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ジブン、なるもの

2025-01-19 18:52:00 | 日記

「自分」という言葉の所以が「自然から分かれて」にあるのを知った時、しゃらくさい!とまで思った不届きものですが、ことの成り行きの上で、自分が自分がと息巻く時よりも、周囲からの思わぬ巡りで事態が動いたり、助けられたりが重なるにつれ、我を張って振る舞う時よりも、自然に任せるスタンスのうちの方が、事態を萌芽させやすく動くのを強く覚えるのです。


「自分がそうしたい」は大事ではありますが、「周りがそうさせてあげたい」はもっと大きな輪を作って動きます。


自分がただあがくよりも、大きく世間のうちにあってあがいてる方が、「ありよう」に作用される手筈が多彩かつ鷹揚に感じられます。

厳密に「思ったとおり」をゴールに定めると、自身の知ってる事や規範の範疇から抜きん出た発想もないのです。

でも大勢の中でどうしていたいのかをあたふたしてると、「これじゃない?」は起こるんですよね。

自分に枠外の智慧に、あ、これは勘付きませんでしたってのがたくさんあるんです。


自分が、と言いながら、「然の一部が」と言い換えてもいいように、手出しされる存在として、あらかじめ処置しておける、てのもわきまえておいていいなって思えるようになってきました。


大きなものに巻かれておく、ってんでもないです。どのみち自分は自分ですので。

人が触れるかどうか、の加減に、緩さを保てるのも、力のうちね、ってことなのでしょう。


よそに気づかれる自分であること、も一つ答えなのでしょう。


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