「自分」という言葉の所以が「自然から分かれて」にあるのを知った時、しゃらくさい!とまで思った不届きものですが、ことの成り行きの上で、自分が自分がと息巻く時よりも、周囲からの思わぬ巡りで事態が動いたり、助けられたりが重なるにつれ、我を張って振る舞う時よりも、自然に任せるスタンスのうちの方が、事態を萌芽させやすく動くのを強く覚えるのです。
「自分がそうしたい」は大事ではありますが、「周りがそうさせてあげたい」はもっと大きな輪を作って動きます。
自分がただあがくよりも、大きく世間のうちにあってあがいてる方が、「ありよう」に作用される手筈が多彩かつ鷹揚に感じられます。
厳密に「思ったとおり」をゴールに定めると、自身の知ってる事や規範の範疇から抜きん出た発想もないのです。
でも大勢の中でどうしていたいのかをあたふたしてると、「これじゃない?」は起こるんですよね。
自分に枠外の智慧に、あ、これは勘付きませんでしたってのがたくさんあるんです。
自分が、と言いながら、「自然の一部分が」と言い換えてもいいように、手出しされる存在として、あらかじめ処置しておける、てのもわきまえておいていいなって思えるようになってきました。
大きなものに巻かれておく、ってんでもないです。どのみち自分は自分ですので。
人が触れるかどうか、の加減に、緩さを保てるのも、力のうちね、ってことなのでしょう。
よそに気づかれる自分であること、も一つ答えなのでしょう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます