いい日旅立ち

日常のふとした気づき、温かいエピソードの紹介に努めます。

エッセイ「網走線の農夫」~宮柊二~

2019-06-21 21:13:37 | 文学


宮柊二は、著名な歌人であるが、優れたエッセイの書き手でもあった。
そのエッセイの一つ「網走線の農夫」を紹介してみる。

……

老いた農夫が、私の前の席で口づけに瓶ウイスキーを飲んでいる。札幌を発車したとき、たしかに私の前の席は空いていたのだった。網走に向かう夜行車に、いつ、どこの駅から、農夫は乗り込んできたのだろう。
呻るような飲み方だが、口へ運ぶ時間がゆっくりしていて、荒れた感じではない。鍔の狭い麦わら帽子をかぶり、農衣の下に茶のチョッキが見えた。農衣といっても、古い軍服か作業服らしいが、もうその面影がないくらいに着古されている。多くはない鬚だが、伸びたまま、相当にもう古い。一向に酔う気配がない。黙々として、一人で飲み続けている。顔を窓に向けることもない。俯いているのでもない。といって、前の私へ視線を当てるということもない。ほとんど感情というものを示さない。縦に皴が深くある顔は、車中のほの暗い灯に、隈取をほどこしているように見えることもある。ウイスキーがなくなったらしく、やがて脚を抱えるように曲げ、私の前の席で横になった。ゴム長靴を履いたままで足を曲げ、窮屈そうに横たわり、目を閉じている。こどものような妙な孤独を漂わせている。朝が来た。濃い霧が田園にたちこめ、刈り残された稗が、そのなかにぼうっと影を立たせている。汽車が北見駅に着くと、眠っているとばかり思われた老いた農夫は、足取りしっかりと立ち上がり、ホームに降りて行った。そして焼酎の瓶を一本買って、席に戻ってきた。戻ってくると、走りだした汽車の窓から硝子越し、しばらく外を見ていたが、また口づけに、その焼酎を飲み始めた。列車は網走に着いた。潮の匂いのする網走駅に降り、二人は勝手に別れた。
十年前の、晩秋の、網走線の中で会った老農夫を、私は今でも折々に思い出すのである。
(以下略)

……

淡々としていて、しかし、味わい深いエッセイである。










最新の画像もっと見る

コメントを投稿