OCNCafeというスペースに迷い込んだ形でネットでの交流を始めてから3年半くらいが経った。
いっときYahooで恋愛小説みたいなものにチャレンジしたが、どこまで細密描写ができるかというトンデモナイ挑戦をしてしまったがゆえに、性交描写がリアルになり過ぎて、あえなく挫折……。
硬派な話題をブログで書き放つ目的で、再度YahooのIDを取得したが、現在は永遠の休業状態?!
この3年半、本当に色々なことがあった。
世の中にも、僕自身にも。
仲良くなった方々で信頼できる方々とは、ときどき電話したり、あるいは賀状のやりとりなどして頂いたり、あるいはまた信頼のできる歌手の方から直接のCD購入経験も最近を含めて数回ある。
そのうちお一方は、この前オフ会でお話させて頂いた堀川ひとみさん。
他の方々にはまだお会いしていない。
またあるときは、ウン年前になるが……実際に会って話した人がたった1人だけどいる。1人ってのは、マスコミなどに登場されてない人で、という意味で。
この……会って話した人とは全く縁が切れてしまったのだが、今でも感謝の気持ちは忘れちゃいない。
ところで、ネットでの意思疎通の難しさは以前から感じてはいたのだが、そもそも人間の持つコミュニケーション手段としての「ことば」って、どこまで通じるんだろう。
この問題は以前Cafeでも日記にも書いたけど、そのときは僕は当事者認識をしていなかったので、今書き直せば少し違うものになるかもしれない。
でも、今は当事者と認識しているので、ことば、というものについて、当時とは少し別の気持ちを持っている。
勿論共通するものもある。
それは、ネットなどでやりとりするときには、その画面に表示されることばの向こう側には、1人ひとりの読み手がいる、ということだ。
当たり前といえば当たり前なんだが、ついついその辺を忘れそうになったりする。
ときとして自己満足の悦楽、あるいは自己陶酔の快感……に溺れそうになる……こともある。
だから発信したことばの受信側つまり相手がどう思うか、どう感じるか、そこら辺を僕はもっと深く考えられるようにならないといけないんだろうな。
勿論本当に「出来事」、事実の紹介だけならよいとしても、僕の場合はそこに自らの感情や僕なりの解釈を織り交ぜることも多いので、どうしても……考え方の違いのある方からすれば、少し不快に思われてしまう懸念はある。
でも、僕は僕の思っていることにできるだけ正直でありたい。
自分の考えに、あるいは気持ちに、できるだけ忠実でありたい。
社交辞令というか、社会的礼儀も時と場合によってはある程度は入れざるを得ないこともあるが、それは最近はできるだけ捨象するようにしている。
お世辞やおべんちゃらは端から嫌いだから使っていないし今後も使う気もない。
ネットでしかお付き合いのない方々だと、つまり日常的に会って話をする間柄でない方々だと、会ったときにネットでのやりとりをネタに会話するなんてことはなかなかできない。
だから、全コミュニケーションのおよそ1割~3割くらいと言われる、言語的な部分で、いかにして自らの気持ちや思いをより正確に伝えるか、ネット上で文章を綴るときには、傷つく人のできるだけ少ないように、イヤな思いをする人ができるだけ少ないように……そこそこ気を使っては……いるつもりだ、自分では。
僕なんか結構世の中全般や政治的社会的に過激な発言もしょっちゅうだから、簡単にサラサラと文章を書けるわけではない。この間亡くなられた井上ひさしさんではないが、僕は「超・遅筆堂」の部類だろう。
言語的でない部分……つまり、現実社会で面と向かっての会話の中では、この部分の占める割合が実に7割から9割くらいだそうだ。
となると、身振り手振りや身体表現、勿論それだけじゃない。アクセントや抑揚、ことばとことばの間、表情……いわば、体を使った表現、ということが大切になってくる。難しいことばで言えば、ノンバーバル・コミュニケーション……だったかな。
現実社会の友人知人なら、ネットなどで書いたことをネタにしやすい。
後で補足説明などしたり、また身体を交えた表現などで、よりスムースな意思疎通が後になって図れることもあるし、誤解が解けることもある。
ところで、当事者のよくありがちな特性として、ダイレクトな言葉を直球で投げるときがある。
良く言えば素直なんだけど、悪く言えば、相手の気持ちを理解できない……のかも知れない。
勿論社会生活を営んでくる中で、当事者も社会性を身に付けてきているから、相手の傷つくようなことは言わない(書かない)という心構えができている方が大多数なんだが、ときおり、あまりにも率直過ぎて問題化したりする。
僕自身でも「あ、やばい」と感じて引っ込めることもちょくちょくある。
例えば、僕が何らかの書籍を出版したとする。で、ネットでどなたかがそれを購入したとする。
で、その買ってくれた人が読んでみて、面白くなかったとしよう。
で、さらにゴミ箱入りしたとする。
多くの人は、たとえ面白くなかったとしても、少しでも面白かったところを探し出して、その部分だけでも花を持たせるような書き方で感想を伝えようとするのではないだろうか、一種の礼儀として。少なくとも俺ならそうする。その辺は俺もある意味ズルイのかも知れない。
あるいは全くシカトしてしまうか。
ところで僕にとって面白くない本というのは実はない。
ところが……面白くなかったと伝えるだけなら良いのだが、さらにゴミ箱入りさせた事実まで作者に伝えたり……する人がいたとする。
普通ならそこで作者としてはショックを受け、あるいは「この人何なん?」ってカチンときて、場合によっては「もう売ったらん!」ともなるかも知れない。少なくともこの間までの俺ならそうだ。
でも……そこでちょっと立ち止まって、その人のそのことばの必然性について思いをめぐらすことが……できる人って少ないと思う。
「そこまで正直に、克明に書かないと気が済まないたちの人なんだろうな」と、その人の特性にまで踏み込んで考えられること。
本当は正直な感想を伝えてよいものかどうなのか……と、迷った挙句、ストレート過ぎるけれども、伝えたさを我慢できなかったその人の気持ち……。
その人のそれまでの成育歴や社会経験の中で、黙っておいて損をしたことが多かったのかも知れない……。
あるいは社交辞令を使うことが自己矛盾のようで許せなかったとか……。
また、次回はより多くの人たちの共感を得られる作品に仕上げよう、とか……自分にフィードバックさせるとか、あるいは、自分自身への応援メッセージとポジティブに解釈し、次回作への意欲へと繋げるとか……。
本当のところはその人に直接聞いてみないと分らないのだけれども、ことばという表現の向こうにあるものを考える、ということも……大いに必要なんだなと、僕も思う。
僕自身も、もう少し、ことばの「向こう側」が推し量れるように……なりたい。
想像力が少し足りないのは止むを得ないとしても、僕なりに「考える」ことは……できるはず。
つまり……一角から氷山を、なんてなかなか難しいけど、できるだけそうしたい、ってこと。
深読みをすることや言葉の裏意味を探ることとは少し……違うんだけど……ね。
追伸;誤解を避けるために補足しますが、僕が購入させて頂いた作品についてのレビューには社交辞令は書いていませんし、Cafeやブログでいつも書いていることは本音です。但し規約違反のない限り、ですが……。
ややこしい書き方してごめんなさい。