不器用ゆえ番組も続いたと思っていたという。得意でないから真剣な顔で手を動かし、うまくいくと本当にうれしくて笑った。台詞(せりふ)がなく、表情や仕草(しぐさ)が頼みのノッポさん役。芸能界で仕事のない不遇の日々を経てそれをつかみ、花開いた
ひとって、弱いところを臆さずに示せるひとを、けなしたり貶めたりしにくくなる心理があるうえ、当人の当惑をよそに堂々と「弱さでござい」とまで至れば、かえって親近感と賛同、助力を与えたくなるという不思議な生き物です。
のっぽさんが不器用だなんて、幼少の私は微塵も感じなかったし、ただ微笑んで、時々ものすごい真剣な形相が、子供心に偽らざるものであるのは見て取れた。現在で言う五味太郎先生が、絵本で子供と真っ向勝負に挑んでるのと同じくらい、しゃかりきんなって子供に向かってくる心地の良さがあったんです。
のっぽさんが器用か不器用かすらも感知しなかった以前に、器用かどうかは問題視の思考のうちにも登らなかった。気にならなかった。作れて楽しめてるっていう雰囲気だけにしか、目はいかなかった。
弱いところを積極的に使う。
中学の時にカーネギーの本で知ったことだった。
瀟洒なパーティの席で、周りに比してそぐわなさを感じてた女性は、話を聞く側に徹した話があった。
あのとき、わたしは、ほとんどなにもしゃべらなかったのである。
しゃべろうにも、植物学に関してはまったくの無知で、話題を変えでもしないかぎり、わたしには話す材料がなかったのだ。
もっとも、しゃべるかわりに、聞くことだけは、たしかに一心になって聞いた。心からおもしろいと思って聞いていた。
それが、相手にわかったのだ。
したがって、相手はうれしくなったのである。こういう聞き方は、わたしたちがだれでも与えることのできる最高の賛辞なのである。「聞き手にまわる」より
弱みは他者には伝播せず、むしろ隠し果(おお)すがための苦肉の策が、真逆に転じてて、むしろみんなの会話のうちで、「あのひとは会話上手だ」と誤認されるほどの心象を得る話。
弱いところは使うことで別のなにかに変わる。弱さではない。状態なだけなんだ。
のっぽさんにはそうした箴言(しんげん)めいたコンセプトも意図も感じなかった。駄目な人だなんてちっとも思わなかった。あの本当さのほうが私達子供には大事だった。