飯山さんのHPで「卑弥呼は公孫氏」という話題が載っている。最近は古代史の研究からやや遠ざかっているものの、以前はずいぶんこの問題で悩んだものである。
「宣帝の平らげた公孫氏なり」と読むのか、「宣帝の平らげるや」と読むのか?私は鹿島昇氏のファンであったから当然前者と考えていた。しかし、何人かの中国人に聞いてみたが、どう考えても「どちらとでも取れる」のである。
そして例の「卑弥呼は公孫氏」という本の著者である山形明郷氏に手紙を書いたのである。結果、彼も「どちらでもいい」と述べたのだ。
優秀な中国の史官がどちらとも取れる書き方をするのは、やはり何らかの意図があったと思うのである。つまり官僚独特の「逃げ」であった可能性が高い。
しかし、私の解釈は晋書が言いたかったのは「卑弥呼が朝貢したのは公孫氏が滅びた後であり、魏志の記述には偽りがある。」であり、正史にケチをつけることは許されないため「卑弥呼は公孫氏である。」という新説を披露するふりをしてこっそりと真実を後世に伝えたかったものと解釈している。
いずれにしても、私は卑弥呼が天皇家の歴史に関わるとは思っていないので、彼女の出自が公孫氏だろうが、なかろうが大して意味はないのである。
以前、そのあたりの考察をシバちゃんブログで超短編小説として書いているので是非ご覧いただきたい。
先日久しぶりに読み返してみたが、我ながらなかなかのものであるよ。
私がこの小説で表現したかったのは、邪馬台国が中国の史書に登場したのは、魏が公孫氏を滅ぼすにあたり、公孫氏に接している国々と友好関係を築き、公孫氏を孤立させようと謀略をめぐらしたからだということだ。
倭という国が韓半島にあったことは中国のいくつもの史書に顔を出しており、誰も否定はできない。問題は、私が考えているように、現在の北朝鮮地域にいたのか、それとも現韓国地域に存在していたのかであるが、公孫氏が遼東、現在の遼寧省に存在したと考えると、私としてはシバちゃんで書いたように遼東半島から現北朝鮮地域にあったと確信するのである。
今日は休日である、それほど時間はかからないので笑い話として私の短編小説を読んでいただきたい。
「宣帝の平らげた公孫氏なり」と読むのか、「宣帝の平らげるや」と読むのか?私は鹿島昇氏のファンであったから当然前者と考えていた。しかし、何人かの中国人に聞いてみたが、どう考えても「どちらとでも取れる」のである。
そして例の「卑弥呼は公孫氏」という本の著者である山形明郷氏に手紙を書いたのである。結果、彼も「どちらでもいい」と述べたのだ。
優秀な中国の史官がどちらとも取れる書き方をするのは、やはり何らかの意図があったと思うのである。つまり官僚独特の「逃げ」であった可能性が高い。
しかし、私の解釈は晋書が言いたかったのは「卑弥呼が朝貢したのは公孫氏が滅びた後であり、魏志の記述には偽りがある。」であり、正史にケチをつけることは許されないため「卑弥呼は公孫氏である。」という新説を披露するふりをしてこっそりと真実を後世に伝えたかったものと解釈している。
いずれにしても、私は卑弥呼が天皇家の歴史に関わるとは思っていないので、彼女の出自が公孫氏だろうが、なかろうが大して意味はないのである。
以前、そのあたりの考察をシバちゃんブログで超短編小説として書いているので是非ご覧いただきたい。
先日久しぶりに読み返してみたが、我ながらなかなかのものであるよ。
私がこの小説で表現したかったのは、邪馬台国が中国の史書に登場したのは、魏が公孫氏を滅ぼすにあたり、公孫氏に接している国々と友好関係を築き、公孫氏を孤立させようと謀略をめぐらしたからだということだ。
倭という国が韓半島にあったことは中国のいくつもの史書に顔を出しており、誰も否定はできない。問題は、私が考えているように、現在の北朝鮮地域にいたのか、それとも現韓国地域に存在していたのかであるが、公孫氏が遼東、現在の遼寧省に存在したと考えると、私としてはシバちゃんで書いたように遼東半島から現北朝鮮地域にあったと確信するのである。
今日は休日である、それほど時間はかからないので笑い話として私の短編小説を読んでいただきたい。