もう何週間調べているのだろうか・・・・何を?
「長州と水戸の関係」をです。まったく関係のないように見える二つの藩がまるで連携を取っているように同時に同じような方向へ動いたのはどうしてなのか?
ヒントはいただいていた。「水戸学」と「虎銭」、そして川崎定徳この三つである。
先日がんちゃんから牛久藩に山口氏がいることを指摘されていた。しかし、牛久と水戸は近いけれど関連は見いだせない。
やはり水戸学から探すしかないようだ。
距離的にも遠いこの二藩が、藩士レベルとはいえ、「成破の盟約」(万延元年)をむすび、水戸天狗党が滅びるまで(元治元年)、密かに協力して活動してきたことは歴史が証明するところです。
ネットには情報が溢れている、しかし長年歴史を学んできた経験からすると、最低限事実は事実として認めるにしても、その背景にある真実はまず書かれることはないということです。例えば大内家は歴史上滅びたことになっているにもかかわらず、現実には毛利家を支配していたとS氏は語っています。しかし、そんなことどこにも書いてないじゃないですか。
今回、水戸家が大内氏に支配されていた証明はなんとしても自分で見つけ出さねばならない。
水戸学を調べている中で大内正敬という人物が見いだされた。そこから遡ると常陸源氏が登場する。「佐竹氏は常陸(現在の茨城県あたり)の守護・戦国大名で、「新羅三郎義光」の流れをくむ氏族とされています。常陸国司であった義光の孫にあたる「源昌義」が、久慈郡佐竹郷に土着したことから地名を氏族の公称としたのが始まりです。」
wikiで佐竹氏を調べると「佐竹氏(さたけし)は、日本の氏族のひとつ。日本の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の流れをくみ、常陸源氏の嫡流。武田氏に代表される甲斐源氏と同族である。」
大内氏は本姓多々良氏で百済王の流れであり新羅三郎では困るんだけど、百済も新羅も源氏になっているのかもしれない。清和源氏、河内源氏、佐々木源氏などいくつも源氏は存在する、日本に攻め込んで日本に土着した武士団がひとまとめに源氏を名乗った可能性がある。いまのところ真実は私たちにはまだわからない。
さて、水戸藩大内氏でwikiを調べると、ちゃんとあるじゃありませんか。
「水戸藩郷士 大内氏 本姓 清和源氏義光流 種別 武家 地下人 出身地 常陸国 著名な人物 大内清衛門
主家の秋田転封に随行せず、常陸国に在国した大内氏については、水戸藩により郷士に取り立てられた。大内勘右衛門は田中中村に50石を与えられたという。この郷士登用には水戸藩の新藩主となった水戸徳川家が旧領主 佐竹氏一門の西丸氏や長山氏などとともに配下に組み入れることで撫民政策を取る狙いがあったという。 また、水戸藩領内からは江戸時代中期から後期にかけて活躍した大内清衛門が出る。清衛門は諱を利貞といい代々、那珂郡前浜村に隅、後に湊村に移り、回船・海産物問屋を営み、北海道貿易で巨利を得るという。兄の大内五郎衛門彰信の養子となり、献金により郷士となるという。格式代官列、350石を給され、勘定奉行、格式小納戸役、湊殻会所仕法懸に昇るという。 また、江戸時代後期に水戸藩の百姓から藩士となった者として、大内正敬が出る。正敬は代々百姓であった久慈郡留村の大内重政の子として生まれたが、小宮山楓軒に師事して、郡方勤となり、弘道館句読師を経て彰考館に入り、歩士格・弘道館訓導、北郡勤め、南郡勤めなど歴任し、小宮山の手代として民政に尽力したという。wiki以上
ここで上の赤文字にある廻船・海産物という言葉で思い出したのは水戸藩勘定方であった川崎八右衛門です。
wikiから
「嘉永2年(1849年)数え年16歳で、家業の回漕問屋を継ぎ、初代八右衛門を襲名。翌年、現在の水戸市成沢町の私塾「日新塾」(加倉井砂山開設)に入門し、砂山の次女である香蘭と結婚。幕末には財政逼迫に苦しむ水戸藩の鋳銭事業に着手。」
つまり、この川崎八右衛門と大内清衛門は同じ人物ではないのか?まあ、ちょっと飛躍した可能性はあるが、川崎と大内は同じような経歴で偶然にしてはできすぎじゃないのか。
川崎氏をこれ以上調べることはできない。どこにも書かれていないからだ。つまり不都合な真実なのだろう。
そういえば、もう一つ課題を忘れていた。榎本武揚という不思議な人物である。後に北海道で蝦夷共和国を建国しようとしたのだが、S氏によれば水戸(大内家から?)から出ているのだという。で、大内清衛門を調べる過程で「大内清右衛門という名で、徳川斉昭の密命で蝦夷地から千島・樺太を調査し、海を渡って沿海州も調査した。その後の経過は、はっきりしないが「蛮社の獄」に連座し、命を落とした。」という話が出てきた。
なぜ榎本にこだわるかと言うと、日本製原爆の起爆スイッチを押した人物は彼の縁者である。まあ、榎本に関してはまた別の機会に書くつもりだが、今回の清右衛門と蝦夷地とのかかわりは偶然とは思えない。
要は、清右衛門は役職であり、該当する人間は複数いたのかもしれない。
まあ、これで大内家と水戸藩のつながりを調べることは終了します。
そうそう、虎銭ですが、鋳銭の技術も必要ですが、なによりも裏付けとなる資金がなければ信用されません。大内家は石見銀山を支配しており、当時世界の銀の産出量の三分の一と言われるほどであったわけで、どこの藩でも可能だったわけではないのです。
川崎氏=大内氏という仮説が成り立つ理由はそこにあります。
さて明治維新を調べるとまだまだ伝えなければならないことがたくさんあることが分かってきます。
つまり、水戸家も大内家も明治維新の主役級ではありますがまだまだ主役ではありません。岩倉具視にはまだ触れていません。
でわまた。
追記 まゆみさんからコメントをいただきました。ありがとうございます。僕がブログを始めてまもなく知り合った方です。最初のブログは「マヨのぼやき」だったかな・・・2007年ですからもうひと昔前ですね。
当時は何もわからないまま、思ったことを思いつくまま書いていたので今読むのは怖いですね。(絶対に読みません)
一番最初は鬼塚英昭さんの応援ブログから始まり、鬼塚さんとけんかして「シバちゃんのため息」に移ります。そしてそのころサムライさんと知り合い影響を受けます。そしてまた彼とケンカして「マヨの本音」に移ります。そしてS氏と知り合い大変なことになりました。従来の常識をひっくり返されました。しかし残念ながらさることで破門されブログは休止しました。そして今年の夏に再開しました。メソポタミア・ヴァレーの紹介ブログとしての再開です。私の役割は正式には何も決まっていませんが勝手に食育と歴史シュミレーションだと考えています。今回の明治維新のシリーズはその準備の一環ですが、私としての訓練でもあります。要は、歴史書に書かれていない真実を明らかにすることです。簡単に終わるつもりだったのですがやはりとても大変です。日本も世界の一部であることを意識しないと意味がなくなります。だから時間を縦軸に、世界を横軸に見て考察しなければなりません。
まだまだ思う通り行きませんがもう少し我慢してお付き合いください。
「長州と水戸の関係」をです。まったく関係のないように見える二つの藩がまるで連携を取っているように同時に同じような方向へ動いたのはどうしてなのか?
ヒントはいただいていた。「水戸学」と「虎銭」、そして川崎定徳この三つである。
先日がんちゃんから牛久藩に山口氏がいることを指摘されていた。しかし、牛久と水戸は近いけれど関連は見いだせない。
やはり水戸学から探すしかないようだ。
距離的にも遠いこの二藩が、藩士レベルとはいえ、「成破の盟約」(万延元年)をむすび、水戸天狗党が滅びるまで(元治元年)、密かに協力して活動してきたことは歴史が証明するところです。
ネットには情報が溢れている、しかし長年歴史を学んできた経験からすると、最低限事実は事実として認めるにしても、その背景にある真実はまず書かれることはないということです。例えば大内家は歴史上滅びたことになっているにもかかわらず、現実には毛利家を支配していたとS氏は語っています。しかし、そんなことどこにも書いてないじゃないですか。
今回、水戸家が大内氏に支配されていた証明はなんとしても自分で見つけ出さねばならない。
水戸学を調べている中で大内正敬という人物が見いだされた。そこから遡ると常陸源氏が登場する。「佐竹氏は常陸(現在の茨城県あたり)の守護・戦国大名で、「新羅三郎義光」の流れをくむ氏族とされています。常陸国司であった義光の孫にあたる「源昌義」が、久慈郡佐竹郷に土着したことから地名を氏族の公称としたのが始まりです。」
wikiで佐竹氏を調べると「佐竹氏(さたけし)は、日本の氏族のひとつ。日本の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の流れをくみ、常陸源氏の嫡流。武田氏に代表される甲斐源氏と同族である。」
大内氏は本姓多々良氏で百済王の流れであり新羅三郎では困るんだけど、百済も新羅も源氏になっているのかもしれない。清和源氏、河内源氏、佐々木源氏などいくつも源氏は存在する、日本に攻め込んで日本に土着した武士団がひとまとめに源氏を名乗った可能性がある。いまのところ真実は私たちにはまだわからない。
さて、水戸藩大内氏でwikiを調べると、ちゃんとあるじゃありませんか。
「水戸藩郷士 大内氏 本姓 清和源氏義光流 種別 武家 地下人 出身地 常陸国 著名な人物 大内清衛門
主家の秋田転封に随行せず、常陸国に在国した大内氏については、水戸藩により郷士に取り立てられた。大内勘右衛門は田中中村に50石を与えられたという。この郷士登用には水戸藩の新藩主となった水戸徳川家が旧領主 佐竹氏一門の西丸氏や長山氏などとともに配下に組み入れることで撫民政策を取る狙いがあったという。 また、水戸藩領内からは江戸時代中期から後期にかけて活躍した大内清衛門が出る。清衛門は諱を利貞といい代々、那珂郡前浜村に隅、後に湊村に移り、回船・海産物問屋を営み、北海道貿易で巨利を得るという。兄の大内五郎衛門彰信の養子となり、献金により郷士となるという。格式代官列、350石を給され、勘定奉行、格式小納戸役、湊殻会所仕法懸に昇るという。 また、江戸時代後期に水戸藩の百姓から藩士となった者として、大内正敬が出る。正敬は代々百姓であった久慈郡留村の大内重政の子として生まれたが、小宮山楓軒に師事して、郡方勤となり、弘道館句読師を経て彰考館に入り、歩士格・弘道館訓導、北郡勤め、南郡勤めなど歴任し、小宮山の手代として民政に尽力したという。wiki以上
ここで上の赤文字にある廻船・海産物という言葉で思い出したのは水戸藩勘定方であった川崎八右衛門です。
wikiから
「嘉永2年(1849年)数え年16歳で、家業の回漕問屋を継ぎ、初代八右衛門を襲名。翌年、現在の水戸市成沢町の私塾「日新塾」(加倉井砂山開設)に入門し、砂山の次女である香蘭と結婚。幕末には財政逼迫に苦しむ水戸藩の鋳銭事業に着手。」
つまり、この川崎八右衛門と大内清衛門は同じ人物ではないのか?まあ、ちょっと飛躍した可能性はあるが、川崎と大内は同じような経歴で偶然にしてはできすぎじゃないのか。
川崎氏をこれ以上調べることはできない。どこにも書かれていないからだ。つまり不都合な真実なのだろう。
そういえば、もう一つ課題を忘れていた。榎本武揚という不思議な人物である。後に北海道で蝦夷共和国を建国しようとしたのだが、S氏によれば水戸(大内家から?)から出ているのだという。で、大内清衛門を調べる過程で「大内清右衛門という名で、徳川斉昭の密命で蝦夷地から千島・樺太を調査し、海を渡って沿海州も調査した。その後の経過は、はっきりしないが「蛮社の獄」に連座し、命を落とした。」という話が出てきた。
なぜ榎本にこだわるかと言うと、日本製原爆の起爆スイッチを押した人物は彼の縁者である。まあ、榎本に関してはまた別の機会に書くつもりだが、今回の清右衛門と蝦夷地とのかかわりは偶然とは思えない。
要は、清右衛門は役職であり、該当する人間は複数いたのかもしれない。
まあ、これで大内家と水戸藩のつながりを調べることは終了します。
そうそう、虎銭ですが、鋳銭の技術も必要ですが、なによりも裏付けとなる資金がなければ信用されません。大内家は石見銀山を支配しており、当時世界の銀の産出量の三分の一と言われるほどであったわけで、どこの藩でも可能だったわけではないのです。
川崎氏=大内氏という仮説が成り立つ理由はそこにあります。
さて明治維新を調べるとまだまだ伝えなければならないことがたくさんあることが分かってきます。
つまり、水戸家も大内家も明治維新の主役級ではありますがまだまだ主役ではありません。岩倉具視にはまだ触れていません。
でわまた。
追記 まゆみさんからコメントをいただきました。ありがとうございます。僕がブログを始めてまもなく知り合った方です。最初のブログは「マヨのぼやき」だったかな・・・2007年ですからもうひと昔前ですね。
当時は何もわからないまま、思ったことを思いつくまま書いていたので今読むのは怖いですね。(絶対に読みません)
一番最初は鬼塚英昭さんの応援ブログから始まり、鬼塚さんとけんかして「シバちゃんのため息」に移ります。そしてそのころサムライさんと知り合い影響を受けます。そしてまた彼とケンカして「マヨの本音」に移ります。そしてS氏と知り合い大変なことになりました。従来の常識をひっくり返されました。しかし残念ながらさることで破門されブログは休止しました。そして今年の夏に再開しました。メソポタミア・ヴァレーの紹介ブログとしての再開です。私の役割は正式には何も決まっていませんが勝手に食育と歴史シュミレーションだと考えています。今回の明治維新のシリーズはその準備の一環ですが、私としての訓練でもあります。要は、歴史書に書かれていない真実を明らかにすることです。簡単に終わるつもりだったのですがやはりとても大変です。日本も世界の一部であることを意識しないと意味がなくなります。だから時間を縦軸に、世界を横軸に見て考察しなければなりません。
まだまだ思う通り行きませんがもう少し我慢してお付き合いください。
流刑と言っても玉ですから、地域ではお種をいただき、大切に育てられたんだと思います。
参考になりました。ありがとうございます。
治承二年(1178)十月、多々良盛房・弘盛・盛保・忠遠の四人が流罪を赦されて、それぞれ常陸・下野・伊豆・安房の地から帰国したことが、九条兼実の日記『玉葉』に見えている。
とありました。多々良は大内だから、流刑とはいえある意味赴任してたんでしょうか。
島津はイエズス会です。つまりカトリックですね。どちらも明治維新で大儲けをしたわけでスケープゴートだったとは思いません。
明治維新の考察、ざっと読みました。
山口では大内家は観光事業にほとんど活用されていません。
大内館跡の龍福寺の発掘調査が行われたのが5~6年前で、「やってなかったのかよ」て感じに思ってました。実際に瑠璃光寺くらいですからね、観光名所の大内家関連は。
山口は全国の県庁所在地ではダントツの田舎なんですが、私はこれは長州が明治維新のスケープゴートだからではないかと思っています。
明治維新の司令塔はカラー革命なんで当然長崎な訳で、重要な事件も薩摩がやってますよね。
島津斉彬はユダヤ教徒という話もあるそうで、やはりスケープゴートとして利用されてるんではないかと疑っています。
何か資料にあたった訳ではないので単なる私見ですが、マヨさんはどうお考えですか?
米大統領選はまだ終わりません、新しい南北戦争になりかねないという、誰が喜ぶのやら・・・。
今回の事態で大統領選のあり方を根本的に変えてしまう可能性があります。
雑談レベルで申し訳ないのですが…長くてすみません…またまたザッと読んで下さい。
>水戸藩というのは実は牛久で勢力を広げていた長州の大内家が作ったものだということです。
からの~
>>牛久と英国オックスフォードの由来、牛つながりモゥ想
~wiki引用〜
オックスフォードはサクソン時代に人が居住しはじめ、最初は古英語でオクサンフォルダ(Oxanforda)として知られた。 oxanforda とは雄牛(oxen)が渡ることのできる浅瀬(ford)の意味である(イギリスに多くある地名の「〜フォード」は、浅瀬・渡場の fordに起源がある。ドイツ語地名の「〜フルト」
ステータスを持つ地方行政区(local government district)。
英語圏において最も古い大学であるオックスフォード大学の拠点であることから、大学都市として有名。漢字では牛津と表記される。
オックスフォード南東部のカウリー(Cowley)は、自動車製造の長い歴史を持ち、現在でもBMWミニを製造している。
~ここまで~
牛久藩というのがあったんですね。当主は1932年まで。
「オックスフォード大学ボドリアン図書館に日本の書籍が初めて入庫したのは1629年のこと。1873年には最初の日本人学生である岩倉具経が入学しました。(岩倉...
!!!)
世界屈指の日本研究で知られる本校の日産現代日本研究所や東洋学研究所は、日本研究の分野で世界をリードし、学部生・大学院生の教育をおこなっています。
https://oxfordujapan.org/?lang=ja 」
以上、検索のきっかけは「刑事モース」という英国の刑事(推理ミステリー)物です。
ドラマ内ではほんのりフリーメーソンの味付けもあります。
秘密結社話が日常に違和感なく存在する英国庶民。
ドラマでは警察上層部の各既得権益層(宗教家、経営者、貴族等)への癒着や繋ぎ役になるギャング、過去のアラブ・インド支配への自虐、原爆への皮肉が描かれているのに超々人気というのだから英国民は懐が深いなと思います。
牛久近辺にある某国立大学ってOX牛さんをリスペクトしてあのロケーションなんでしょうかね?
牛津...牛久沼...
「エウロペ(Eurōpē) ギリシア神話で、フェニキアのテュロス王の娘。
白牛に変身したゼウスにクレタ島へ連れ去られ、ミノス、ラダマンテュス、サルペドンを生む。
彼女がこの牛に乗せられて巡行した地域がヨーロッパと呼ばれるようになったという。」
今回の米国大統領選挙案件、弁護士シドニー・パウエル女史が「独立戦争」と言ってますね。
長い小説は大変なので超短編で何かを書いてみたいですね。題して「超短編 榎本蝦夷共和国建国」なんてぜひやってみたいものです。ただそれだけの材料がそろえば・・・・ですが。まあ、気長にお待ちください。
頭に入りやすくなるので小説シリーズも書いていただけると嬉しいです。記事を楽しみにしております。