う~~ん
やっぱ全然だな、この人。
この間の無知な判決と同じ立場だ。つまり、受け皿がないから別社会においとけ、って点で共通する。
イジメの加害者の子どもは他所の学校に転校させること。
確かに、被害者の子どもや保護者には安心感が生じるだろうし、転校したその瞬間的には、イジメはなくなったかのように「錯覚する」だろう。
イジメッ子じゃなくなったら元の学校に戻るか戻らないか、それは問題じゃない。
いじめ、あかん。それは確かだ。
しかし、本当はね、イジメの加害者だってある意味イジメの被害者だってこと、多いんだよな。
間接的には大人社会の変な論理に嫌気がさしたり、あるいは直接的には家庭での暴力や虐待が絶えないとか……。
そういう背景を背負った「イジメっ子」たちを、他所の学校に機械的に移動させたところで何ら問題解決にはならない。寧ろその子たちがそうしている原因を取り除くほうが大切であって、対症療法は何ら根本的解決には繋がらない。
それに、その子たちが転校した後に、それまではイジメっ子じゃなかった子どもたちが、新たにイジメっ子になるケースも十分想定できる。
そうなったらまた転校させるのか?こりゃ笑い話だな。
……そうして誰もいなくなった、って題名の小説があったっけ。そうなるかもよ。
あのね、僕は、学級集団とか学校集団、あるいは教師集団だって、言ってみれば社会の縮図でね、色んな人がおってええと思うんよ。
腕力の強いやつ、気持ちの優しいやつ、唄の上手なやつ、楽器の上手いやつ、勉強が好きなやつ、運動がすきなやつ……。
でもね、やっぱりイジメはあかん、暴力もあかん、
しかし、いいことはいい、悪いことは悪い。
例えばイジメとか仲間はずれとかみたいな、色々な問題をね、例えばクラス集団とか、あるいは学年全体、ときには教師集団全体を巻き込んで、そうやって克服していく中で、例えばイジメっ子からすれば、いじめられた子どもの気持ちも十分分ってくるものだろうと思うし、そういった、学び合いとか気持ちの響き合い、そういうものだって……ある、んだよな。
勿論それは簡単じゃない。担任教師あるいは彼OR彼女を取り巻く学年集団や学校集団の力量にもよると思う。
だけど決して不可能じゃない。
そういう中で、イジメッ子も、いじめられた子どもも、また、教師も学校も、ひいては地域社会も……ね、成長していくものだと……思うんよ。
だから、言ってみれば……簡単にポイ!と放り出すことは、ある意味でイジメっ子をいじめていることになる。彼OR彼女の本当の学び合いの、もとのクラスでの成長の機会を奪っているからだ。
それだけじゃない。そこの教師に対しても、教師集団に対しても、いじめているのと同じだ。
彼ら彼女らの教育者としての成長・発達の邪魔をしているからだ。
放り出したってイジメそのものはなくならないよ~きっと。
あいつはイジメッ子だから、別のところに行けや~
勉強が遅れている子は、別の学校に行けや~
これらは、ブラック企業の「左遷」や「解雇」、あるいはもっと一般的に言えば「処分」ということと同じだね。
それにしても「処分」的発想が好きだなあ、この人。
学校と大人社会は違う。
学校は、まだまだ成長・発達する幅の大きい「子どもたち」の場だ。
もとの社会、つまり学級や学校でのその子どもたちや学級の変化、ダイナミクス、そういう中での子どもたちや教師、あるいは学校集団の変化こそ重要だし、そういう変化の中で、よりきめ細やかなサポート体制ができてそれが続いてこそ意味があるのであって、別のところでみっちりやってきて、さあ戻るぞ!で戻れるか?
イジメっ子や遅れ気味の子を継続的に支援する体制つまり受け皿については何も言及がないけど、それらをきちんとしてこそだろ。
それこそあんたの発想は、まさに30年前の「荒谷二中」の一部教師たちの、「腐ったミカンは放り出せ!!」と同じだ。
イジメっ子も遅れている子も、放り出されるべき存在じゃない。
あんたが実際にそういった立場になったらね、どう思うか、よく考えることだ。
それができないのなら、首長としてはあまりに想像力を欠いた言動だと斬らざるを得ないし、前から僕は言ってるけれども、首長なんかの資格はない。
とっとと辞めるべきだ。
国政なんかにも出たら駄目だろ。
政界からは引退すべきだ。