったろうか、まだ中学生だったろうか。
学校の鞄に明日の授業で使う教科書を詰めながら鼻歌交じりに歌っていた。
『丹波ァ~~~~笹ァ~やァ~まぁ~ やまがのさ~るぅうぅが~ ヨイヨイ
花のお江戸でぇえぇぇ~~~芝居ぃすうるう~~~♪♪♪』
亡母が、いきなり怒り出した。
「そんな歌、二度と歌わないでっ!!」
驚いて振り返ったら、亡母は目にいっぱい涙をためていた。
何があったのか、何を感じたのか、当時のあたしには理解不能だった。
今でも、何が何だか分からないのには変わりない。
でも、上機嫌のぼんやりした時間に「丹波」の歌が口をついて出てくることは、もう無い。
亡母が生きているうちに尋ねたら、理由を教えてくれただろうか。
でも、なんとなく「聞いてはいけないこと」の気がしていたのだ。
もう、知るすべもないのだが、時々思い出しては、心の隅っこがチクンと痛む。
ひとりでお風呂に入って、体を洗ったあと、ゆったりと湯船に浸かっている時。
ふと、口をついて出てくる歌がある。
さのさ、だったり、民謡だったり、都々逸だったり新内だったり。
今日は、のーえ節。
富士の白雪ゃ ノーーエ
実になめらかに、よく歌い込んだような歌いぶりだ、と、他人から指摘されるまで気付かなかった。
あたしの「ソレ系の歌」は、本職仕込みなのだ、しかも個人教授。
あたしの亡母は、あたしがまだ幼かった頃に数ヶ月入院したことがある。
そのとき、あたしには「ばあや」がつけられたのだが。
そのばあやは、ちょっと「変な人」だった。
大人達がこそこそ噂していたのを立ち聞きした所によると
「大きいじいちゃまが花柳界から拾ってきた」のだ、という。
(オトナは、二歳~三歳の子どもは「聞いたって分からない」と思っているんだよな。)
カリュウカイってものも知らないし、人間を拾ってくるということも理解出来なかったので
あたしは、いつものごとく「黙っていた」。
黙っていたからといって、記憶に残らないのではない。
理解できない事は記憶の引き出しにしまい込まれ、関連事項が現れると整理できるのだ。
物事が「分からない」ときは、じーーーーーっと、それに関するあらゆることに気配りし
目配りし、耳を澄ませているに限る。
情報は、おのずと浮き上がってくる、ものだということを、あたしは本能で感じていた。
ばあやの所には、時たま「親戚」と称する何人かの女性が訪れた。
自室にこもって、数時間を過ごし、さらに数年経った頃には泊まっていくこともあった。
(ばあやは、母が退院したあともずっと居続け、死に至る病で入院するまで、我が家に居た。)
あたしは、まだ「ほんの子ども」だったので、その自室に、一緒に居ることができた。
彼女たちは、いつも綺麗な着物を着て来ていた。おしろいの良い匂いがした。
その着物の裾を割って「足相撲」をしたりとか、野球拳で踊りまくって遊んだ。
お酒も入って、いろんな歌を歌って、厳格な我が家では見たこともないようなはしゃぎぶりが
幼心に楽しく、面白かった。歌を教えてもらったのは、いつもそういう時だった。
「女ってのはねぇ、良いのよぉ?とぉ~~~~っても、イイの。」
酔った「親戚の女性」があたしの顔に顔をひっつけてにこにこ言うと、ばあやは怒った顔で
「要らないことを子どもに吹き込まないでくれる?」
とつっけんどんに言い、彼女たちは、きゃらきゃらと笑って謝った。
ずっと後になって。
あたしは高校生くらいだったろうか、まだ中学生だったろうか。
学校の鞄に明日の授業で使う教科書を詰めながら鼻歌交じりに歌っていた。
『丹波ァ~~~~笹ァ~やァ~まぁ~ やまがのさ~るぅうぅが~ ヨイヨイ
花のお江戸でぇえぇぇ~~~芝居ぃすうるう~~~♪♪♪』
亡母が、いきなり怒り出した。
「そんな歌、二度と歌わないでっ!!」
驚いて振り返ったら、亡母は目にいっぱい涙をためていた。
何があったのか、何を感じたのか、当時のあたしには理解不能だった。
今でも、何が何だか分からないのには変わりない。
でも、上機嫌のぼんやりした時間に「丹波」の歌が口をついて出てくることは、もう無い。
亡母が生きているうちに尋ねたら、理由を教えてくれただろうか。
でも、なんとなく「聞いてはいけないこと」の気がしていたのだ。
もう、知るすべもないのだが、時々思い出しては、心の隅っこがチクンと痛む。
> 目配りし、耳を澄ませているに限る。
わかる。この感覚。
あたしも小さい頃、そうしてた。
「きのう」と「おととい」は言葉の意味がどう違うのか、とか。
人に聞いたら覚えられないことを知ってて、
耳を澄ませて大人たちの会話から嗅ぎ取っていってたっけな。
なつかしー(笑)
彩ちゃんママンの身に何があったんだべな。
大きいじいちゃんのゴニョゴニョなら、彩パパを取り合った仲ではないだろう。
今日の記事は、ものごっつー想像の膨らむ、
三島や谷崎の短編のようだね。
そうだよね~~。
子どもってさ。自分から説明できるほどは知らなくても
オトナの会話、ちゃんと「覚えて」いるんだよね。
そして、意味が分からないものほど、きっちり記憶しているんだよな。
大人達は、もっともっと、子どもの前でいい加減な話をしないように
気配りしなければならない、と思うよ。
赤ん坊にだって、両親の会話とか、ちゃんと聞こえているんだから。
亡母は、クラシック音楽しか、あたしには聞かせなかった。
情操教育、とか言ってさ。
単純に、花街の歌が嫌いだっただけなのかもしれないし。
何かあった、なんてのは、子どもとしては考えたくないことで。
今では何もかも、想像の世界にしかならない、のが
切なくもあり、安堵でもある。( ´艸`)