Pandakingなgooブログ

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「砂漠の中の日本庭園」アメリカ・マンザナール強制収容所

2011-09-14 14:06:50 | 日記
私がまとめ録りしたNHKドキュメンタリを見れるのは週一か隔週に1日なので、今更感のある話題になるかもしれないけれど、このドキュメンタリにはしみるものがあった。

戦中の強制収容所の中で、手作りの日本庭園を作り上げた日系1世たちがいた。池があって、意味のある石が置かれ、そこにたたずむことのできる場所を作った。日本人の挟持を示したとナレーションは入ってた。
心根に、民族を落ち着かせる風景を作りたいと思わせたもの。住まいが乾いた風の吹き込んでくるバラックなのに、庭園が心を潤わせた。すごい念がこもってる。実際「あるもの」以上の価値で、「こもる」ものと、それを読み取って、元気を出す人がいた。
こういう心の道路みたいな道筋を描ける力が、人にはある。

収容所で生き残った人もいる。その人にコメントをもらおうと、やってきたテレビクルーに言った。「お前たち、もう二度とここへ来るな」。軽く放ったように聞こえる言葉が、ものすごく重かった。思い出すのも嫌な生き方を経てきた人には、懐かしくも、傷口をこじ開け、塩をすりつけられるような過去。


眠いんです

2011-09-13 18:51:00 | 日記
一晩中働いていたら、案の定翌日は体内時計がすっかり狂い、曜日感覚も混沌としてきて、どんだけ仮眠調整をはかっても、改善しない一日でした。お風呂に浸かれば整うかしらと二度も入りましたが、とんとうまくいきません。観念して、今日は寝込みました。夕方、やっとすわりがついてきた。

今月は昼夜逆転、というか、「朝・夜・深夜ー早朝」なる3スパンの時間帯でうろうろせねばならぬ事が多く、どうも調子が芳しくない。気持ちが大丈夫でも、体がついてきませんな。

こんな日に限って、今の部屋が「10年に一度のガスメーター交換」とやらで、朦朧としたまま立ち会いをせねばならなかった。じゃあね、ガス屋さん。また10年後まで!

ああ、眠いったら!
来週は遠出。カメラスタンバーイ。


やっぱりかっこいいカメラ

2011-09-13 18:36:04 | カメラ
ネットで8ミリフィルムカメラを見回ってたら、どんどん愉快になってきた。
よくよく思えば私のフィルムカメラの走りは眼レフでもパチカメでもなく、8ミリカメラだった。8ミリフィルムカメラのZX-550で同時録音のできる優れもの。オーバーラップもできた。すごくない?コマ撮りもできたし、高校生当時の私には一番使い勝手のいいカメラだった。ズームだって電動だった。
実家にはP100があったのも大きかった。フィルムポン!ボタンを押すだけで映画が撮れる。露出もピントもいらない。すごい時代だったなぁ。
そしてやっぱりZC-1000。最初は借り物ではじめて触って、触れて、うれしかったなぁ。いいなあ、いいなあ、いいなあってずーっと思ってて、あるとき購入のチャンスが巡ってきたんだけど、高かったなあ。無理して買ったからこそ、大学二年目からのカメラがグンと表現幅を増やしたし、高校から使ってきてた映写機「SD-AUTO」共々、LPLのスプライサーも含めて、「映画が撮れる」環境ができたんだっけ。
ZCはコマ撮り、逆転撮影、スローモーション、多重露光、凝ろうと思えば「手動クランク」もできる、神のカメラだった。大学時代にはとうとうCマウントの広角レンズが買えなかったけれど、本当にこのカメラ一つが、私を遠くに運んでくれてる。モチロン、今も部屋にある。かなりかっこいいカメラだ。かーなーりーカッコイイ。スローモーション撮影なんて、ビデオなんかより、未だに8ミリフィルムの方が表現手段としては格が上ですよ。
ZCを越えるゾッコン惚れ込むカメラには出会えてないなあ。いろんなところで、いろんなもの撮ったもんなあ。


「非己」という考え方

2011-09-12 04:31:14 | 日記
「問い」から始まる仏教 南直哉:著 を読んでおります。うむ、面白い。考え方の根っこに据えるに足るボリュームを感じる。「事実認識」までしたらいいんであって、「真理であって欲しい」とかいう、「正しいもの」として肯定ありきのところに立たないでモノを考える材料として、「非己」はいいカモ。

「謎」は「謎」のまま、とらえること。
これがこわくなっちゃうんだよな、人ってものは。怖いし。
強引に「分かるもの」にすり替えちゃうからいけない。こういう弱さもある。すがったり、信じきっちゃう、という突破も、雑なのだ。「謎」は「謎」と捉える視線も、「あきらめ」が効いてて、実にいい。

自分以外の圧倒的諸々、との対面(非己の大津波)で、自己という輪郭がくっきり仕上がる。やっと「自分」が分かる、というか、「存在」がハッキリする。

師は書いています「『非己』との関係は、常に『非己』の優位において開かれる」「当惑する側より、当惑させる側の方が優位なのだ」。
うん、応じ方で「自分」がはっきりする。無視しようが、反応しようが、相手ではなく、自分が分かる。
ふおお、まだよく解らんが、なんとなく感激したので書いておきます。ふああ。