日本のカトリック教会の現実―私見

2011-07-11 09:15:24 | インポート

昨日、久しぶりに吉祥寺教会に出かけた。在世フランシスコ会の例会に出るためだ。どうせなのでミサも吉祥寺教会の朝のミサに出ることにして早めに行ってみるとなんとこの日は吉祥寺教会の堅信式の日だった。それも司式はおなじみの幸田司教様で、ちょっと驚いた。木曜日に聖書の集いで顔を合わせたばかりだ。

しかし、それはそれとして足の骨を折って心配していた在世会の知人と久しぶりに出会い、かなり歩けるように回復してきたことがわかって本当に安心した。ひどい重傷だったのである。前に長い電話をかけて状況は伺っていたのだが実際、お姿を見るまではどの程度回復したのかわからなかったのだ。でも彼女は当分在世会には出てこないようだ。大怪我をした原因のこともあるのかもしれない。でも時間がたつのを待つしかなさそうだ。

そして、今回の例会でのこと。当方にとってひとつ収穫だったのは、クララ会の話から、今の日本の教会、修道会の現実の状況を思い知らされ、考えさせられたことだった。日本の国自体が高齢化、少子時代を迎えていては当然と言われれば、それは確かに当然かもしれないが、でもしかしかなりショックな話だった。西宮のクララ会(記憶違いだったらごめんなさい)は今、おばあさんのシスターが4人しかいなくて、閉鎖寸前なのだそうだ。ここの会ばかりではなく、どこも新しい人が入ってこないらしい。そういえば神学院にしてもイエズス会にしても30数年前を思えば大変な様変わりだ。時代は明らかに変化しているのだ。

ということは、こちらもちょっと考え直さなくてはいけないことがあるということだ。日本とキリスト教の問題にしても、この、今の現実の社会に生きている方々を対象にしていることを頭においておかないとだめなのだ。もう一度、誰にでもわかるような言葉と内容で、と言う基本に戻る必要があるようなのだ。難解な哲学や論理ではなく、誰にでもわかるやさしい言葉と内容に戻らなくてはいけないのだろう。

仕方がないから、とりあえずまた、「公園のお風呂ダヌキ」を少し撒いてみることにした。ただ、現実に今は自分自身の生活が苦しいから、自腹を切っても読んでほしいところだけだ。わからない人に勝手な思い込みで判断されてこんなもの、誰にでも書けるくらいに思われるのはうれしくない。なぜならここに書いたものこそは、当方の祈り、信仰の根底にあるものなのだから。