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人に渡される話で花開くことがある、旨の話を玄侑宗久禅師が仰ってるを聞いたのが、仏教に心惹かれ出す最初で、それそこまで「人は意志の力で」といさんで人にもそういい、自分にもそう強いて生きていました。若かったんです。
無理をしてるのを無理と思えず、自分にも他人にもギリギリを求める振る舞いは、「我慢のふた」に高さまで達するまで、延々「それ以外を見ない」所作に終始するようになっていたのです。
よく出来たもので、「我慢がしきれなくなる」時がきたり「出来てた、ってことの水位の方が下がり出す」が人生に起こり出す時、急激に「従来のやりよう」では立ち行かないなんてことが頻発し出すんです。
これね、誰もにそうなのね。
得意なことだけでやって生き抜けてた人ってね、生涯それで叶うって視座しかない時があるのよ。
ダメになったらそんときゃそん時で、って。
でもね、「ダメになった時」にね、「ダメでなかった時にはできるわ、回避手段があるわ」と思ってた項目のいくつかが、「ダメになったら出来ないよ?」の側に入ってて、その瞬間までしてた仕込みが無惨なほど役に立たないことがあるんだ。
「勝ち抜いてた」ときに見渡せる地平と、「負け出したり、転んだ人の見渡せる地平」は景色が違うの。
勝ってたうちの世界の見え方は褒美みたいに輝いてるけどね、実は負けて転んだ時にも通用する見通せ方がない人には、「空っぽ」同然になるのね。
冒頭の玄侑禅師の言葉は、ちょうどその過渡期に🐼には入ったの。
最初「人の意思に左右されるだなんて・・」な項目だったの。弱い人の着想だ、と切って捨ててたの。
捨ててたつもりだったの。
でも、自身がコテンパンになり、凋落一途の最中では、その「捨ててたものにすがってみるか」くらい選択の余地がなくなる時が、あるのね。自暴自棄に近かった。
強くない、まんまの自分が継続できるもの・・・
それは「人が渡してくれるものを請け負ってみる」でした。
見込んでくれる言葉に、自分では猜疑心があるままでも、やるの。
でね、これが人生の後半では本当に有益なよく効く薬みたいになってきたの。
自分の見立ててる、「そう見ていたい自分像」ではなく、世間に「そう見えてるあなた像」の方が正確で、適切だったの。
言われた通りに精一杯で過ごし、はじめてみたことが、ほんとうに飲み下しやすく、自身の意固地の理由が自分で「・・・なんだったんだ」ってなるほどに。
「見ないで過ごしてきた」ものが、じつは本懐ってことがあるんです。
自分が認めようと認めまいと、「そうである」という世界ってものに、解釈で立ち向かっても、狭量に矮小にしか把握がかなわってないのです。
世界は意味でなりたってるのではなく、ただ、現象として、漠としてそうである、というたたずまいでいます。
返せば「いいのよ、わかってなくたって。多少の無理解と無謀で振る舞ったって、世界の方が飽和できちゃうわ、そんなもん」なんです。
抱擁力を侮るなかれ、なのです。
荒ぶり勇んだ威嚇ばっかりの小者は俗にいう「吠える犬は噛まない」てやつです。
人に委ね、任せても立ちゆく自分、の方が朗らかで鷹揚で、周囲に渡せる安堵も抜群ですもの。
おおらかさに任せに行ける自分ってのも大事なのかも、ですよ。
今朝もね、ひとつ、委ねたんです。
ここ数ヶ月、そうしてるんです。
拾えるかどうかもしれませんけれど、やってみてます。
こわいですから、どれもこれもってなれません。躊躇して、逡巡して、堂々巡りに浸して、熟考のふりして逃げて、のたうって、惨めにして、日干して、繰り返して、格好悪く悶えて、「それでも」なことをこわがったまんま、やるのでした。
タフではないので、休み休みです。
持って生まれた性格はせっかちでイラチで短期の見栄っ張りと来てるので、すぐに「できます!」てt口にしちゃうバカだけど、本当はすぐ倒れて、居座れなくて、朦朧としてる。
でもいいのよ。
それでいて・・なことで、やってくんだ。
みんなそうだから、それもいいじゃない。
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