小泉信吉(こいずみしんきち)。
元慶應義塾塾長の小泉信三の長男。
祖父は、やはり慶応義塾塾長の小泉信吉(こいずみのぶよし)。
祖父については、Wikipediaを調べれば、大要はわかるが、信吉(こいずみしんきち)
は、若くして亡くなったので、詳しい記述はない。
以下、「しんきち」に関して書く。
彼については、父の小泉信三の「海軍主計大尉小泉信吉」を読めば、
人生の大要はつかめる。
信吉は、大正7年1月17日に生まれた。
慶応幼稚舎から慶応大学を卒業し、
三菱銀行に4か月、海軍に1年2か月にわたり奉職。
昭和17年10月22日、海軍主計大尉として南方で戦死した。
ときに25歳。
未熟児として生まれ、幼いときは、病弱であった。
後、慶応義塾大学在学中は、学問に興味を持ち、
一時は研究者になろうとの志望もあった。
しかし、海軍少年であった信吉は、卒業後、
海軍に奉職することになる。
始めは「那智」の主計中尉として乗船し、
後、「八海山丸」の主計長となった。
人柄はよく、
父信三の著書「海軍主計大尉小泉信吉」からわかるように、
多くの人に愛された。
我が子を25歳で失った信三の哀しみを癒すため、
信三の知人が、この思い出の書を書くことを勧めたのであった。
父信三は、
親子のことを、次のようにまとめている。
……
親の身として思えば、信吉の25年の一生は、やはり生きた甲斐のある一生であった。信吉の父母同胞を父母同胞とし、その他すべての境遇を境遇と死、そうしてその命数は25年に限られたものとして、信吉に、今一度この一生を繰り返すことを願うかと問うたなら、彼は然りと答えるであろう。父母たる我々も同様である。親として我が子の長命を祈らぬ者はない。しかし、我々両人は、25年の間に人の親としての幸福は享けたと謂いうる。信吉の容貌、信吉の性質、すべての彼の長所短所はそのままとして、そうして25までしか生きないものとして、さてこの人間を汝は再び子としてもつを願うかと問われたら、我々夫婦は言下に願うと言うであろう。
(以下略)
……
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます