明治維新を調べると言ったものの、すごく欲が出てきてしまい、どこから書けばよいのか迷っていますが、でも行けるところまで頑張ってみます。
先ほどS先生から電話をいただき、少々手直しをしました。
〇〇宮は100年先を見ているという話だそうですが、それでは明治維新のプロジェクトはいつごろから実行に移されたのか?そして何を目指したのか?
前回少しだけ書きましたが英国とロシアのグレート・ゲームですが、これぞまさしく地政学(英国のですが)というものそのものです。メソポタミアからスタートしたウバイドが東の果てに行き着いたのが日本、西へ向かった先が英国、その両国が同盟を結んだのが日英同盟。これは日露戦争を起こすためのものって言うか、ロシアとの戦争に日本を巻き込むためのものだった。英国の最大の敵となったロシアという国はもともとはドルイドが一番最初に上陸した、言ってみれば同志ではないのだろうか。要は、ドルイドからすれば右手と左手みたいなものだろうか、そこまでは僕にはわからない、玉ねぎの皮のようにどこまで行っても答えは見つからない。
ただ言えることは、私の読者は英国、ロシア、米国などという国家という概念は間違っていることを知っている。だからあくまで便宜上であり、実はヘッセンの中のイエズス会なのかシオニストなのか、あるいは米北軍、南軍なのか、あるいは〇〇宮なのか・・・などを考えてゆかねばならない。国境で区切られた国で考えるほうがよほど簡単なのだけど‥‥。
英・ロのグレートゲームの本質はヘッセンのロマノフ王朝の持つ金塊の強奪ですが、実はギリシャ正教への妬みもあったとみるべきでしょう。まあ、第一次大戦でその決着がつきますが、よもやその金塊が最終的に中野学校の手に落ちるとは、歴史というのはたまには小説より奇なりということが起きるものですね。
とりあえずグレートゲームを調べると「第1期のグレート・ゲームは、一般にほぼ1813年から1907年の英露協商までの期間を指し、狭義には、グレート・ゲームとは専らこの時期の英露によるアフガニスタンを巡る抗争を指す。この時期の英露抗争は中央アジアからインド洋を目指すロシアの南下と、インドの征服事業を進めた英国との間で争奪ポイントとなったアフガニスタンにおいて争われた。」とある。いずれにしても不凍港を求め南下するロシア、それを封じ込めたい英国の思惑、それが日本を明治維新に導く大きな要因だったことは言うまでもない事です。
さらに英国は南アでのボーア戦争を戦っており、さすがに手一杯なので日本を味方にするか占領してしまうか慎重に調べていたことでしょう。
さて、話を日本に戻し、一体○○宮は明治維新のプロジェクトをどのあたりから始めたのかを考察してみましょう。
まず一番最初のスタートは光格天皇までさかのぼらなければならない。即位が1780年のことだから、明治維新の王政復古が1868年、本当に100年を見通しているのかも・・・。
「光格天皇は、日本の第119代天皇(在位: 1780年1月1日〈安永8年11月25日〉 - 1817年5月7日〈文化14年3月22日〉)。傍系・閑院宮家の出身であるためか、中世以来絶えていた朝儀の再興、朝権の回復に熱心であり、朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されている。父・典仁親王と同じく歌道の達人でもあった。
安永8年10月29日(1779年12月6日)、後桃園天皇が崩御したとき後継候補者として伏見宮貞敬親王・閑院宮美仁親王と美仁親王の弟・祐宮師仁親王の3人がいたが、先帝の唯一の遺児欣子内親王を新帝の妃にするという構想から既婚の美仁親王が候補から消え、残り2人のうち近衛内前は貞敬親王を、九条尚実は師仁親王を推薦した。会議の結果、貞敬親王の方が年下で内親王とも年が近いものの、世襲親王家の中で創設が最近で、天皇と血筋が近い師仁親王が選ばれ、急遽養子として迎え入れられた。」(以上wiki)
つまり、近衛(北朝)と九条(南朝)という東西両巨頭の間で張り合った中で九条家が勝利したということかな。
で、光格天皇には特筆すべきことが3つあります。
一つは天明の大飢饉の際に幕府に民衆救済を申し入れるという禁中並公家諸法度に対する違反を犯したが、幕府にも落ち度があるとして不問にとされたこと。天皇が幕府に口をはさむ最初だったと。
2つ目はゴローニン事件では幕府に経過を報告させるという強い態度を示したこと。これがのちの日米和親条約を幕府が勝手に調印した時に前例として効いてくる。
ゴローニン事件とは・・・・1811年(文化8年)、千島列島を測量中であったロシアの軍艦ディアナ号艦長のヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニンらが、国後島で松前奉行配下の役人に捕縛され、約2年3か月間、日本に抑留された事件である。ディアナ号副艦長のピョートル・リコルド(ロシア語版)と、彼に拿捕そしてカムチャツカへ連行された高田屋嘉兵衛の尽力により、事件解決が図られた。
3つ目は光格の息子が中山家に養子に出され、ここが京中山家となる。実にここからあの天誅組が始まるわけです。この派閥は現在でも北朝勢力として力を持っているとか…。
「京中山家初代忠伊(ただこれ)卿は119代光格天皇の第六皇子で、幼名武生長仁中山大納言家に臣籍降下し忠伊と名乗る」(観命学とはなにか?より引用)
まあ、尊王の芽生えはこのころからかな・・・・という感じですか。
さて、話は変わり、水戸へ移ります。(歴史探偵さまの記事をお借りします)
「改めて攘夷の"夷"は「えびす」で野蛮な外国人のこと。"夷"と反対の漢字は"華"。世界の真ん中で最も高い文明と華麗な力を誇る国=中華の国=中国を指す。
しかし光圀時代の日本に、日本こそ中華な国である、という意識を光圀に植えつけた人物がいた。それが明国の儒学者・朱舜水。
朱舜水は儒教の国・明の崩壊を目の当たりにする。その際、皇帝に対する忠臣が少ないことに絶望した。一方で彼は日本で水戸光圀に会う。光圀の政治家としてのふるまい、楠木正成のように後醍醐天皇への忠誠に殉じた忠臣の存在、古代から連綿と続く天皇家の存在などを知り、日本こそ、本当の中華であり、理想国家なのでは、と考えた。そしてその考えを光圀に伝えた。これが水戸藩の中に「日本こそ理想の儒教的国家であり、中華な国である」という意識を植えつける端緒となった。
また朱舜水は、そのような素晴らしい日本の歴史を日本人自身が確認するため、司馬遷の『史記』のような歴史書の編纂を光圀に勧めた。光圀はすでに『大日本史』の編纂を進めていたので、中国の学者からお墨付きをもらう形になった。」(引用以上)
以前、水戸家と近衛家のつながりは自給さんのブログが明らかにしていましたが、徳川家というよりも近衛家の血流として明治維新の役割を果たすことになったのでしょう。
「近衛 尋子(このえ ちかこ、寛永15年(1638年)10月 - 万治元年閏12月23日(1659年2月14日))は、江戸時代前期の女性。水戸藩第2代藩主・徳川光圀の正室。通称は泰姫(たいひめ)、台姫。院号は法光院。諡号は哀文夫人。」(wiki)
安政の大獄と桜田門外の変など水戸藩が中心となった幕末の出来事は多く興味深いのですが、明治維新の一連の改革が終わり、世間が落ち着いてみると、水戸藩の果たした役割は単なるきっかけ作りに過ぎないことが分かるのです。
例えば天狗党の乱などを調べると、いくら命が安かった時代とは言え、人命がいかにぞんざいに扱われたものかと思わざるを得ません。
攘夷とは、開国やむなしという幕府に対しいちゃもんをつけたい勢力が主張した無理筋の思想であり、その証拠として各陣営とも明治新政府になると攘夷どころか世界に追い付け追い越せとなんてしまったではないですか。要は、そのようなものは看板程度のものだったわけです。
さて、キリシタン禁止令だったにもかかわらず、全国にイエズス会の代理店がいくつもあったことは今ではよく知られています。例の松平姓を賜った有力大名たちです。
前田、伊達、島津、毛利、黒田、浅野、鍋島、池田、蜂須賀、山内の各大名たちで、松平姓と四品の格を当てていました。つまり、天皇の妃になることができ、つまり次期天皇を生むことができる資格を持っていたということです、キリシタン禁止令の中ですよ。
〇〇宮はイエズス会を操ることで徳川幕府を存続させながらもいつでもそれを覆せる体制を作っていたことになります。長州や薩摩、あるいは伊達家など日本の中心部から比較的離れた地域に起爆剤を埋め込んでいたことになります。
彼らを次期政権の中心に据えてやろうと誘えば喜んで参加してくることは火を見るより明らかだったはずです。
さて、重要なことを書きます。おそらくほとんどの人が知らないことだと思いますが水戸藩というのは実は牛久で勢力を広げていた長州の大内家が作ったものだということです。大内家は田布施、その前が多々良、その前が済州島、その前が百済王、そして実態はヒッタイトの鉄鋼部隊だった。その大内家は地元長州では毛利家に滅ぼされたように見えるが、実は毛利家に名を変えただけで生き延びており、さらに牛久に移り住んでいたのだと‥‥。まあ、びっくりですね。
そんなことで、水戸学と吉田松陰が結び付き尊王攘夷の旗印を掲げるのは至極当たり前のことだったでしょう。
この水戸から出たのが榎本武揚だそうで、彼の話と輪王寺天皇の件は次回に書く予定です。
薩摩と長州が手を取り合う状況に至るまでの経過は長いだけでたいした意味がないため割愛します。なぜなら〇〇宮のシナリオに沿って、なおかつ明治以降に書き直され正当化された歴史になっているだけですから巷にあふれる歴史小説でお楽しみください。
要は、○○宮は自分の右手、北朝を公武合体へ、南朝を尊王攘夷派へと分断し、なおかつシオニスト=マセソン、つまりフリーメーソンを使い日本の現体制を転覆するように仕組んだということです。
退屈だけど、水戸で起きたことを「少しだけ書いておきますね。退屈だから読み飛ばしても結構です。
安政5年8月8日(1858年9月14日)、水戸藩は、幕府による日米修好通商条約調印を不服とする孝明天皇から直接に勅書を下賜されたと称した(戊午の密勅)。折しも将軍継嗣問題を巡って前藩主徳川斉昭らは、一橋徳川家当主で斉昭の実子でもある一橋慶喜を擁立し(一橋派)、大老井伊直弼と対立していた。直弼は、一橋派の中心人物は斉昭であり、密勅の降下にも彼が関与していたとの疑いを強めた。やがて直弼によって一橋派や尊攘派への大弾圧が開始され(安政の大獄)、水戸藩に対しては、斉昭に永蟄居を命じて再び失脚させ、京都での工作に関わったとみられる藩士に厳しい処分を行った。
ペリーの黒船来航のころアメリカ。軽工業が発達し、製品輸出のための市場を欲していた。ペリーは英国に対抗し中国市場を獲得すべく、太平洋航路を開きたい。そのため日本を拠点としたい。そのための最新鋭の軍艦で日本にやって来た。
ペリーに相対したのが老中・阿部正弘だったのは幸いだった。彼はアヘン戦争のことも知っており、日本が開国して豊かになり、強い軍隊を作らないと清のようになってしまうこともわかっていた。
尊王攘夷運動 八月十八日の政変
「尊王攘夷運動の展開地図 ©世界の歴史まっぷ」より引用
この前後、京都の動きに呼応して、公家の中山忠光(1845〜64)、土佐藩士の吉村虎太郎(1837〜63)らが大和五条の幕府代官所を襲った天誅組の変また、福岡藩を脱藩した平野国臣(1828〜64)、公家の沢宣嘉さわのぶよし(1835〜73)らが但馬生野の幕府代官所を襲った生野の変、藤田小四郎(1842〜65)ら水戸藩尊攘派が筑波山に挙兵した天狗党の乱など、尊攘派の挙兵が相ついでおこったがいずれも失敗に終わった。
倒幕に成功したが新政府内にはまだまだ尊王攘夷を捨てられない人がいた。そのため大久保らは彼らの価値観を転換させることを目的として、欧米外遊を決める。それが岩倉使節団。大臣の半分以上が二年も欧米に外遊するという無茶な話だったが、リーダー層の価値観を転換させるのには奏功した。
また岩倉使節団は日本と世界の国力を正確に分析していた。使節団がめぐった国の順番はGDPの大きさ順になっている(アメリカ→イギリス→フランス→ドイツ)。」
〇〇宮は公武合体で北朝の天皇を維持するつもりだったのに明治維新では南朝になってしまった。さらに、廃藩置県で今までの既得権益が大きく棄損される、さらにさらに廃仏毀釈では従来の寺社権益の多くが神社へと移ってしまった。要は、〇〇宮は大敗北だったのか?いえいえ、これらを仕組んだのは岩倉具視です。つまり、彼は〇〇宮の上、さらにはマセソン陣営の上、両者を天秤にかける地位にいたということになります。
岩倉は北朝孝明のすぐそばに居ながら南朝に政権を与えるという裏切りをする。彼が天皇を殺したとは言わないが、真剣に攘夷を主張する天皇が邪魔だったのは間違いないでしょう。また、德川に対しては和宮を家茂に降嫁させることで公武合体を進め、慶喜には身の安全を保証することで江戸城を無血開城させる。要は両天秤を掛ける役目を持っていたということです。
つまり日本の〇〇宮はあくまでも日本の支店であり、この上にさらに本店の〇〇宮があるということで、動いている当人ですらその上がどう動いているかはわからないわからないというのだという。ここが世界支配の奥深いところで、どこまでが手のひらの上なのか各陣営のトップでもよくわからないという話です。
岩倉具視をもう少し書いておきます。堀川康親の次男に生まれ岩倉家へ養子となる。妹の紀子は孝明天皇の側室に入る。できた子供が堀河辰吉郎である。この辰吉郎が上田なにがしである。ここから大日本皇道会となり大本、北朝鮮・・・・怖くて書けない・・・となってゆく。日本の中に当時大きな起爆剤が埋め込まれたということで、明治が南朝になったとしてもいつでも体制をひっくり返せる準備は整えたということになります。
S氏から聞いた話によれば、〇〇宮は第二次大戦を南朝のせいにし、大戦後は北朝に戻そうという意図があり、そのために大正時代は昭和へのつなぎでしかなく、最初から短期で終わることは決まっていたという。そのため裕仁の兄弟はすべて父親が違いいくつかの派閥が相争っている状況だったそうです。
とりあえず、今回はここまでにします。長くてごめんなさい。でもまだまだ書かなければならないことがたくさんあるのです。
先ほどS先生から電話をいただき、少々手直しをしました。
〇〇宮は100年先を見ているという話だそうですが、それでは明治維新のプロジェクトはいつごろから実行に移されたのか?そして何を目指したのか?
前回少しだけ書きましたが英国とロシアのグレート・ゲームですが、これぞまさしく地政学(英国のですが)というものそのものです。メソポタミアからスタートしたウバイドが東の果てに行き着いたのが日本、西へ向かった先が英国、その両国が同盟を結んだのが日英同盟。これは日露戦争を起こすためのものって言うか、ロシアとの戦争に日本を巻き込むためのものだった。英国の最大の敵となったロシアという国はもともとはドルイドが一番最初に上陸した、言ってみれば同志ではないのだろうか。要は、ドルイドからすれば右手と左手みたいなものだろうか、そこまでは僕にはわからない、玉ねぎの皮のようにどこまで行っても答えは見つからない。
ただ言えることは、私の読者は英国、ロシア、米国などという国家という概念は間違っていることを知っている。だからあくまで便宜上であり、実はヘッセンの中のイエズス会なのかシオニストなのか、あるいは米北軍、南軍なのか、あるいは〇〇宮なのか・・・などを考えてゆかねばならない。国境で区切られた国で考えるほうがよほど簡単なのだけど‥‥。
英・ロのグレートゲームの本質はヘッセンのロマノフ王朝の持つ金塊の強奪ですが、実はギリシャ正教への妬みもあったとみるべきでしょう。まあ、第一次大戦でその決着がつきますが、よもやその金塊が最終的に中野学校の手に落ちるとは、歴史というのはたまには小説より奇なりということが起きるものですね。
とりあえずグレートゲームを調べると「第1期のグレート・ゲームは、一般にほぼ1813年から1907年の英露協商までの期間を指し、狭義には、グレート・ゲームとは専らこの時期の英露によるアフガニスタンを巡る抗争を指す。この時期の英露抗争は中央アジアからインド洋を目指すロシアの南下と、インドの征服事業を進めた英国との間で争奪ポイントとなったアフガニスタンにおいて争われた。」とある。いずれにしても不凍港を求め南下するロシア、それを封じ込めたい英国の思惑、それが日本を明治維新に導く大きな要因だったことは言うまでもない事です。
さらに英国は南アでのボーア戦争を戦っており、さすがに手一杯なので日本を味方にするか占領してしまうか慎重に調べていたことでしょう。
さて、話を日本に戻し、一体○○宮は明治維新のプロジェクトをどのあたりから始めたのかを考察してみましょう。
まず一番最初のスタートは光格天皇までさかのぼらなければならない。即位が1780年のことだから、明治維新の王政復古が1868年、本当に100年を見通しているのかも・・・。
「光格天皇は、日本の第119代天皇(在位: 1780年1月1日〈安永8年11月25日〉 - 1817年5月7日〈文化14年3月22日〉)。傍系・閑院宮家の出身であるためか、中世以来絶えていた朝儀の再興、朝権の回復に熱心であり、朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されている。父・典仁親王と同じく歌道の達人でもあった。
安永8年10月29日(1779年12月6日)、後桃園天皇が崩御したとき後継候補者として伏見宮貞敬親王・閑院宮美仁親王と美仁親王の弟・祐宮師仁親王の3人がいたが、先帝の唯一の遺児欣子内親王を新帝の妃にするという構想から既婚の美仁親王が候補から消え、残り2人のうち近衛内前は貞敬親王を、九条尚実は師仁親王を推薦した。会議の結果、貞敬親王の方が年下で内親王とも年が近いものの、世襲親王家の中で創設が最近で、天皇と血筋が近い師仁親王が選ばれ、急遽養子として迎え入れられた。」(以上wiki)
つまり、近衛(北朝)と九条(南朝)という東西両巨頭の間で張り合った中で九条家が勝利したということかな。
で、光格天皇には特筆すべきことが3つあります。
一つは天明の大飢饉の際に幕府に民衆救済を申し入れるという禁中並公家諸法度に対する違反を犯したが、幕府にも落ち度があるとして不問にとされたこと。天皇が幕府に口をはさむ最初だったと。
2つ目はゴローニン事件では幕府に経過を報告させるという強い態度を示したこと。これがのちの日米和親条約を幕府が勝手に調印した時に前例として効いてくる。
ゴローニン事件とは・・・・1811年(文化8年)、千島列島を測量中であったロシアの軍艦ディアナ号艦長のヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニンらが、国後島で松前奉行配下の役人に捕縛され、約2年3か月間、日本に抑留された事件である。ディアナ号副艦長のピョートル・リコルド(ロシア語版)と、彼に拿捕そしてカムチャツカへ連行された高田屋嘉兵衛の尽力により、事件解決が図られた。
3つ目は光格の息子が中山家に養子に出され、ここが京中山家となる。実にここからあの天誅組が始まるわけです。この派閥は現在でも北朝勢力として力を持っているとか…。
「京中山家初代忠伊(ただこれ)卿は119代光格天皇の第六皇子で、幼名武生長仁中山大納言家に臣籍降下し忠伊と名乗る」(観命学とはなにか?より引用)
まあ、尊王の芽生えはこのころからかな・・・・という感じですか。
さて、話は変わり、水戸へ移ります。(歴史探偵さまの記事をお借りします)
「改めて攘夷の"夷"は「えびす」で野蛮な外国人のこと。"夷"と反対の漢字は"華"。世界の真ん中で最も高い文明と華麗な力を誇る国=中華の国=中国を指す。
しかし光圀時代の日本に、日本こそ中華な国である、という意識を光圀に植えつけた人物がいた。それが明国の儒学者・朱舜水。
朱舜水は儒教の国・明の崩壊を目の当たりにする。その際、皇帝に対する忠臣が少ないことに絶望した。一方で彼は日本で水戸光圀に会う。光圀の政治家としてのふるまい、楠木正成のように後醍醐天皇への忠誠に殉じた忠臣の存在、古代から連綿と続く天皇家の存在などを知り、日本こそ、本当の中華であり、理想国家なのでは、と考えた。そしてその考えを光圀に伝えた。これが水戸藩の中に「日本こそ理想の儒教的国家であり、中華な国である」という意識を植えつける端緒となった。
また朱舜水は、そのような素晴らしい日本の歴史を日本人自身が確認するため、司馬遷の『史記』のような歴史書の編纂を光圀に勧めた。光圀はすでに『大日本史』の編纂を進めていたので、中国の学者からお墨付きをもらう形になった。」(引用以上)
以前、水戸家と近衛家のつながりは自給さんのブログが明らかにしていましたが、徳川家というよりも近衛家の血流として明治維新の役割を果たすことになったのでしょう。
「近衛 尋子(このえ ちかこ、寛永15年(1638年)10月 - 万治元年閏12月23日(1659年2月14日))は、江戸時代前期の女性。水戸藩第2代藩主・徳川光圀の正室。通称は泰姫(たいひめ)、台姫。院号は法光院。諡号は哀文夫人。」(wiki)
安政の大獄と桜田門外の変など水戸藩が中心となった幕末の出来事は多く興味深いのですが、明治維新の一連の改革が終わり、世間が落ち着いてみると、水戸藩の果たした役割は単なるきっかけ作りに過ぎないことが分かるのです。
例えば天狗党の乱などを調べると、いくら命が安かった時代とは言え、人命がいかにぞんざいに扱われたものかと思わざるを得ません。
攘夷とは、開国やむなしという幕府に対しいちゃもんをつけたい勢力が主張した無理筋の思想であり、その証拠として各陣営とも明治新政府になると攘夷どころか世界に追い付け追い越せとなんてしまったではないですか。要は、そのようなものは看板程度のものだったわけです。
さて、キリシタン禁止令だったにもかかわらず、全国にイエズス会の代理店がいくつもあったことは今ではよく知られています。例の松平姓を賜った有力大名たちです。
前田、伊達、島津、毛利、黒田、浅野、鍋島、池田、蜂須賀、山内の各大名たちで、松平姓と四品の格を当てていました。つまり、天皇の妃になることができ、つまり次期天皇を生むことができる資格を持っていたということです、キリシタン禁止令の中ですよ。
〇〇宮はイエズス会を操ることで徳川幕府を存続させながらもいつでもそれを覆せる体制を作っていたことになります。長州や薩摩、あるいは伊達家など日本の中心部から比較的離れた地域に起爆剤を埋め込んでいたことになります。
彼らを次期政権の中心に据えてやろうと誘えば喜んで参加してくることは火を見るより明らかだったはずです。
さて、重要なことを書きます。おそらくほとんどの人が知らないことだと思いますが水戸藩というのは実は牛久で勢力を広げていた長州の大内家が作ったものだということです。大内家は田布施、その前が多々良、その前が済州島、その前が百済王、そして実態はヒッタイトの鉄鋼部隊だった。その大内家は地元長州では毛利家に滅ぼされたように見えるが、実は毛利家に名を変えただけで生き延びており、さらに牛久に移り住んでいたのだと‥‥。まあ、びっくりですね。
そんなことで、水戸学と吉田松陰が結び付き尊王攘夷の旗印を掲げるのは至極当たり前のことだったでしょう。
この水戸から出たのが榎本武揚だそうで、彼の話と輪王寺天皇の件は次回に書く予定です。
薩摩と長州が手を取り合う状況に至るまでの経過は長いだけでたいした意味がないため割愛します。なぜなら〇〇宮のシナリオに沿って、なおかつ明治以降に書き直され正当化された歴史になっているだけですから巷にあふれる歴史小説でお楽しみください。
要は、○○宮は自分の右手、北朝を公武合体へ、南朝を尊王攘夷派へと分断し、なおかつシオニスト=マセソン、つまりフリーメーソンを使い日本の現体制を転覆するように仕組んだということです。
退屈だけど、水戸で起きたことを「少しだけ書いておきますね。退屈だから読み飛ばしても結構です。
安政5年8月8日(1858年9月14日)、水戸藩は、幕府による日米修好通商条約調印を不服とする孝明天皇から直接に勅書を下賜されたと称した(戊午の密勅)。折しも将軍継嗣問題を巡って前藩主徳川斉昭らは、一橋徳川家当主で斉昭の実子でもある一橋慶喜を擁立し(一橋派)、大老井伊直弼と対立していた。直弼は、一橋派の中心人物は斉昭であり、密勅の降下にも彼が関与していたとの疑いを強めた。やがて直弼によって一橋派や尊攘派への大弾圧が開始され(安政の大獄)、水戸藩に対しては、斉昭に永蟄居を命じて再び失脚させ、京都での工作に関わったとみられる藩士に厳しい処分を行った。
ペリーの黒船来航のころアメリカ。軽工業が発達し、製品輸出のための市場を欲していた。ペリーは英国に対抗し中国市場を獲得すべく、太平洋航路を開きたい。そのため日本を拠点としたい。そのための最新鋭の軍艦で日本にやって来た。
ペリーに相対したのが老中・阿部正弘だったのは幸いだった。彼はアヘン戦争のことも知っており、日本が開国して豊かになり、強い軍隊を作らないと清のようになってしまうこともわかっていた。
尊王攘夷運動 八月十八日の政変
「尊王攘夷運動の展開地図 ©世界の歴史まっぷ」より引用
この前後、京都の動きに呼応して、公家の中山忠光(1845〜64)、土佐藩士の吉村虎太郎(1837〜63)らが大和五条の幕府代官所を襲った天誅組の変また、福岡藩を脱藩した平野国臣(1828〜64)、公家の沢宣嘉さわのぶよし(1835〜73)らが但馬生野の幕府代官所を襲った生野の変、藤田小四郎(1842〜65)ら水戸藩尊攘派が筑波山に挙兵した天狗党の乱など、尊攘派の挙兵が相ついでおこったがいずれも失敗に終わった。
倒幕に成功したが新政府内にはまだまだ尊王攘夷を捨てられない人がいた。そのため大久保らは彼らの価値観を転換させることを目的として、欧米外遊を決める。それが岩倉使節団。大臣の半分以上が二年も欧米に外遊するという無茶な話だったが、リーダー層の価値観を転換させるのには奏功した。
また岩倉使節団は日本と世界の国力を正確に分析していた。使節団がめぐった国の順番はGDPの大きさ順になっている(アメリカ→イギリス→フランス→ドイツ)。」
〇〇宮は公武合体で北朝の天皇を維持するつもりだったのに明治維新では南朝になってしまった。さらに、廃藩置県で今までの既得権益が大きく棄損される、さらにさらに廃仏毀釈では従来の寺社権益の多くが神社へと移ってしまった。要は、〇〇宮は大敗北だったのか?いえいえ、これらを仕組んだのは岩倉具視です。つまり、彼は〇〇宮の上、さらにはマセソン陣営の上、両者を天秤にかける地位にいたということになります。
岩倉は北朝孝明のすぐそばに居ながら南朝に政権を与えるという裏切りをする。彼が天皇を殺したとは言わないが、真剣に攘夷を主張する天皇が邪魔だったのは間違いないでしょう。また、德川に対しては和宮を家茂に降嫁させることで公武合体を進め、慶喜には身の安全を保証することで江戸城を無血開城させる。要は両天秤を掛ける役目を持っていたということです。
つまり日本の〇〇宮はあくまでも日本の支店であり、この上にさらに本店の〇〇宮があるということで、動いている当人ですらその上がどう動いているかはわからないわからないというのだという。ここが世界支配の奥深いところで、どこまでが手のひらの上なのか各陣営のトップでもよくわからないという話です。
岩倉具視をもう少し書いておきます。堀川康親の次男に生まれ岩倉家へ養子となる。妹の紀子は孝明天皇の側室に入る。できた子供が堀河辰吉郎である。この辰吉郎が上田なにがしである。ここから大日本皇道会となり大本、北朝鮮・・・・怖くて書けない・・・となってゆく。日本の中に当時大きな起爆剤が埋め込まれたということで、明治が南朝になったとしてもいつでも体制をひっくり返せる準備は整えたということになります。
S氏から聞いた話によれば、〇〇宮は第二次大戦を南朝のせいにし、大戦後は北朝に戻そうという意図があり、そのために大正時代は昭和へのつなぎでしかなく、最初から短期で終わることは決まっていたという。そのため裕仁の兄弟はすべて父親が違いいくつかの派閥が相争っている状況だったそうです。
とりあえず、今回はここまでにします。長くてごめんなさい。でもまだまだ書かなければならないことがたくさんあるのです。
この山口に変わった大内氏が水戸徳川の正体ってことですか?
記憶が確かなら、以前マヨさんの記事で山口組の名前が山口なのは意味がある、と言うようなことを読んだように思うのですが、その意味とは何でしょうか。(勘違いであれば失礼致します。)
名無し先生からの謎かけの答えになってるかどうかは分かりかねますが、毛利氏家臣団(一門)の中の毛利右田家。
そして右田氏のWikiの中に、
(転載開始)
平安時代末期に周防国の在庁官人であった大内盛房の弟、盛長が佐波郡右田を所領として分家したことに始まる。鎌倉時代後半の当主、大内弘俊が初めて右田氏を称した。南北朝時代に入ると右田弘直は大内義弘に従い、石見国守護代に任じられた。
戦国時代に入ると大内氏は勢力を伸ばしたが、天文20年(1551年)の大寧寺の変で当主の大内義隆が自害し、天文24年(1555年)の厳島の戦いでは義隆を弑逆した陶晴賢が毛利元就によって敗死。同年末から始まる防長経略によって最後の当主大内義長も自害した。右田隆量は山口陥落前に毛利氏に降伏して、その家臣となった。隆量は元就の七男・天野元政を養子に迎え、右田氏を継承させた。元政の子孫は毛利一門・右田毛利家として存続した。
(転載終り)
と言ふのが有りました。
右田氏の家紋も唐花菱のようですが。
人生は短いので調べるにも限度があります。ご協力感謝いたします。