夜遅くなっちゃったけど話の続きよ

2013-05-15 23:49:52 | インポート

話の続きよ   2011.2.23
  

(続き)

さて、お話の続きよ。キリスト教の三位一体の“聖霊”なんだけど、うちのおばはんも実は長い間全然わからなかったの。ただねえ、後から振り返るといろいろな道しるべがいくつもあったのね。

あの人のお父さんと言う人は普段は面白いことばかり言って人を笑わせているんだけど、自分の子供に向かって時々すごく難しいことを言ってたの。大体毎年、元日と言うと、家族が揃っておめでとうございますで始めるでしょう。だけど、あの人の記憶では毎年お正月というと、「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」っていうの、一休禅師だったかしらこれを一度は聞かせられるのよね。それとか、真面目くさって、お前わかるか「闇の夜に鳴かぬ鴉の声聞けば、生まれぬさきの父母ぞ恋しき」というんだなとかって、ちっちゃい子がわかるわけもないような難しいことを教え込むから、うちのおばはんも意味もわからないまま覚えこんでいたのよ。

それでねえ、キリスト教の教会に通うようになったとき、その頃はプロテスタントの教会に行ってたんだけど、あるとき、礼拝の中ですべての造られたものよ、神を讃えよというような意味の賛美歌を聞いて、あっと思ったのよ。そうか、闇の夜に鳴かぬ鴉の声聞けばっていうのは、自分はこの世に生まれる前どこにもいなかったんだ、空気だったんだ、無だったんだってわかったの。自分も造られたものなんだってわかったのよ。でも、何年かたってカトリックに改宗してから、長年のお父さんから教えられてきたことの話抜きにこの話をしたら、神父様にあなたは自分を実際以上に見せようとしているとかって言われてチョンよ。全然信用されなくて誤解ばっかりされちゃったの。

あの人の母方のお祖父さんはあの人が小学校1年の時に亡くなったのよ。それがあの人の出会った生まれて初めての死というものだったわけ。うちのおばはんて子供の時から理屈っぽくて、深く考える子だったから、人間が誰でも必ずいつか死ぬのなら、大事なお父さん、お母さんも自分もいつかは死んでこの世にいなくなるって気がついたのねえ。それで終わりの無いものが欲しい。なくならないものが欲しいって思い始めて「永遠」なんてものを考えるようになったのよ。お金やなくなる物なんかじゃなくて、終わりの無いものが欲しいって思ったのよ。もともとが小さいときから深く考える人だったってことは言えるんじゃないかな。

とにかくそんなこんなでカトリックに改宗してカトリック信者として生活するようになったわけ。でも、ほんとにへんてこな誤解やいじめばかりつづいて、ごくわずかな神父様以外、あの人を認めてくれる人がいなかったし、あの人も自分の進路についてはさっぱりわからなかったから、長い間ずっとそのまま生きてきたの。観想的な生活は希望してたけど、自分の場がどうもわからなかったの。

そのうちにとんでもない事件に巻き込まれたり、普通あるはずの無い状況になっちゃったのよ。その辺はここでは省略するけど、ただ、最近になって、ふとしたきっかけでスターウォーズの全巻をDVDで見て、これは現実の世界そのままだって思ったのよねえ。みんなに信用されている人が実は暗黒界の人になってしまっていたり、光と闇、善と悪の戦い、すべて現実そのものなんじゃないの。まあ、これ以上は止めておくわ。

聖霊の話に戻らなくちゃね。

うちのおばはんにとっても、それは二十年も三十年もかけて少しずつわかるようになったとしか言いようがないのよ。昔々、プロテスタントの頃の先輩で今は牧師夫人としてご主人の仕事を支えている知り合いのところに遊びに行った時初めて、御霊さまという名前を聞いたの。それまで聖霊とか、御霊とか、聖書に出てきていても全然考えたことも無かったのが、その方に教えられたのよ。それで、それ以来、聖霊とか御霊のことが気になっていたの。

で、あの人、四谷の教会に行くようになって聖歌隊に入ったのよ。そこで初めて「聖霊の続唱」を歌ったわけ。聖歌隊で歌うのがいいところはね、メロディーと一緒に歌の言葉も覚えられるのよ。祈祷書を読んでも覚えきれない祈りも聖歌を覚えると祈れるようになるの。というわけで「聖霊の続唱」を覚えたおかげで、聖霊がどんな働きをしているのかがよくわかるようになったし、「風がどこから」というやっぱり、聖霊のことを歌っている聖歌があって、それも聖霊について考えさせてくれたの。

それまで神様については父なる神さまと、子なるキリスト止まりだったのが、聖霊なる神様のことがわかるようになってきて、やっと、三位一体の神ということの意味がつかめるようになってきたの。その過程はけっこう長い道のりよ。

あの人がこんなことを書いてるわよ。

―以前にもどこかで書いたことがあるのですが、その昔、聖イグナチオ教会に黙想学校というものがありまして、そこで教わったことは実は今でも非常に役に立っています。どういうことかというと、たとえば観想の祈りと一口にいっていますが、それは大きく分けるとカルメル会的な自分の心の奥深いところで神様と出会う祈りと、もうひとつはアッシジの聖フランシスコのように大自然を初めとする外界、自分の周囲の世界を通して神様と出会う祈りという二つの形があることや、三位一体の聖父と聖子、聖霊の交わりの中で、では人間はどこに位置するのかというと、これがミサの時に祈られる『キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに』と言う言葉の通り、私たち人間はキリストによって三位一体の神の交わりの中にあるのだといったことなどについてです。

また別の神父様の講座では神様と人間の関係を、海と海の水の中のスポンジにたとえて教えていただきました。海は神様、スポンジは私たち人間。海の中ではスポンジの内側にも外側にも海の水がいっぱいでスポンジを支えています。人間も自分では感じなくても実は神様の中で生きていて私たちの内側も外側も神様の力が及んでいるというわけです。

またある時は、まったく違う方向ですが、教会の真和会という定期講演会があって、そこで多磨全生園で長く看護の仕事をされた方のお話を伺う機会があり、その方は第二次世界大戦中、従軍看護婦として南方に行っていらっしゃったのだそうです。それで、朝は元気に笑っていた人が夕方はもうこの世の人ではなくなっていたりするのを目の当たりにして、死にたくない、死にたくないとそればかり思っていたある日、なぜか、どこからか、「人間は自分で生きているんじゃないんだよ」と言う声がしてハッとしたのだそうです。その時に人間は自分で生きているのではない、生かされて生きているのだと気がついてそれ以来考え方が変わり、戦争が終わって日本に戻ってからは当時は不治の病だったハンセン病療養所で働くようになったというおはなしでした。―

つまりこれなのよ。生かされて生きている自分。生かしてくださっているお方。自分はその方の中で存在し、その方に支えられているというのをあの人もある時、ハタと実感したというしかないみたいよ。それであの人も、いろいろあるけど自分で生きてるんじゃないとするとこの先もそれなりに何とかなるだろうって思ったのよ。もともと依存心とか依頼心は強い人だから、、大本の自分を生かしてくださっているお方に依存することにしたんだわよ。

話はもうちょっと続くんだけど、さすがにあたしもくたびれちゃったわよ。あの人ときたら、平気であたしをこき使うの、もうちょっと考えてもらいたいわ。とにかく今日はこの辺で終わりにしますからね。

バイバイ、またね。

 


2011年の大震災以前のplalaブログの再掲載始めます

2013-05-15 21:35:35 | インポート

こんばんは~、マリーで~す。

今度の日曜日はキリスト教じゃ聖霊降臨だから、うちのおばはんも少し自分の今までの信仰とか見直してみようと思ったみたいなのよ。ほんでもって、ずっと前に自分がどういうことを考えたり、どういうことを書いていたのか、過去ブログを遡って読んでみたのね。

そしたらさ、自分でも忘れているものに、すごくいいことが書いてあったりして、あの人自分のブログを読んで反省しちゃってるのよ。まったくあきれるわよ。それでもとにかく、これは自分のためにももう一度、再掲しておくことにするんですって。

読んだことのある人は我慢して読み直すか、とばしちゃってちょうだい。これからしばらく、再掲載が続くけどよろしくね。

今日の分は聖霊降臨の前だから、ちょこっと聖霊の話だわ。こんなのよ。

神は愛なり  2011.2.28
  

こんばんは~、あれっ、おはようございますかなぁ、うちのおばはんが変な時間に思いついてあたしに書けって言うんだもん。なんだかわけがわかんなくなっちゃったわ。あの人、ほんとに人使いが荒いと思わない?今日はもうゆっくりおねんねしようと思ってたのに、あたしを叩き起こして仕事を持って来るんだもん、まったくどうしようもないのよ。

まあ、いいけどさあ、考えが頭に浮かんだときにすぐに書かないと、言葉にまとまらないうちにどこかに飛んでっちゃうんだって。よくわかんないけど、あの人の頭の中にふわふわ浮いてるぼんやりした考えがまとまってくる「時」ってのがあるらしいんだわ。それを逃がしちゃうとまた書けなくなっちゃうんだって言ってるしさ、手伝わないとあの人もいつまでも寝るわけに行かなくなっちゃうもんね。

だいたい話がすっごく難しすぎるんじゃないのかなあ、いつでも、どこでも、そこいらじゅうにいくらでもいっぱいあって、だけど目には全然見えない不思議な力の話なんて普通あんまりしないわよねえ。おまけのその力がこの世界全体を包んでいて、それだけじゃなくてありとあらゆるもの、そこにあるもの全部の中に染みとおっているんだって。そんなの聞いたことある?昔の偉い人は大海原の海の水と、水の中のスポンジにたとえて説明してるんだって。どういうことかっていうとさ、大海原は神様なのよ。それでもってスポンジは人間や動物や存在しているありとあらゆるものよね。ほんでもって、スポンジの外側にも内側にもいっぱいの海の水はそれこそ聖霊ってことになるんじゃないの。

といったって普通の日本人だったら聖霊なんて聞いたことも無いかも知れないのよねえ。まったく困っちゃうんだけど、うちのおばはんは前にどなたからだったか忘れちゃったけど、聖霊は「愛」と関係があるって言う話を聞いたことがあって、それが心にひっかかってるのよ。

でもさ、うちのおばはんなんかキリスト教の「愛」という言葉の意味が長い間理解できなかったのよ。だってねえ、あのひとの育った環境は仏教とか神道の影響が強くて、キリスト教と共通している考え方もあるけれど、「愛」という言葉で連想するのはまず男女の間柄のことになっちゃうのよね。親や兄弟、家族、友達の間柄だったら、親子の情とか友情とか情けということばになるのが本来の日本語よ。「愛」という言葉はごく近年に導入された言葉なんだわさ。

そんなわけで、うちのおばはんが神の「愛」の意味がわかるようになったのは、良い友達や、良い同僚に恵まれていたおかげだと思うわよ。それはね、ある時、会社で自分たちのタイプの機械の掃除をしながらおしゃべりしていたときにふと気がついたのよ。タイプ機も大切に扱わないと故障しやすくなるんだって。お皿やコップも大切に扱わないとすぐに割ってしまうし、大事に扱われていないものはすぐにだめになってしまう。人間も動物も植物も親や友達や仲間から関心を向けられて大切にされていないとおかしくなってしまう。これは何だろうって考えて、あの人、やっとこれが「愛」の力なのかってわかったのよ。「愛」されていないと誰一人生きていられないのよ。この世界全体が大きなお方の「愛」に支えられて存在できているんだってわかったの。

えーとね、佐久間神父様の作詞の子供の聖歌に「わたしたちはさかなのよう、かみさまのあいのなかでおよぐ」っていう歌があるけど、まさにこのことじゃないのかしら。だからあのひと、自分で書いた「公園のお風呂ダヌキ」っていう、おとなの心の中の小さい子のための童話に、形を変えてこの話を入れたのよ。お風呂ダヌキは、gooブログかはてなダイアリーで探せば出てくると思うわ。

というわけで、あの人、よくわからないなりに聖霊の働きと「愛」はたしかに関係があるらしいって思ってるのよ。たださあ、人間は小さい動物や植物と違って、神様のおぼしめしに従いたくなければ従わないことも出来ちゃうのよねえ。だから世の中にいろいろな問題が絶えないんだわ。目には見えない、まるでどこからともなく吹いてきてどこかに消えていく風みたいで、気がつかないと見過ごしてしまう動き、それを見分けていくおめめって今の時代とっても大事なんじゃないのかなあ。むずかしいけどね。神様からのものって見たくないと見えなくなっちゃうのよ。聞きたくないと聞こえなくなっちゃうんだから。

ほんじゃ、今日はこのへんでおわりよ。バイバーイ。

 追) せっかくだから「公園のお風呂ダヌキ」と「終課」のあるところ、はてなで場所教えとくわね。

     http://d.hatena.ne.jp/dabocat/20110219/1298093954

     http://d.hatena.ne.jp/dabocat/20110219/1298094093

     http://d.hatena.ne.jp/dabocat/20110219/1298094314