マヨの本音

日本の古代史から現代まで、歴史を学びながら現代を読み解く。起こった出来事は偶然なのか、それとも仕組まれたものなのか?

三本脚巴が世界に広がった?

2013年06月23日 09時59分25秒 | 世界の支配者の研究
少しずつ書き加えて行きます。9時45分更新

ROMUJINさんからのコメント「 2013-06-21 15:14:36
『イギリス保存鉄道の旅』(NHK総合)というスポット番組の中で
三脚巴紋http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%84%9A%E5%B7%B4
マン島の国旗http://www.eigo21.com/tristan/mm/bounty2-2.htm
が出ていました。
だから?何?…みたいなコメントですが…」
マン島の紋章


同じようなシチリア島の旗


666のマークで三つ巴


神社などに多い三つ巴

おなじみサッカー協会

おまけ、熊野本宮大社にも三本脚カラスが・・・


ようは、ケルト繋がりなんだろうけど、日本では三つ巴、三本脚カラス、あるいは世界中の宗教の中に見られる三位一体の表現でもあるようだ。エジプトにはオリシス、イシス、ホルスの三位一体、ニムロデのミトラは母と息子と、その息子と母から生まれた不義の子の三人。キリストは父と子と聖霊?よく意味がわからんな・・・。やはり一神教に三位一体はなじまないな・・。
つまり、ニムロデの三位一体に反対したのがアブラハムで、彼の教えからユダヤの律法、戒律が出来て行く。しかし、キリストはユダヤ教の律法主義、つまりバリサイ派を批判し、挙句三位一体を唱える。要は、ユダヤ教をミトラに戻したのがキリスト教の実態ではないのか?まあ、この話は今日の本題から外れるので、また後日。

S氏から「紀元前2500年ごろスウェーデン南部からはるばる海路で日本の東北へ来た部族があり、その後BC1000年ごろ九州へ上陸した部族がいたということ。聖書に突然登場する海の民がこれらの動きの一つで、ヤペテ系に相当する流れです。」と聞いている。一か月以上も前に聞いた話だが、その後、例の集団ストーカー氏のブログなどを読み、勉強をしてきたが、なにせ文字のない時代の話である。確証が得られないまま妄想が膨らむばかりであった。

Sさんも集団ストーカーさんも共通して言われるのは、ケルトもゲルマンもフン族も匈奴も、要はドルイドに操られただけで、彼らは世界に広がり、そこで混血した地域もあれば、乗っ取った地域もあれば、消滅した地域もあると・・・。で、その手法は宗教だった。ユダヤ教もキリスト教も彼らドルイド教の枝葉にすぎないと。
エジプトが最古の文明であったとか、シュメールから文明が始まったというのは、あくまでもユダヤ人やキリスト側の主張であり、乗っ取った地域の歴史を破壊し、自分に都合のよい歴史書を捏造するのが彼らに共通する手法だったのである。中国でも日本でも、もちろん韓国でも、まったく同じ手法で歴史が改ざんされ、ドルイドの影を消し去っている。

問題は、エジンバラ公こそこの海洋族の正当な末裔だと主張しているようなのだ。まあ、世界初の強盗団の正当な末裔がそれほど権威があるかはわからないが、明治天皇はここからガーター勲章をもらったわけで、たぶんそれは天皇家のお種が世界盗賊団と同祖だと認定されたのだろう。要は、日本もバイキング料理が好きなのだ。

話を戻すと、スカンジナビア半島を出発し、バルト海からスコットランドへ上陸、そしてオランダ、たぶんアムステルダムへ、そこからフランスとスペインの境目あたり、そしてリスボンを経て地中海に入り、サルデーニャ島、シチリアへ上陸する。そこを拠点とし、南はアフリカ大陸、そして北はイスタンブールをかすめ、黒海に入り最終的にアルメニアあたりに落ち着く。
それから推測すると、サヴォイアの出自はむしろこっちで、彼の立場が良くわからなかったのだが、むしろヘッセンより格が上で、エジンバラ公と同様、別格なのかもしれない。

さて、シチリアからアフリカ北部に上陸したドルイド神官は紅海を下り、アラビア半島を回り、現在のイラク方面とさらにインドを回り、現在のバングラディッシュに至る。

さて、別個にリスボンからわかれ、アフリカ大陸を回り、はるばる日本にやってきたグループがあったのだという。それが紀元前5000年ごろなのだが、台湾から上海に入り、青森を経て樺太に上陸し、最終的に南アメリカまで達する壮大なスケールである。紀元前5000年ごろにそのような航海が出来たのかどうか、やや懐疑的なのだが、あくまでも彼ら、つまりエジンバラ陣営の主張ではそうなのだそうだ。
まあ、これらの主張を裏付けるのがひとつには物証、つまり遺跡とか、今回の紋章とか、あるいは昔話などの伝説などである。

まあ、エジンバラ公の主張を調べてどうする?ってことだが、要は、彼らはそのようなことを根拠に「元をたどれば同祖ではないですか。我々は世界を支配する権利があるのですよ。一緒に千年王国を作りましょう。」と来るのでしょう。
で、彼ら古代ドルイド神官の足跡をたどりたいのだが、一人ではとても大変。
読者の方で興味のある人はぜひこの三本脚巴、あるいは三本足、あるいは三位一体に関する情報を探してほしい。情報をお願いします。

資料として地図を載せます。S氏から頂いたものが解像度が低く、わかりにくかったので僕が作ったものです。したがってそれほど正確ではありません。だいたいの概念と考えてください。これがBC2500年ごろの海洋族の移動だったそうで、もっと昔、BC5000年ごろの経路も存在するようですが、私はまだ見ていません。






東武皇帝はご存じですか?

2013年06月23日 06時05分10秒 | 世界の支配者の研究
以前に、一番最初に日本を支配した縄文王朝はオロチョンとかツングースと呼ばれるバイカル湖周辺から南下した民族だったと書いた。彼らは黒曜石の交易を得意とする今でいうなら武器商人だった。十三湊を拠点としたが、首都は仙台だったという。この部族と紀元前5000年には日本にもやってきたと言われるドルイド部族とは侵入経路が違い、今のところそのあたりの確証は得られていない。S氏に聞いたら?いやいや、自分で調べることは自分でやらなくっちゃね・・・。

このことを頭に入れ、先日お勉強した久邇宮家に話を戻す。
日朝合同朝廷のやんごとなき血流の話の続きである。まずは、私がコメント欄に書いた内容をもう一度下に記します。

「久邇宮朝彦親王  伏見宮邦家親王の第四王子。「ともよし」とも読む。通称に中川宮。奈良興福寺塔頭・一乗院の門主となる。嘉永5年(1852年)、青蓮院門跡門主の座に就き、法諱を尊融(そんゆう)と改める。後には天台座主にも就く。公家社会に隠然たる勢力を保ち伊勢神宮の祭主を務めるなどした。かつて天台座主を務めたこともあることから、神道界と仏教界の両方における要職を務めた珍しい例といえる。神職を育成する数少ない大学、皇學館大学の創始者としても知られる。

梨本宮守正王  久邇宮朝彦親王の第4王子として1874年に誕生。梨本宮家相続にあたり、守正と改名した。梨本宮家は初代守脩親王のあと、山階宮家出身の菊麿王が後継者となったが、のちに実家を継ぐことになったため梨本宮家を離れ、代わって守正王が相続したものである。このため、実際には3代目であるが、公式には守正王が2代目とされている。

李 方子(り まさこ)、1901年(明治34年)11月4日 - 1989年4月30日)は、日本の元皇族。梨本宮家に生まれ、旧大韓帝国の元皇太子で日本の王公族となった李垠の妃。

梨本伊都子 1882年(明治15年)2月2日、駐イタリア特命全権公使・鍋島直大の次女としてローマで生まれた。母は広橋胤保の五女・榮子。

東伏見慈洽(じごう、1910年5月16日 - )は、日本の僧侶。旧華族、旧皇族。今上天皇の叔父に当たる。
久邇宮邦彦王の第3王子、旧名邦英王(くにひでおう)。夫人は伯爵亀井茲常の二女保子。
1943年(昭和18年)に京都の青蓮院門跡の門主となって法名を慈洽と称し、長らく門主の地位にあった。
1982年(昭和57年)から1988年(昭和63年)まで京都市と京都府仏教会・京都市仏教会とが深刻な対立抗争を繰り広げ、ついには多くの寺院の拝観停止や行政訴訟の提起にまでいたった、いわゆる「古都税問題」では、仏教会の理事長あるいは会長として反対運動の先頭に立った。
また、青蓮院が属する天台宗の主要寺院が住職の世襲を認めていないのに対し、青蓮院門主の地位を子息に譲ることを強く望んで天台宗教団と鋭く対立し、一時は教団離脱をほのめかして教団に圧力をかけ、ついに世襲を認めさせた事件も起こしている。その結果として2004年(平成16年)2月に青蓮院の執事長であった次男の慈晃に門主の地位を譲った。現在は、京都仏教会会長・青蓮院門跡名誉門主である。2010年(平成22年)5月16日、100歳を迎えた。現在、今上天皇の叔父・叔母にあたる昭和天皇・香淳皇后の兄弟姉妹の中で存命しているのは自身と三笠宮崇仁親王のみとなる。

香淳皇后 良子  久邇宮邦彦王の第一女子。母は12代薩摩藩主公爵島津忠義七女俔子(ちかこ)。祖父・久邇宮朝彦親王は男子9人を儲けており、東久邇宮稔彦王は叔父の一人である。また、五女・島津貴子の夫島津久永は母方の従弟に当たる。」

さて、今日問題にしたいのはこの久邇宮の親である伏見宮邦家の弟9王子である。簡単にWIKIでおさらいしよう。
北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさ しんのう、1847年4月1日(弘化4年2月16日) - 1895年(明治28年)10月28日は、幕末・明治時代の皇族、陸軍軍人。

伏見宮邦家親王の第9王子。生母は堀内信子。幼名は満宮(みつのみや)。嘉永元年(1848)青蓮院宮御相続、安政5年(1858)輪王寺りんのうじ宮御相続、公現こうげん法親王(俗名能久よしひさ)と称せられ、上野寛永寺の門跡もんぜきとなられる。
最後の輪王寺宮(りんのうじの みや)として知られる。慶応3年(1867年)5月、江戸に下って上野の寛永寺に入り、同月慈性入道親王の隠退に伴って、寛永寺貫主・日光輪王寺門跡を継承した。院号は「鎮護王院宮」、歴代門主と同じく「輪王寺宮」と通称された。
慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いののち、公現入道親王は幕府の依頼を受けて東征大総督・有栖川宮熾仁親王を駿府に訪ね、新政府に前将軍徳川慶喜の助命と東征中止の嘆願を行う。しかし、助命については条件を示されたものの東征中止は熾仁親王に一蹴された。その後、寛永寺に立て篭もった彰義隊に擁立されて上野戦争に巻き込まれ、その敗北により東北に逃避、仙台藩に身を寄せ、奥羽越列藩同盟の盟主に擁立された(一説には俗名(諱)を「陸運(むつとき)」としたという)。

問題は奥羽越列藩同盟の盟主と言われているが、実は東武皇帝として即位していた。しかもその同盟の中心は仙台だった。
当時、ニューヨーク・タイムズの記事の書き出しはこうである。(逸見英夫氏訳)
 「日本の政治でもっとも重要なニュースは、新しいミカドの擁立である。これは日本の北部における内乱、あるいは将軍家の内紛によってもたらされた。新しいミカドは大兄宮(おおえのみや)といい、高僧のひとりである。この動きによって、いまや日本にはふたりのミカドが存在する事態になった。従来のミカドは依然として南部で権力を保持している」

要は、日本はこの時点で東西(南北なのかな?)分断したのである。
まあ、天海(天台宗)まで話を戻すときりがないが、寛永寺と日光に、いざとなったら徳川家が天皇を擁立できる「玉」が用意されていたということ。

教えてGOOから引用すると、この奥州越列藩同盟の顛末は・・・・「会津と米沢の両藩が同盟を結んだのでは、東北諸藩は力量的に仲間に加わるのが常道です。
そこへ、仙台藩が世良修蔵の事件により、会津の味方に付くという決定打が加わり、奥羽列藩同盟が出来ました。その後、越後の諸藩も加わり「奥羽越列藩同盟」となります。
仙台藩はその後、倒幕軍に加わり会津に出兵しましたが、現実的には両藩対峙したことが何度かありましたが、仙台藩士は形だけの戦闘をし、本気で会津と一戦を交えたことはありませんでした。三春藩は倒幕軍の力にはかなわないとみると、早々に二本松藩に出兵しています。
こうしてみると、「強いものには巻かれろ」という図式が見えてきます。
それにしても、寝返ることがなんとも簡単なことか・・・。」

明治以降、伏見宮から 梨本宮家、山階宮家、久邇宮家、華頂宮家、小松宮家、北白川宮家、東伏見宮家、賀陽宮家、朝香宮家、竹田宮家、東久邇宮家を輩出していることを考えると、明治維新の意義とは何だったのかは簡単ではないなと思うのである。

さてもう少し追及してゆきたいところだが、ROMUJINさんのコメントから別のお仕事が入った為、この件に関してはまたの機会にということで・・・。