古より我らの国、日本は幾多の自然災害にさらされてきた。
未来の子孫である我々に書物や石碑、物語や唄として残してくれている。今の生きている全ての日本人もこの世に命を得てから、幾多の自然災害や戦乱を経験している。
これからの私達は未来の日本人に素晴らしい国土をバトンタッチしてゆかなければならない。
今日という日を国は「震災を忘れないための何らかの制定日」にすると検討を進めている。
私は今から3年の今日。宮城県登米市佐沼に仕事で滞在していた。猛烈な巨大な振り子のような揺れの中で落ちてくる天井をただ見ることしか出来ず強そうな柱に背中を押し付けるのがやっとだった。
幸いにも商業施設は崩落することなく屋外に出ることが出来た。
毎回お世話になるホテルに戻ると、お母さんの第一声は「良かった、生きてた?」
その後の状況はテレビも見れず、新聞も届かないのでどんな状況なのか全く分からずラジオの放送だけが唯一の情報源だった。そして今この時間、とても寒かったのを覚えている。
確か、月が出ていたと思う。全ての光が消え星も驚くほど美しかった。
その静寂の中を、この時期、東北で越冬している白鳥の群れが住処の池に美しい編隊飛行で頭上を飛んでいった。不思議な光景だったと思う。
それからの闘いの相手は寒さだ。幸いに宿には食材が多くあり震災当日の夜は足の早い肉類を使い豪華な豪華な食事だった。宿のお父さんと少し離れた資材置き場にボロボロの石油ストーブを取り行きうまく燃焼したのがことのほか嬉しくありがたかった。
その後、宿がプロパンガスであり確か3日目にはガスが使え、水道は5日後、送電は6日目には復旧。でも、理由があった。沿岸部への最前線基地のひとつだった。自衛隊の駐屯地は2日で完成、震災後3日目には多くの車両と隊員を乗せたトラックが沿岸部に毎朝早い時間に向かって行った。
そんな非常事態の場所から出られたのは一週間後。色々経験が出来た。私は直接的な被害者では無いけれど、縁のある人には伝えないといけない。
あれから3年。私は10年位の時間を感じている。忘れているからでは無く、何かが変わった気がするのです、自分の中で。
さあ、日本人よ。心構えだけは持っておこう。次も必ずある。
忘れるなよ。
paikaji