母が他界してから今月9月で20年が経ちます。
九州男児の父に連れ添って苦労も多かったと思います。それ以上に、出来の悪すぎる次男坊の私に、本当に苦労したと思います。兄、弟は圧倒的な秀才です。私は圧倒的に出来の悪い馬鹿でした。
一番手の掛かる私を応援してくれたのも母でした。
母の容態が悪くなり、呼び出され、石垣から病院に駆け付けるとベッドの上にちょこんと正座して待って居ました。
看護婦(当時の呼び名、今看護師さん)が、母が夜中に
「和彦、和彦、どこに居るの?」
と、薬で意識朦朧としているのに廊下を歩いて私を探していたと聞きました。夢と現実がごちゃごちゃになってたんだと思います。
母さん、帰るね、と言うと、正座したまま横目で悲しそうに私を見てました。今おもえば、悟っていた眼差しです。
これと言って孝行はしてあげられなかった、ウマイもんご馳走したことも無い、、温泉旅行も連れて行ってあげたことも無い。母には無い無い尽くし。最低の息子です、ホント。
石垣に戻り、しばらくして、母が亡くなったと連絡が入りました。
帰りたい帰りたいと病室で言っていた、大好きな自宅の自分の布団で寝ていました。私が来るまで布団でとドライアイスでカチンコチンになった母でした。
棺桶は母が毎日美味しい食事を並べた食卓の上、父の意向でお葬式はせずに親族だけで自宅で済ませました。
父の号泣も初めて見ました。
出棺は大変でした、兄弟親族で団地の階段を下ろすんです。踊り場での折り返しがなかなかうまく行かないんです。あっち上げて、そっち下げて、、
母が棺桶の中でゴン、ゴン、とぶつかってる音がするんです。もう、最悪な出棺、、帰宅してきた同じ階段の高校生を棺桶の下を通してあげたり、、
父が、はい、どーぞ、、
どーぞじゃないわ!と思いながら。。
さすがに笑うしかなくて、お母さんも賑やかで喜んでるな、なんて父が言うもんだから、呆れるやら、何とも言えない出棺となりました。
火葬場に到着して、荼毘に。出てきた母は真っ白な骨になってました。
熱々の母を骨壷に入れて、親族が待つ座敷に。。何だよ、皆、酔っ払ってんの?ワイワイ話して盛り上がってるんです。
かずちゃん、お疲れ様、まぁ、飲め飲め。。親族も学者から研究者などなどエリート揃い、新年会も難しい話で盛り上がって変な一族なんです。
もしかしたら、俺、一番まともなんじゃないか、、真剣に考えました。
賑やかに送り出して、お墓に入った母はさぞホッとした事でしょう。
墓碑には「風」と。。何なんだよ、親父!
そんな父も認知症になり、体力もかなり落ちて、その時も近付きつつあります。
私も色々大変な時期もありましたが、これからも必死に生きた母に恥の無いように、私も生きて行きます。
もちろん、父にも顔向け出来る人生を送ります。
paikaji