過去ブログの再掲載 もう少し

2013-05-22 23:14:32 | インポート

今日はいったん、別の話を載せたのですが、どうも納得がいかないので入れ替えます。

2012.10.4
黙想学校で
  

こんにちは~、マリーで~す。

今日はねえ、うちのおばはんは出かけるのが夕方だからもうのんびりしちゃって、朝からこのところどうも具合のよくないウォークマンをパソコンにつないで何度もテストしたりしてるだけ。たぶんねえ、新しいパソコンとウォークマンがうまく合わないんじゃないのかなあ。古いほうのパソコンでもう一度試してみればいいのよ。大体、あの古いほうのパソコンはもう危なくてネットに使うのは駄目だけど、音は断然あっちのほうがいいんだし、あたしなんかは、もったいないから音楽や写真・動画はあっちのほうがしっかりしてるんだし、あっちを使ったほうがいいって思うんだわさ。なんだか知らないけど、機械のおき場所がないって言うのよね。2台重ねて置いちゃ駄目なのかしら?

おっと話が横にそれちゃった。今日はアシジの聖フランシスコのお祝いの日なんですって。うちのおばはんも霊名がフランシスコの女性形でフランシスカだから、機械をいじりながら少しは聖フランシスコに関係のありそうなことを考えてるとこみたいよ。

でもどちらかっていうと、聖フランシスコ自身のことというより昔教わった話を思い出してるみたい。もう何十年も昔になっちゃったけど、その頃、四谷の教会にね、黙想学校っていう講座があったんですって。この話、前にもどこかで言ってるんだけどもう一度話すわね。

黙想学校って言うくらいだから、そこでは毎回、お祈りに関係する話を教えていたの。その中で聞いた話で、今でもあの人が時々思い出しているのが、観想には二つのタイプがあるって話なのね。それを教えてくれた先生はカルメル会でもフランシスコ会でもなくてイエズス会の神父様だったんだけど、その方は当時、こんな風に言ってたの。

大きく分けて観想の祈りには二つのタイプがあって、ひとつはカルメル会の念祷みたいに、自分の心の奥深くに入って言ってそこで神と出会おうとするカルメル会型の観想、もうひとつは、聖フランシスコの祈りのように、大自然とか周囲の物事とか、自分の外側に神の働きを見出し、神に出会っていくフランシスコ型の観想だということだったのね。

あの人、ずうっとこの話を忘れずに覚えていて時々考えてたわけよ。だけど、現実的にはどうも、囲いの生活をしている方たちがみんな観想者なのかって言ったらどうも違うみたいなのよね。実際、鎌倉のある観想会のその頃の院長様と面会して話したら、観想者と観想修道会の修道者はイコールではありませんておっしゃったんですって。どうも囲いの中にいても活動的な方もいれば、世間とかかわりあう生活の会でも観想的な方がいるし、実際はなかなか簡単じゃないのね。

でもって、あの人は修道生活どころか信じられないようなとてつもない状況になって、いつのまにか、おばはんになっていたんだけど、何十年も聖歌隊にいて、歌は下手でも毎週かよっていたおかげで、聖歌を歌うことで祈りを忘れずにきたの。聖歌を歌うことで神様に心が向かっていくじゃないの。

歌うほうは駄目だけど、佐久間神父様の作だったかしら、わたしたちはさかなのよう、神様の愛の中で泳ぐ、って子供の歌があるじゃない、あれの歌詞をみて、うちのおばはんが思い出したのが昔、はるか昔、講座で聞いた神様と人間の関係を、海と海水の中の海綿、スポンジにたとえた話だったの。

人間は海の水の中に浸っているスポンジのような存在で、神様は人間の外側にも内側にも満ち満ちているんですって。人間は神様の仲で生きてるのよねえ、だからさ、佐久間神父様はさかなが水の中で泳ぐように、神様の中で、神様の愛にどっぷり包まれて生かされているのを教えようとなさったんじゃないのかしら。

そうすると、スポンジの中にも、外側にも海の水が満ち満ちているみたいに、人間ひとりひとり、みんな誰でも目には見えなくても神様の中で、神様に内側からも支えられて生きてる、というか生かされてるってことでしょう。

そしたら、カルメル型の内側に入っていって神様に出会おうとする祈りでも、フランシスコ型の周囲に神の働きかけを見出す祈りでも、突き詰めれば、同じところにたどりつくんじゃないのかなあ、とかってあの人もぼんやりと考えたりしてるらしいのよね。どっちにしても、心が濁っていればたどり着けないんだと思うわ。

なんだか、だんだん難しくなっちゃったから終わりにするわね。 ほんじゃまたね。

 

2012.10.15
アビラの聖テレジア
  

こんばんは~、マリーで~す。

今日は陽気も暖かくて、動き回ると汗ばむくらいだったから、うちのおばはんなんかは足腰の痛みも軽くなってだいぶ調子がよかったみたいよ。ほんでもって、あの人、四ツ谷の昼ミサに行ったんだけど、今日はカルメル会のアビラの聖テレジアの祝日だったから、ミサのお説教も大聖テレジアの祈りのこととか、念祷の話だったの。

大聖テレジアが自分の祈りの本にいつも挟んでいた祈りの言葉って、うちのおばはんの好きな、今も部屋が狭いから冷蔵庫の横の壁に貼ってある祈りの言葉だったの。現代語の訳とちょっと言葉が違うけど、おうちに貼ってあるのはこんなのよ。
  

  何ものにも心乱されず  何をも怖れるな
  すべては過ぎ去る  神のみ変わらず
  耐え忍ぶとき  すべてをかちえる
  神に生きる人には  欠けるものはなし
  神のみにて足りる

うちのおばはんには、大聖テレジアのたくさんの著作物はどうも肌に合わなくて、ちゃんと読めたのは完徳の道と創立記で、後は自伝がなんとかかんとか、まだ十字架の聖ヨハネの言ってることのほうがピンと来る気がするんだって。だけど、完徳の道は、これは本物だっていうのよねえ。何が基準なんだかあたしにはわからないんだわさ。

たぶんどうもあの人には異性に対する恋にも似た思いだの、愛だの、友情だのって感覚がよくわかんないのよ。純日本人なんだわさ。神様への思いも恋心に似たものより、絶対者なるお方への帰依の心、子供が親を慕うような思いでしか捕らえられないのね。しょうがないじゃない、生まれ育った文化が違うんだもん。 

それよりも大聖テレジアが大切にした「念祷」についてだったらかなりよくわかるような気がしてるみたいよ。完徳の道に出会う前に、プロテスタントの頃、カルメル会の人とは知らずに、CLC出版ていうプロテスタントのほうの出版社で出ていた、ラウレンシオ修士の「神の現存の体験」ていう本を読んでいたんだけど、祈りのことではすごく役に立つ本だったの。そのころは念祷なんて言葉も知らなかったんだけどね。

大体、プロテスタントの教会で祈りっていったら、みんなであつまって声に出しての嘆願の祈りが主で、沈黙の祈りとか、神様との個人的な語り合いのことはあまり教わらなかったのよ。ただ、あのひとのおうち、お父さんのお父さんに当たる人が実はお坊さんだったとかで、お父さん自体も意外と宗教的な人だったから、あの人も小さいときから、人間より大きな何者かが存在しているって感覚は親から伝えられていたのね。でもって、そのお方はいつもそばにいて、声に出さなくてもちゃんと自分の心を知っているんだって思っていたらしいのね。それで、声に出さない祈りっていわれてすぐにどういうことかわかったの。

だから、お祈りする時、大聖テレジアが台所仕事をしながらでも祈ることはできると言った意味もすぐわかったの。マルタとマリアのうち、マリアはイエスの傍らにいてイエスの言葉を聴く存在だっていうけれど、マルタだって家事や雑用で、イエスのそばにいつもいられなくても、心がいつもイエスに向いていたら、仕事をしながらでもイエスの言葉に耳を傾けることも、イエスと語り合うこともできるんじゃないの。イエスに心が向いていないと雑音しかきこえないけどね。

それはとにかくさ、ラウレンシオ修士の話に戻るけど、何十年もたってから上野毛教会に行ったら、中川神父様の講座でこの方の話が出てきたの。カルメル会の祈りって、なんとなく、普通の生活とかけ離れた生き方をしないと体得できないようなイメージがあるけど、そうじゃないのよね。ラウレンシオ修士(ブラザー・ローレンス)の祈りや生き方は普通の生活の中でも十分可能なのよね。

あの人、今日はそんなことを思い出して、大聖テレジアの会はすごいなあ、大聖テレジアがカルメル会のためにしたたくさんの仕事はやっぱりすごいなあって、あらためて感心してたの。それで明日、上野毛の講座に行くのを怠けたりしたらこれはちょっと情けないわよね。あしたはあの人をあたしの目覚まし時計機能の最大の音でたたき起こすつもりよ。

そんなわけできょうはここまでよ。ほんじゃまたね。