私感・雑感

平和、平穏。

安全、安心。

でもそれらを脅かすものは許さない。

新・腐ったミカンの方程式

2012年08月29日 | 日記

う~~ん

やっぱ全然だな、この人。
この間の無知な判決と同じ立場だ。つまり、受け皿がないから別社会においとけ、って点で共通する。

イジメの加害者の子どもは他所の学校に転校させること。

確かに、被害者の子どもや保護者には安心感が生じるだろうし、転校したその瞬間的には、イジメはなくなったかのように「錯覚する」だろう。

イジメッ子じゃなくなったら元の学校に戻るか戻らないか、それは問題じゃない。

いじめ、あかん。それは確かだ。
しかし、本当はね、イジメの加害者だってある意味イジメの被害者だってこと、多いんだよな。
間接的には大人社会の変な論理に嫌気がさしたり、あるいは直接的には家庭での暴力や虐待が絶えないとか……。

そういう背景を背負った「イジメっ子」たちを、他所の学校に機械的に移動させたところで何ら問題解決にはならない。寧ろその子たちがそうしている原因を取り除くほうが大切であって、対症療法は何ら根本的解決には繋がらない。

それに、その子たちが転校した後に、それまではイジメっ子じゃなかった子どもたちが、新たにイジメっ子になるケースも十分想定できる。

そうなったらまた転校させるのか?こりゃ笑い話だな。

……そうして誰もいなくなった、って題名の小説があったっけ。そうなるかもよ。

あのね、僕は、学級集団とか学校集団、あるいは教師集団だって、言ってみれば社会の縮図でね、色んな人がおってええと思うんよ。

腕力の強いやつ、気持ちの優しいやつ、唄の上手なやつ、楽器の上手いやつ、勉強が好きなやつ、運動がすきなやつ……。

でもね、やっぱりイジメはあかん、暴力もあかん、

しかし、いいことはいい、悪いことは悪い。

例えばイジメとか仲間はずれとかみたいな、色々な問題をね、例えばクラス集団とか、あるいは学年全体、ときには教師集団全体を巻き込んで、そうやって克服していく中で、例えばイジメっ子からすれば、いじめられた子どもの気持ちも十分分ってくるものだろうと思うし、そういった、学び合いとか気持ちの響き合い、そういうものだって……ある、んだよな。
勿論それは簡単じゃない。担任教師あるいは彼OR彼女を取り巻く学年集団や学校集団の力量にもよると思う。
だけど決して不可能じゃない。
そういう中で、イジメッ子も、いじめられた子どもも、また、教師も学校も、ひいては地域社会も……ね、成長していくものだと……思うんよ。

だから、言ってみれば……簡単にポイ!と放り出すことは、ある意味でイジメっ子をいじめていることになる。彼OR彼女の本当の学び合いの、もとのクラスでの成長の機会を奪っているからだ。
それだけじゃない。そこの教師に対しても、教師集団に対しても、いじめているのと同じだ。
彼ら彼女らの教育者としての成長・発達の邪魔をしているからだ。

放り出したってイジメそのものはなくならないよ~きっと。

あいつはイジメッ子だから、別のところに行けや~
勉強が遅れている子は、別の学校に行けや~

これらは、ブラック企業の「左遷」や「解雇」、あるいはもっと一般的に言えば「処分」ということと同じだね。
それにしても「処分」的発想が好きだなあ、この人。

学校と大人社会は違う。

学校は、まだまだ成長・発達する幅の大きい「子どもたち」の場だ。
もとの社会、つまり学級や学校でのその子どもたちや学級の変化、ダイナミクス、そういう中での子どもたちや教師、あるいは学校集団の変化こそ重要だし、そういう変化の中で、よりきめ細やかなサポート体制ができてそれが続いてこそ意味があるのであって、別のところでみっちりやってきて、さあ戻るぞ!で戻れるか?
イジメっ子や遅れ気味の子を継続的に支援する体制つまり受け皿については何も言及がないけど、それらをきちんとしてこそだろ。

それこそあんたの発想は、まさに30年前の「荒谷二中」の一部教師たちの、「腐ったミカンは放り出せ!!」と同じだ。

イジメっ子も遅れている子も、放り出されるべき存在じゃない。

あんたが実際にそういった立場になったらね、どう思うか、よく考えることだ。
それができないのなら、首長としてはあまりに想像力を欠いた言動だと斬らざるを得ないし、前から僕は言ってるけれども、首長なんかの資格はない。

とっとと辞めるべきだ。

国政なんかにも出たら駄目だろ。

政界からは引退すべきだ。


秋夜恋

2012年08月28日 | 日記

もうすぐ9月か。

子どもの頃は、この時期は結構焦っていたことが多かったなあ。でもその一方で、余裕綽々だった年もあったりもする。
そういうときは、大抵夏休み前か休みに入って直ぐのうちに必死で仕上げておいて、後でノンビリ、って感じだった。

僕が子どもの頃と今とでは、夏休みを過す子どもたちの環境も違うし、何より暑さ、熱さそれ自体も、またその質も全く違う。
その頃は、32℃くらいで「うわあ、めっちゃ熱いなあ。」って思っていたし、34℃とか35℃になること自体ほとんどなかったから、36℃とかになったらそれこそ大ニュースも大ニュースだった。

しかしそれから10年くらい経つうちに、35℃越えがあまり珍しいことでもなくなってきて……
ここ10年くらいは、これは僕の主観かも知れないけれども、最高気温が34℃くらいの日が続くと、涼しく思う夏すらある。

今年は……一昨年ほどではないけれども、結構な暑さ、熱さ……だなあ。
日中に、最も暑い時間帯に外出すると、肌に射す太陽光の強さを感じる。
暑いを通り越して痛みのような感じだ。
皮膚が焦げそうな感覚に襲われる。分りやすく書くと、「うわ、熱っ痛ぅ!!」がイメージ的にはしっくりくる。

でもしかし、冷房に慣れきった体には、強烈な太陽光が妙に心地よかったりする。暑い暑いとは言いながらも(苦笑)。

スーパーなどに買い物に行くにも、大抵の人は最も暑い時間帯を避けて、朝のうちとか夕方以降に行くものだろうと思うけれども、僕はあえて午後1時半くらいから3時半くらいの間に行く。

人が少なくて買い物しやすいし、レジも並んでいる人が少ないし、自転車置き場もすいてるから。

夏の人混みは苦手だ。ときどき、小学校の頃の掃除用雑巾をほうふつとさせるような強烈な体臭を放出している人もいるから。

……でもそんなこんなで暑い季節ももう終わりに近づいているのか、スーパーでは新米が並び始めたし、青果コーナーでは少しづつ秋の味覚も見られるようになってきた。
酒類では、毎年秋限定の紅葉模様の缶も出始めている。

朝はときどき風が涼しい日も出てきたし、夜は夜で叢からコオロギやらの秋の虫の音が聞こえてくる。
昼間は昼間で夕立が降る日も多くなってきた。

朝は明るくなるのが遅くなってきたし、日が沈むのも夏至の頃より早くなってきた。

暑い暑いと言いながらでも、少しづつでも季節は進んでいるのだなあ。

秋の夜が恋しい。

♡秋♡夜♡恋♡


再稼働賛成♪

2012年08月23日 | 日記
……なんてタイトルの記事を書くと、僕のことをよく知ってる人たちからは、

「はぁ~???パイさんとうとう暑さで頭がやられたんかぁ~!?」

って思うだろうな。

いやいや大丈夫、頭も、体も、下半身も(苦笑)
元気やでぇ~

原発の再稼働に賛成しとるんちゃうで。

民主主義の再稼動に大賛成してんねん。

……これまで日本では、民主主義が眠りこけていた、でもそれが再稼働したのでは、
と……昨日の野田さんとの会見を終えた首都圏反原発連合、そのメンバーの1人がそんな趣旨のことを言ったそうだ。

こっちの再稼働なら大賛成だ。

と同時に、これまで眠っていた、という現実は悲しいといえば悲しいのだが……

いずれにせよ、民主主義が再稼動して、次期衆院選で野田民主政権に正義の(平和的な)鉄鎚を下すのならこの再稼働は大賛成だ。

9割の日本国民よ、ともに闘おう。

原発はいらん。

裁判員裁判の判決に思うこと……

2012年08月14日 | 日記

発達障害を持つ男性が殺人の罪を問われていた裁判員裁判で、検察の求刑より重たい量刑の判決が出た。

しかもその理由を読むに、犯罪をまた犯しそうだから長く刑務所に閉じ込めておけ、みたいなことが書かれていて、唖然ともしたし、驚きもした。と同時に、怒りもまた禁じ得ない。

被告側は控訴したそうだが、本当に、おかしな判決だと思った。

しかしまた、あゝ、これが日本社会の今の現実の縮図なのかなあ、と……暗澹たる気持ちになったのもまた事実だ。

つまり、とことんまで同質性を求め、異質なものは排除する、という考え方、雰囲気、アトモスフェア。

違うものとは仲良くできない……のだろうかなあ、と。

つまり、この日本社会は、過ちを犯した者が心を入れ替え、更生しようとするのを……応援あるいは支援しようとする姿勢……というものが、諸外国に比して弱いんじゃないのかな、って気がする。

一旦罪を犯したものは一生悪者だ、あるいはまた、いつ何をやらかすか分らないとんでもないやつだ……と、固定概念でその人を見てしまう傾向が強いのではないだろうか、って思う。

刑務所から出てきた人を、迎え入れる、受け入れる側、つまり社会が、おそらく未熟なんじゃないのかなあ、と。
つまりハード的、法制度的にも、ソフト的、人々の心の面でも、と……思う。

僕は塀の中に入ったこともないし、従ってその様子を直接見たこともない。

だけど、塀の中の世界を経験したことのある人の著書などを読むと、少々驚いたことがある。

初犯で入ってくる人、再犯で入ってくる人、あるいは何度も犯罪を重ねて、出入りを繰り返している人……。

複数回刑務所入りしている人には、発達障害に限らず、精神的な障害や知的な障害を持つ人が結構な割合でいるそうだ。
著者は、そういった人々のことを「累犯障害者」と呼ぶ。

やっていいことと悪いことの区別がつかないケース、あるいは、地域に受け皿がなく、刑務所に行けば楽だからと小さな犯罪をあえて犯すケース、色々と書かれていたと思うが……

共通するのは、地域社会で生活し辛いという現実がある、ということだった。

何も犯罪者を庇護するわけではない。
人の物や金を盗る、あるいは人の物を壊す、人の命を殺める……これらは断じて許されない。

要は、障害の有無に関わらず、罪を犯した人が、刑期を終えて塀の外に出てから、真面目に更生しようとしても、
その更生していくための支援体制が十分ではなく、また、世間の目も出所してきた人に対して相当厳しいのではないか、という思いがある。

また、件の裁判員裁判にしても、発達障害に対する理解度が低いままで進んでしまったなあ、という思いだ。

控訴審ではより良心的な判決が出ることを望む。