もうお昼過ぎたか

2013-05-23 13:30:20 | インポート

ごたごたしていると時間が経つのが早いこと、早いこと。あっという間にもうこんな時間。今日は聖書の集いもあるから四ツ谷に行くのは夕方。午後はちょっと一休み。それにしても今度の日曜日の聖書の箇所のテーマは三位一体だ。思い出すのはこれもリバス師に教わった三位一体と人間の立ち位置のはなし。自分にとって、三位一体で重要なのはこれくらいかな。難しすぎるもの。

 

さて話は替わって、過去ブログの続き。これは他の誰かではなくて、特に四ツ谷の関係者の方々に読んでいただきたいと思います。噂や思い込みで信者を判断していただいては実に迷惑ですから。

 

2012.10.22
中山法華経寺と美智子様の正田家
  

昨日はうちのおばはん、転んで足腰や背中(ちょうどあの人の具合の悪いところばっかり)を打って、それもさあ、自分の部屋の中で転んだってのが相当ショックだったみたいだけど今日はぼちぼち気を取りなおしてきてるみたい。

それで、パソコンで調べ物をしながら、たまたま先日の皇后様のお誕生日の記事をみて、前からちょっと気になっていたことを思い出したのね。昔、うちのおばはんが「公園のお風呂ダヌキ」って言う、大人の心の中にいる子供のための童話を書いたとき、ある方が教えてくださったはなしでは、それを美智子様もお読みになってくださったっていうの。あの人のかかわっていた、今は亡きスペイン人の神父様が大変な有力者だったから、その辺からの伝でだと思うけど、とにかくそんな話だったの。

でも、家のおばはん、それを聞いてもあまりおどろかなかったし、そういうこともあるだろうなくらいにしか思わなかったのよね。なぜかって言うと、あの人のお父さんのほうの本家は鎌倉時代からの中山法華経寺のゆかりのいえだったから、法華経寺のことはお父さんや親戚からよく話しにきいていたわけよ。

それで、中山法華経寺の墓地には正田家のお墓があるのも聞いていたし、はるか遠い昔のご先祖様や法華経寺つながりのご縁を感じていたのね。それが、そういうこともあるだろうなあって思った理由だったの。だけどこの話、あの人はやたら誰にでも話したりしていなかったのよ。だって、あの人のお父さんが、自分で自分の宣伝をするようなみっともないことはするな、わかる人ならわかるものだって言ってたのよ。でもそれから30年近く経っちゃって、いろいろな目にあって、さすがのあの人も、お父さんの言うことはあんまり現実的じゃなかったって思ってるみたいだけどね。

まさか上に立つ人が、真実を隠したり、自分の利益のために人を利用したりすることもあるなんて想像もしてなかったの。まるでおバカさんだったし、たぶんあの人一生根本はそんなとこじゃないかなあ。三つ子の魂百までって言うじゃない。

それで長い間、自分からはそんな話はやたらに人に話さなかったの。でも、自分の書いたほかの作品もかなりお目にのぼったのはわかっていたのよ。それでいてやたら人を信じすぎるから、まさかまさかの目にあってたんだわ。あのとんでもないひどい、誹謗、中傷が流されていた時期のことも今にして思えばこの辺も関係してたのね。あの人のお父さんは、わかる人はわかるって言ったけど、わかっても、それを自分の利益に利用するために隠しちゃったりする連中もいるのは教えてくれなかったのよ。

でも、今はそんなことを言ってるときじゃないのよね。中山の法華経寺と美智子様の正田家のつながりの話し、昔と違って、最近は表に出てきてることがわかったの。前は法華経寺がどんなに古い歴史のあるお寺さんかも知らない人が多かったし、美智子様の正田家が法華経寺とゆかりだといっても、そんなはずはない、美智子様のご先祖なら隠れキリシタンだなんていうトンチキもいたわよ。日本のカトリックって層が薄いから歴史も何もわかってない信者もいるんだわ。情けないわよ。

今は市川市の地元の歴史愛好会とかいろいろなグループでも法華経寺のことをちゃんと伝えようとしているのよ。うちのおばはんにとっては法華経寺は代々のご先祖様につながる本当のふるさとの地。はるか昔の先祖たちもこの土地を歩いて、この土地で生きていた懐かしい場だから、「公園のお風呂ダヌキ」以前からのご縁をあの方にも感じるのよねえ。

でもって、今朝たまたま、いつものyahooやgooじゃなくてniftyのニュースを見たら、天皇、皇后、両陛下が原発事故の被災地で除染が進んでぽちぽち人が戻って住み始めた地域を見舞いに訪れたときの記事が出ていて、お二人が20キロ圏内でも防御服無しで入られたことが出てたのね。さすがだと思ったみたいよ。そりゃあ、お二人とももう70歳過ぎてるからとかっていうことはできるでしょうけど、やっぱり立派だわ。上に立つ人はこうでなくちゃいけないんじゃないの。ただし、放射能には子供や若い人に同じにしてほしいとは絶対思わないけどさ。

あの人、この20数年というか30年近くの年月、いろんなことがあったんだけど、こうしてみると、人間も年月がたつと、本当の姿が見えてきちゃうのよね。こういうお二人と、ほんの一瞬のようなものでも、かかわりのようなものがあったというのは、今のあの人には心の中の宝物なのね。それは中山のはるか昔のご先祖様からのプレゼントみたいな気がするんですって。

だってさあ、あの人が子供の頃から、終わりのないものがほしいだの、永遠のものにあこがれるようになったのは、やっぱり、お寺さんの地元だったことや、実のお祖父さんにあたる人がお坊さんだったりしてたのがどっかで関係してるんだと思うもん。

もうみんな亡くなっちゃったけど、遠藤周作先生や、河合隼雄先生、霜山徳爾先生といった方々とのかかわりだって、みんな見えないご縁の糸でつながっていたような感じだったのよね。それでここまで来ちゃったんだから、この先もたぶんそれなりの導きの手があるんじゃないのかしらね。

この先は、あたしなんかじゃわかんないんだけど、たぶん見えない手の導きはなくなっちゃうとは思えないんだわさ。

ってとこで、今日はおしまいね。 ほんじゃまたね。

 


過去ブログの再掲載 もう少し

2013-05-22 23:14:32 | インポート

今日はいったん、別の話を載せたのですが、どうも納得がいかないので入れ替えます。

2012.10.4
黙想学校で
  

こんにちは~、マリーで~す。

今日はねえ、うちのおばはんは出かけるのが夕方だからもうのんびりしちゃって、朝からこのところどうも具合のよくないウォークマンをパソコンにつないで何度もテストしたりしてるだけ。たぶんねえ、新しいパソコンとウォークマンがうまく合わないんじゃないのかなあ。古いほうのパソコンでもう一度試してみればいいのよ。大体、あの古いほうのパソコンはもう危なくてネットに使うのは駄目だけど、音は断然あっちのほうがいいんだし、あたしなんかは、もったいないから音楽や写真・動画はあっちのほうがしっかりしてるんだし、あっちを使ったほうがいいって思うんだわさ。なんだか知らないけど、機械のおき場所がないって言うのよね。2台重ねて置いちゃ駄目なのかしら?

おっと話が横にそれちゃった。今日はアシジの聖フランシスコのお祝いの日なんですって。うちのおばはんも霊名がフランシスコの女性形でフランシスカだから、機械をいじりながら少しは聖フランシスコに関係のありそうなことを考えてるとこみたいよ。

でもどちらかっていうと、聖フランシスコ自身のことというより昔教わった話を思い出してるみたい。もう何十年も昔になっちゃったけど、その頃、四谷の教会にね、黙想学校っていう講座があったんですって。この話、前にもどこかで言ってるんだけどもう一度話すわね。

黙想学校って言うくらいだから、そこでは毎回、お祈りに関係する話を教えていたの。その中で聞いた話で、今でもあの人が時々思い出しているのが、観想には二つのタイプがあるって話なのね。それを教えてくれた先生はカルメル会でもフランシスコ会でもなくてイエズス会の神父様だったんだけど、その方は当時、こんな風に言ってたの。

大きく分けて観想の祈りには二つのタイプがあって、ひとつはカルメル会の念祷みたいに、自分の心の奥深くに入って言ってそこで神と出会おうとするカルメル会型の観想、もうひとつは、聖フランシスコの祈りのように、大自然とか周囲の物事とか、自分の外側に神の働きを見出し、神に出会っていくフランシスコ型の観想だということだったのね。

あの人、ずうっとこの話を忘れずに覚えていて時々考えてたわけよ。だけど、現実的にはどうも、囲いの生活をしている方たちがみんな観想者なのかって言ったらどうも違うみたいなのよね。実際、鎌倉のある観想会のその頃の院長様と面会して話したら、観想者と観想修道会の修道者はイコールではありませんておっしゃったんですって。どうも囲いの中にいても活動的な方もいれば、世間とかかわりあう生活の会でも観想的な方がいるし、実際はなかなか簡単じゃないのね。

でもって、あの人は修道生活どころか信じられないようなとてつもない状況になって、いつのまにか、おばはんになっていたんだけど、何十年も聖歌隊にいて、歌は下手でも毎週かよっていたおかげで、聖歌を歌うことで祈りを忘れずにきたの。聖歌を歌うことで神様に心が向かっていくじゃないの。

歌うほうは駄目だけど、佐久間神父様の作だったかしら、わたしたちはさかなのよう、神様の愛の中で泳ぐ、って子供の歌があるじゃない、あれの歌詞をみて、うちのおばはんが思い出したのが昔、はるか昔、講座で聞いた神様と人間の関係を、海と海水の中の海綿、スポンジにたとえた話だったの。

人間は海の水の中に浸っているスポンジのような存在で、神様は人間の外側にも内側にも満ち満ちているんですって。人間は神様の仲で生きてるのよねえ、だからさ、佐久間神父様はさかなが水の中で泳ぐように、神様の中で、神様の愛にどっぷり包まれて生かされているのを教えようとなさったんじゃないのかしら。

そうすると、スポンジの中にも、外側にも海の水が満ち満ちているみたいに、人間ひとりひとり、みんな誰でも目には見えなくても神様の中で、神様に内側からも支えられて生きてる、というか生かされてるってことでしょう。

そしたら、カルメル型の内側に入っていって神様に出会おうとする祈りでも、フランシスコ型の周囲に神の働きかけを見出す祈りでも、突き詰めれば、同じところにたどりつくんじゃないのかなあ、とかってあの人もぼんやりと考えたりしてるらしいのよね。どっちにしても、心が濁っていればたどり着けないんだと思うわ。

なんだか、だんだん難しくなっちゃったから終わりにするわね。 ほんじゃまたね。

 

2012.10.15
アビラの聖テレジア
  

こんばんは~、マリーで~す。

今日は陽気も暖かくて、動き回ると汗ばむくらいだったから、うちのおばはんなんかは足腰の痛みも軽くなってだいぶ調子がよかったみたいよ。ほんでもって、あの人、四ツ谷の昼ミサに行ったんだけど、今日はカルメル会のアビラの聖テレジアの祝日だったから、ミサのお説教も大聖テレジアの祈りのこととか、念祷の話だったの。

大聖テレジアが自分の祈りの本にいつも挟んでいた祈りの言葉って、うちのおばはんの好きな、今も部屋が狭いから冷蔵庫の横の壁に貼ってある祈りの言葉だったの。現代語の訳とちょっと言葉が違うけど、おうちに貼ってあるのはこんなのよ。
  

  何ものにも心乱されず  何をも怖れるな
  すべては過ぎ去る  神のみ変わらず
  耐え忍ぶとき  すべてをかちえる
  神に生きる人には  欠けるものはなし
  神のみにて足りる

うちのおばはんには、大聖テレジアのたくさんの著作物はどうも肌に合わなくて、ちゃんと読めたのは完徳の道と創立記で、後は自伝がなんとかかんとか、まだ十字架の聖ヨハネの言ってることのほうがピンと来る気がするんだって。だけど、完徳の道は、これは本物だっていうのよねえ。何が基準なんだかあたしにはわからないんだわさ。

たぶんどうもあの人には異性に対する恋にも似た思いだの、愛だの、友情だのって感覚がよくわかんないのよ。純日本人なんだわさ。神様への思いも恋心に似たものより、絶対者なるお方への帰依の心、子供が親を慕うような思いでしか捕らえられないのね。しょうがないじゃない、生まれ育った文化が違うんだもん。 

それよりも大聖テレジアが大切にした「念祷」についてだったらかなりよくわかるような気がしてるみたいよ。完徳の道に出会う前に、プロテスタントの頃、カルメル会の人とは知らずに、CLC出版ていうプロテスタントのほうの出版社で出ていた、ラウレンシオ修士の「神の現存の体験」ていう本を読んでいたんだけど、祈りのことではすごく役に立つ本だったの。そのころは念祷なんて言葉も知らなかったんだけどね。

大体、プロテスタントの教会で祈りっていったら、みんなであつまって声に出しての嘆願の祈りが主で、沈黙の祈りとか、神様との個人的な語り合いのことはあまり教わらなかったのよ。ただ、あのひとのおうち、お父さんのお父さんに当たる人が実はお坊さんだったとかで、お父さん自体も意外と宗教的な人だったから、あの人も小さいときから、人間より大きな何者かが存在しているって感覚は親から伝えられていたのね。でもって、そのお方はいつもそばにいて、声に出さなくてもちゃんと自分の心を知っているんだって思っていたらしいのね。それで、声に出さない祈りっていわれてすぐにどういうことかわかったの。

だから、お祈りする時、大聖テレジアが台所仕事をしながらでも祈ることはできると言った意味もすぐわかったの。マルタとマリアのうち、マリアはイエスの傍らにいてイエスの言葉を聴く存在だっていうけれど、マルタだって家事や雑用で、イエスのそばにいつもいられなくても、心がいつもイエスに向いていたら、仕事をしながらでもイエスの言葉に耳を傾けることも、イエスと語り合うこともできるんじゃないの。イエスに心が向いていないと雑音しかきこえないけどね。

それはとにかくさ、ラウレンシオ修士の話に戻るけど、何十年もたってから上野毛教会に行ったら、中川神父様の講座でこの方の話が出てきたの。カルメル会の祈りって、なんとなく、普通の生活とかけ離れた生き方をしないと体得できないようなイメージがあるけど、そうじゃないのよね。ラウレンシオ修士(ブラザー・ローレンス)の祈りや生き方は普通の生活の中でも十分可能なのよね。

あの人、今日はそんなことを思い出して、大聖テレジアの会はすごいなあ、大聖テレジアがカルメル会のためにしたたくさんの仕事はやっぱりすごいなあって、あらためて感心してたの。それで明日、上野毛の講座に行くのを怠けたりしたらこれはちょっと情けないわよね。あしたはあの人をあたしの目覚まし時計機能の最大の音でたたき起こすつもりよ。

そんなわけできょうはここまでよ。ほんじゃまたね。

 


 


本日は過去ブログの再掲・・・つまらないはなしです

2013-05-21 22:12:39 | インポート

plalaの押入れの過去ブログを書き始めた2010年の分から読み直してみると、さまざまなことが見えてきます。余りあからさまに言うわけにいかないこともたくさんありますから、書いた当人が読んでもこれでは何が言いたいのかわからないではないかと思う文章が多いこと、多いこと。何が本当に言いたいことなのか、わざとわかりにくくしてあったり、まったく困ったものです。

でも2011年にある方が第一線から退いてこのブログに介入しなくなってからの分は言いたいことをちゃんと言えるようになったのもわかりました。今日の話はちゃんとした話を書こうとして2回までつづけたところで、打ち切りにした分でした。

急遽連載中止
  
 2回まで載せたこれまでの話ですが、それを出してからというもの、いやにパソコンに不正アクセスがふえたり、クッキーの妙な動きが増えていて非常に危険と思われます。今、パソコンからのコピーが機械が壊れて出来ないのですが、いずれ安物でも機械を買ってコピーをとって、一部の方だけにご覧いただく形にしたほうがよさそうです。どうも情報を狙う人たちがいるようですから。

というわけで急遽、創作のほうを優先することにしてこちらは無期延期であります。
 

2010.12.21
こんなこと、あんなこと (2)
  

『こんなこと、あんなこと、いろいろ』の2

思うに、最近の人は、ずいぶんいい年になった高齢者でも、明治になるまでは浄土真宗以外、仏教の僧侶は妻帯を禁止されていて子供や孫が寺を継ぐなどということはありえなかったことも知らないのには、まったくびっくりしてしまいます。父方の本家は法華経寺の門前で七百年続いてきた家だったと言うと、なかには、お寺さんの家で続いたのならたいしたものだけど、門前じゃあ、と返してきたおばあさんもいましたっけ。そりゃあ、歴史的に不可能じゃろうが。お坊さんは本来正式には子孫を残したり出来ない存在だったのに、まったく何を考えてるんだか。

というわけで、うちの父は実父に当たる人はお寺さんだったそうで、戸籍上は実の姉の末の弟、祖父母の末子として届けられています。父の生まれ育った家は今は人手に渡ってしまって、すぐ近くに親類が住んでいるだけですが、今も昔も法華経寺の参道沿いの、寺のすぐ傍にいます。

我が家は下総中山から少し奥に入った若宮という地域で木下(きおろし)街道沿いの、昔は本家の畑だった土地の一部を戦争から帰ってきた父が譲り受けた場所にあり、小さい頃は畑の中の一軒家でした。周辺にあったのは、中山に出れば法華経寺。船橋の方向に行けば中山競馬場。家のすぐそばに若宮小学校、その裏手には山下清の出た八幡学園、あとは畑と田んぼで、そうそう、田んぼのある北方(ぼっけ)の方向に坂を下りていくと赤ちゃんの時から母親同士もお風呂屋さんでよく知っていたという幼馴染の山田さんという女の子の家があり、彼女の家の近くにカトリック市川教会の教会墓地がありました。そして小学校一年生の時に家の母方の祖父が脳溢血で突然に亡くなり、あれが生まれて初めて出会った本物の死というものでした

思えば、中山に行ってもお寺さんとお寺の墓地、お寺にいけばお坊さんの姿もあります。幼馴染の家で遊んで帰るときも目に入るのは教会の墓地で、どちらも子供の頃は遊び場にしていましたっけ。ちっともこわくはないけれど、子供心にも人間が、生き物が、みんな生きて死んでいくことの不思議は考えさせられていました。それで、子供心にも終わりのないものがほしい。永遠に続くものがほしいと思うようになったのです。父の実父がお坊さんだったのは知りませんでしたが、ああいう、終わりのないものにお仕えする一生はいいな、女だから尼さんのようなものになりたいものだとか、子供の頃からなんとなく思っていたのです。

周囲の環境がそんな風でいて、しかも家の父がまた世間一般の普通の人と少し違っていたのだと思います。子供が変わり者だとしたらそれはその子の親が変わり者だったということでしょう。父こそは私という人間の土台を作った人だと思います。すべては父からの影響なしには考えられません。長女で一番上の子で、顔も性格も父自身、お前はお父さんだよ、と言っていたくらいですから相当似ていたのだと思います。

私が小さい頃から父が何かというとよく口にしていた、『闇の夜に鳴かぬカラスの声聞けば、生まれぬさきの父母ぞ恋しき(そのままです)』とか、『三界の狂人は狂せるを知らず』といった言葉は、そっくりそのまま子供の私も覚えこみ、お前、これが分るかという度に、どういう意味なのだろうと考え込みながら育ったのです。お正月といえば、『門松や冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし』です。父は自分もよく本を読む人でした。私が一番初めに買ってもらった本というのは大人用の新潮文庫版、アンデルセン童話集全3巻を三冊とも一度に貰い、何度も何度も読みました。私にとってのキリスト教的なものの見方の基盤になっているのはどうもこの三冊のような気がしてなりません。

そしてまた、小学校高学年になるとこれもまた読むのに苦労した旧かなの岩波文庫版で宮沢賢治の『風の又三郎』でした。読みたい一心で旧かなにかじりついていた小学生でした。それで宮沢賢治の面白さを知り、お小遣いで買ったり、図書館で借りたりして読むようになったわけですが、宮沢賢治が法華経の信仰を持っていたのはかなり後になって知ったことで、その頃は賢治の信仰などは何も知らないまま、心を打たれて読んでいたのでした。そこにあったのは今おもえば他者のために自分を捨てる法華経の菩薩の精神だったようです。そしてそれはイエスさまの生き方にも通じるものだったと思います。勿論、当時はそこまで考えませんでしたが。

父は実の親には縁の薄い人でしたけれど、育ててくれた戸籍上の両親、兄姉(実は祖父母に、伯父、伯母、叔母)からは結構大事にされていたらしく、子供の私から見ても苦労した筈なのに、やたらに人をすぐに信用する人のいい人間でした。(そっくり、そのまま私も同じで、亡くなったライフ神父さまがあきれていたのを思い出します。ライフ神父さまは、あなたは年寄りっ子ではなかったかとおっしゃったのですが、私の父のほうが年寄りっ子だったのですよ、今おもえば。

父は私とおんなじで、人を信じすぎて世間的には失敗した人生ともいえるかもしれない人生でした。でも私には人生の大切な先達、師匠でした。なんといってもこの人の子供だったからこそ今の私があるのですから。

で、父は若い頃一時天理教の熱心な信者だったのだそうです。それで長女の名前も天の理によって恵まれた子です。母と結婚してから、母の兄弟たちから、天理教を止めないなら妹は返してもらうということになって止めたのだそうです。母方は兄弟も多くて祖父母もしっかりしていましたから父としてもそれでよかったのだと思います。

しかし、信仰は止めても父は天理教の考え方を子供によく話していましたから、こちらは幼心にいやでも刻み込まれて育っています。これがまたカトリックの考え方とすごくよく似ているのです。だからこそ、同じキリスト教でもやはりプロテスタントには違和感を感じてしまい結局改宗することになったわけです。どんな小さなことでも誰かの役に立っているんだと聞いて育ったのに、プロテスタントの教会では人に聖書の教えを伝えることが大事で食事の支度や後片付けなど二の次、お皿洗いなど意味がないという考え方で、書くのは得意でも口が下手で人に聖書の話しをするなど大の苦手のこちらは居場所のない気持ちにさせられたものでした。父から教えられた傍(はた)が楽するから、はたらくというのだ、なんていうことは通用しない世界でしたねえ。

さて、キリスト教へはいくつかのきっかけがありました。

家の近くに市川教会の墓地があったことはとにかく、昔は今のようにどこの家庭にでもテレビが普及している時代ではありませんでしたから、我が家ではラジオが大活躍していました。それもあの時代ですから真空管のラジオか、鉱石ラジオです。それでNHKの子供向き放送劇の大ファンだった私は父の鉱石ラジオを奪い取って自分用にし、毎日のようにラジオと付き合っていました。すると、その頃は日曜日の朝はいくつものキリスト教の番組があり、平日も早朝にやはりキリスト教の番組が放送されていたのです。

いまでも続いている、『心のともしび』という番組を中学生の時からずっと聴いていました。というのは小学校は家のすぐ側でしたけれど、中学校はかなり遠いので早起きしなければならず、それで聴くようになったのです。その番組でいつも非常に心に残る話をなさる方がおいででした。シモヤマトクジさんというお名前を覚えました。出演者は定期的に変わりましたが毎年、年間の半分のシーズンに出演していらっしゃったと思います。この方の話しが父の話し同様、非常に心に響くものがあり、その前にもキリスト教には小学校の頃から関心を持っていたのでそのうち教会に行ってみたいと思うようになっていきました。

そしてまた、遠藤周作先生の本も読み始めたわけですが、実は教会に実際に行くようになったのは母の死がきっかけでした。そしてまたその頃、遠藤先生のほうは結核の大手術で入院し、そんな大変な状況の中で生まれたのがあの面白おかしい、狐狸庵先生シリーズだったのです。こちらは当時はそんなこととは露知らず、中学生の頃から北杜夫さんのファンだったので北さんのお友達の一人として知っていた遠藤周作氏の、純文学の気難しい顔とは全然違うへんてこりんな先生、狐狸庵氏に出会って、母の死にめそめそしていた心を引き上げていただいたのでした。

 

2010.12.19
こんなこと、あんなこと (1)
  

今年、ひっそりと一部の方にだけお見せしてきたはなしです。まだ当事者がご存命ですから、こちらも武士の情けではないけれど、全部は出しません。しかし、どうしてこういうことになってしまったのか、自分自身のためにも、他の人の深く関わるところは抜かして、これまでを表にだしてみます。肝心のところが出せないのが口惜しかったりもしますが人を苛める趣味はないので、適当にいきます。

前書き省略

さて、今までのことを説明するにはどうしても自分の生い立ち、父についてを話さないわけにはいきません。父の存在こそは自分の今の土台だったと思っているからです。そしてまた、生まれ育った土地の影響も決して無視することの出来ない要素でしょう。

本題に入ります。

私が生まれ育ったのは、千葉県市川市の若宮というところでした。今も本籍は同じ場所です。先祖代々の地ですから。日蓮宗の歴史などに詳しい方はその昔、日蓮上人が松葉が谷の法難にあった時、若宮の領主、富木常忍の助けで若宮の地に逃れたという話しをご存知でしょう。富木氏は父方の先祖の仕えていた殿様なのです。そして下総中山にある日蓮宗の中山法華経寺の開基でもあります。

その関係で父方は鎌倉時代以来中山、若宮の住人で、富木氏の家臣として法華経寺の参道域に家屋敷を、若宮に田畑を持って暮らしてきた家でした。時代とともに本家もすっかり凋落したとはいえ、今も親類は中山に住んでいます。私の父は戸籍上は本家の末の子となっているのですが、実際は孫なのです。つまり、実際は両親となっているのは実の祖父母。兄姉となっているのは伯父や実の母ということになります。父の実の父親はお寺さんだったのだそうです。といっても父が生前はなんとなく、死後になってはっきりと聞かされたのでした。

それを聞いても子供のこちらは実はちっとも驚きませんでした。なぜなら長女で一番上でお父さんっ子だった私にとっての父は他所のお父さんに比べると非常に不思議な存在だったからです。他所のうちのお父さんたちとはどうもかなり違う。そんじょそこいらにいくらでもいる人たちとは全然違う。父のような人は滅多にいないことは大人になってからも実感していました。ただ、どうしてそうなのかが分からなかったのがそれではっきりしたわけです。

父は学歴もないし、大きな会社に勤めていたわけでもありません。けれども非常な読書家で、物知りで、冗談や人を面白がらせることが大好きで、普通の人が目も止めないようなものを面白がり、本当に働き者で家族を大事にしていた人でした。父が生まれてまもなく実母、私には実の祖母は、赤ちゃんだった父を残して他所の人と結婚し、父は祖母(私には祖々母にあたる)と若かったころの伯母の手で育てられたために、寂しがりやで、いたずらや悪さばかりする男の子だったようです。

遠藤周作先生は子供の時、教会でさんざん悪さをしたそうですが、うちの父も同じようなことをしていたのです。小学校では屋根の上に上って下に向かっておしっこをし、全校生徒の前で、先生から『この者は・・・」と叱られたこともあったと聞いています。父の同級生が元市川市長の高橋さんだし、もしかしたらまだ当時の同級生の方もおいでになるかもしれません。とにかく悪ガキだったそうなのです。

そんなこんなで自分の子たちには自分のような寂しい思いはさせたくないと、家族、家庭はとても大切にする人だったと思います。どちらかといえば逆に甘やかしすぎで失敗したかもしれません。でもそのことはおいて話を進めます。

父がどんなものを子供に与えてきたかという話です。。私が物心ついた時には毎年お正月というと、我が家では一家揃ったところで父が一休禅師の『門松や冥土の旅の一里塚』という歌を持ち出してからでないと始まりませんでした。こちらは小さい時から、お正月といえども、めでたくもあり、めでたくもなしなのだという感覚を植え付けられて育ってきたのです。

・・・・以下、先が長いので、のんびり手直ししながらだしていくことにします。

こんな風にして、司祭方に何とかして実際の自分という人間を伝えたかったのですが当時は、それさえ、後ろから遮られていたのですよ。いったい私をどういう人間として伝えていたのでしょう??

 

 


キョン?

2013-05-20 20:07:19 | インポート

こんばんは~、マリーで~す。

今日は一日中天気が悪くて寒いくらいだったけど、明日からは当分昼間の気温は初夏みたいに暑くなるんですってよ。暑くなったり、寒くなったり、めまぐるしくて、体調の管理が大変だわさ。おっと、今日の話は別に気候のご挨拶をするつもりじゃないわよ。さっきねえ、うちのおばはんがテレビで夕方のニュースを見てたら聞いた事もないような話が出てきたの

ねえ、キョンて知ってる? うちのおばはんもキョンキョンだったら今もNHKのあまちゃんに出てるけど、キョンのほうは聞いたことはあっても、実物は見たことがあるような気もするし、ないような気もするってまるであやふやなのよ。上野動物園でシカのくせに牙みたいな犬歯のあるちっぽけなシカだったら見たことがあるけど、あれはいったい何だったのか、マメジカっていう種類だったような気もする・・・とか全然あてにならないんだわさ。

今日のテレ朝のニュースだと、房総半島で今、キョンが大繁殖して、人間の生活までおびやかすくらいになってるんですってよ。うちのおばはんも千葉県出身だけど、元々は先祖代々わかっているだけでも鎌倉時代から市川市だから、千葉市から先はあんまり良く知らないのよ。あの人のお父さんが晩年外房に引っ越したから一応向こうに家はあるけど、ほとんど行ってないの。

海辺のほうだからキョンが出るほうとは違うけど、どんな動物だか興味が湧くじゃないの。小さいシカみたいで、群れをつくらないから退治するのも大変なんですって、はじめ、逃げ出したのはたった7頭だったのが、いつの間にか万を越える頭数にまで増えちゃって、人家にまで近寄ってきて作物から何からきれいに食べ荒らして、仕方がないからこれは全頭駆除だってなってるらしいんだけど、全然退治できてないんだわさ。

同じ野生獣の被害でも熊よりは心配がないとはいっても、畑まで荒らされていたらそうも言ってられないわよね。それで今、房総半島のほうでは頭を抱えてるんですって。キョンは中国では食用になってるそうだし、うちのおばはんの義理のお母さんの生まれ育った新潟の山里ではウサギはご馳走だったんですってよ。だったらウサギと同じようにキョンもちょっと工夫しておいしいジビエってことで売り出すってのはどうかしらね。

北海道のエゾシカだって食用の道を研究してるんだし、ただ退治するよりついでに食べたらいいんじゃないかなあ。だめかしら?

そんなところで今日はおしまい。ほんじゃまたね。

 


見える世界と見えない世界

2013-05-19 20:56:59 | インポート

こんばんは~、マリーで~す。

今日は日曜日だし、うちのおばはんもお休み気分なのよね。うだうだしてる家にこんな時間になっちゃって、今、あの人、久しぶりにテレビで八重の桜を見ていて、会津の殿様役の俳優さん、なんていう名前だったかとかって考えてるとこよ。確か他の局で航空自衛隊の話しか何かに出てるのこの俳優さんかなあ、なんか見たことがあるような感じだって。

あの人、今夜本当に見たいのはこの後の番組らしいのよ。新しいシリーズの「病の起源」ね。今日は癌のことだから、ぜひ見たいんじゃないのかしら。

そんなわけで今日のはなしは、とりあえずまた記録も兼ねて過去ブログの再掲になるみたい。facebookにはユング心理学の専門家で、河合隼雄先生のお弟子さんだった玉谷直実先生がいらっしゃるって言うのにさ、あの人、ただの素人のくせにそんなテーマで書いて恥ずかしくないのかしらねえ。ほんとに、あたしのほうが恥ずかしいわよ。玉谷先生、あの人が適当なことばかり言っててごめんなさいね。

でもとにかくそのまま出しとくわね。こんなのよ。

2012.1.18

やっと「異人たちとの夏」を見ることができた

 

これは以前から気になっていた作品だったのだが、なかなか見る機会がなかったもの。今回たまたまfc2動画で発見して視聴した。この作品を紹介していらっしゃったのは河合隼雄先生。中年クライシスの中で取り上げておいでだった。

先生の説明では中年期(今なら中高老年期のどの段階でもありそうな問題だろうけど)に入って、これまでと違う人生が見えてきて迎える精神的な危機の時期の話としか知らなかったのだが、映画化された作品を見るとかなりホラーっぽいのに驚いた。主人公がまだ12歳の子供の時に死に別れた若い姿のままの父母はまだしも、マンションの3階に住むなぞの女性ケイが本当の姿を見せた時は怖かった。そしてそのすさまじい亡霊に取り付かれた主人公を助け出した仕事仲間で、主人公の別れた奥さんの再婚相手でもある、なかなか複雑な関係の友人の勇気に感心した。

物語としてはどうもなんともすさまじい場面に参ってしまったが、その意味するところはわかる。現実のこの世界(外界)と心の中の世界(内界)の状況を表わそうとすればこういう表現にもなるのだろう。それだけ人生の新しい場面への転換期がいかにむずかしいかということだ。

これは物語だが、現実の世界でもまじめに順調に生きてきた人が初老近くなってとてつもない失敗をし、巻き込まれた人間も大変な思いをするなどは、実際にいくらでもある話だ。当方の今の状況だって実はそれが原因だろう。人生と一口に言うが、なんと複雑で難しいことか。

しかし同時に、これがまた当人とそこで関わる人たちの成長の機会でもあるらしい。ここで再び思い出すのが「自己実現」(普通、よく言われるような自我実現のようなものではない、もっと大きな、自分を超えた自分と言う意味での自己だが)の問題だ。たぶん、この世で起こるすべての出来事は何の意味もないものではない筈だ。何か意味があってそうなるのだろう。小さな自分の自我ではわかりきれない意味が。

この辺は「祈り」と言うものにもつながってくるようだ。

これでおしまい。ほんじゃまたね。

 

 

 


聖霊降臨の主日

2013-05-18 15:45:46 | インポート

こんばんは~、マリーで~す。

皆様、うちのおばはんがまたドジなことをやらかして、ご迷惑をお掛けしちゃったみたいでごめんなさいね。あの人さあ、時計を見間違えてまだ時間があるつもりでこのブログをいじりかけて、ほんとの時間に気がついてあわてて、帰ってきてからなんて書きこんで閉じたのよね。あれじゃあ、まだ書いてないのに読みに来た人に失礼じゃないのよねえ。まったくもう、えらそうなことを言ったって根がドジなんだからさ、もうちょっとしっかりしてよね。ほんとにしょうがないんだからもう。

まあ、それでも今日はとにかく聖歌隊の前練習からミサが終わってからの後練習までちゃんと出られたし、咳止めは飲んだけど、ちゃんと歌えたのよね。やっぱりだんだん気候がよくなってくると体調も一緒に良くなってくるみたいよ。

体調が良ければ機嫌も良くなるし、やる気になるじゃない。やっぱりまずは体調が良くなるのが一番だわさ。なんたって、咳がひどくちゃ歌うどころじゃないのよね。あの人、今日はぜひとも「聖霊の続唱」を歌いたいと思ってたみたいだから歌えて本当によかったわ。

聖霊の続唱って、ただ聴いて美しい歌というだけじゃなくて、歌の全体がひとつのとっても大切なお祈りなのよね。もし機会があったら自分でおぼえるといいと思うわよ。うちのおばはんでさえ歌えるんだからさ。

あ、いつの間にかこんな時間。悪いけど今日はこれでおしまいよ。ほんじゃまたね。

 


偶然の一致(共時性) ― カトリック教会 2012.1.14 15

2013-05-17 23:34:13 | インポート

今は昔、河合隼雄先生は「偶然がいくつもつづくとすれば、それは必然』とおっしゃっていらっしゃったのを覚えています。まさかそんなとか言われても事実は事実で、本当に本当の話というのも現実にあるのです。

ただ、その始まりがひどい誤解に始まっていたばかりに話が捩れに捩れて、ある方の誤解を隠したり、正当化するために何十年も真実が隠されたままになっていたりすることだってこれも現実に起こるのです。

日本人だけだったら、こうもややこしい問題にはならなかったかもしれませんが、カトリック教会は国際的な世界なのでお国柄の違いと言うか、国民性の違いと言うか、結構いろいろとあるのです。日本人が普通に考えている宗教の世界のイメージだけで見ているととんでもない大間違いも起こると思いますが、日本の仏教の世界にしても実際は人間の世界なので同じようにきれいごとばかりではありませんから、カトリック教会自体を悪く見るのも間違いです。ただ、宗教の世界も人間の世界ですからきれいごとだけではいかないということです。

前置きが長くなりましたが、とにかくこちらがプロテスタントからカトリックに改宗して四ツ谷の教会に行き始めてからというもの、なぜか普通はありそうにもない奇妙なことばかり起こってきたわけです。教会の司祭方はもちろん、上智のほうの司祭方まで含めてのすごい誤解を受けた事件がまず第一に起こりました。その頃はこちらも親元を離れたばかりで本当に世間知らずでしたから、どうしていいかまったくわからず、おろおろしながら、それでも自分はそんな変なものではないぞ、正しいものは正しい、いつかは真実がわかるはずだと思って普段どおりに教会にも通い続けていました。(この事件のおかげでこちらも心理学について多少勉強したわけですが)

で、この件は今は亡きライフ神父様の登場と、当時の上智で社会学を教えていらっしゃった松本先生とカリタスの家のおかげで、とりあえずはいつのまにかうやむやになっていきました。大学の先生や司祭方と言うのはもうちょっと人を見る目をお持ちかと思っていましたが、なんだか学歴と学力の違いもお分かりにならない方が多くて困ったものだと思います。

ライフ神父様だけは私の書いたものを読んで「あなたは頭のいい人です。もったいない、なぜ大学にいかなかったの」と言ってらっしゃいましたけど、家は貧しかったわけでもないし、親は進学させようとしていたのを当人の私自身が何のために大学に行くのかの意味や目的がつかめなかったところに母の急死で、勝手に進学をやめてしまったというだけだったのですけどね。それとも化粧をしてめがねを外すとけっこう目立つ顔やグラマラスな体型は頭が悪いに決まっているとでも思われたか、今となっては闇の中の奇妙な誤解です。

実はこの誤解が今に尾を引く問題の土台になっています。

土台にそんなことがあって、それでもこちらは、だからと言って自分が引っ込まなくてはならない理由などありませんから簡単に負けているわけにいきません。きちんと会社で働き、きちんと教会に通い、その頃は自分でも良くわからなかった自分を理解して指導してくださる方を探していたのですが、結局これもライフ神父さまのおっしゃていた「本当の指導者は聖霊です」というのが今となっては一番正しかったようでした。

こちらは子供の時から終わりのないもの、永遠につづくものがほしかっただけなのですけどね。どうしてこんなややこしいことになってしまったのだかわけがわかりません。でも神様はそうなさったのでした。

このあとがなにしろ、実に奇妙な話の連続になるので、面倒でもここまではちゃんと言わせていただきたいのです。ここまでの話はまだ導入でしかありません。とはいえ、遠藤周作先生や霜山徳爾先生、河合隼雄先生が関わり始めてからのことは、たぶんまだ覚えている方々もおいでのはず、特にマスコミ関係の方々。巫女だ、シャーマンだとカリスマだと、さんざん話の種になさったおかげでこちらはまともに会社勤めができなくなっての生活保護受給ですからねえ。忘れてなりますか。

しかし、どうも腹が立って感情的になってきましたから続きは次回に致します。

 

偶然の一致(共時性)の2―カトリック教会   2012.1.15

タイトルだけは大きく出たわけですが、さて、話を書こうとしてはたと手が止まってしまいました。書くのは簡単でも、なにぶん創作ではなくて実際の話ですから、いろいろとまずいことになる関係者がいるわけで、そのままそっくり書くとまたどこかの検閲機能が働きだしそうな気がします。こちらとしても80歳過ぎた方々を今ここで責めるのはどうも気が進みません。まったくもって、チェルノブイリの事故から今日までの年月は短くなかったのでこちらもいまや62才、なんだかげんなりしてくる感じです。

さて、どうしたものかと迷います。先ほどちょっとfacebookを覗いてみたとき、さる知人が仕事が一段落して、「愛しの座敷わらし」を読んでいるという話を書いていました。今年のゴールデンウイーク頃には映画も上映される作品です。なかなか興味深いテーマの話で、当方も読もうと思っていたところです。

おしらさまと呼ばれたり、座敷わらし、あるいは座敷ぼっこと呼ばれたりしている子供の姿の「なにか」を信じるか信じないかは人それぞれでしょう。でも他のことでも本当にありそうにもないようなことが、現実に起こることもあるのを知っています。ただ、見ていても見えないということもあるのですねえ。目の前の出来事を見ていてもある方たちはそれを利用しようとしかしません。お金や名誉や権力のための道具としか考えないと言うことも現実にあるのです。あるいは自分が軽蔑している人間が表面に出るのは許せないと言うことだったのかもしれません。

いろいろと事情あって詳しいことはあまり書けませんけれど、チェルノブイリ事故のちょっと前、新聞その他ニュースに、今、核戦争が起これば核の冬現象によって人類はほぼ絶滅するだろうという、科学者たちの報告が載っていたのを覚えているでしょうか。あのとき、世界は本当に危なかったのですよ。ある朝、会社に行く前に四ツ谷の早朝のミサに出た時、今は亡きポーランド人のオボンク神父様は真剣な顔で人類の危機だとおっしゃっていました。何かと問題もあっても、なんといってもイエズス会ですよ、前のパパ様が来日した時の案内役をしていた神父様ですよ。教会裁判官だったりしたこの方がいい加減なことをおっしゃるわけがありません。

そのときになってこちらは、市川教会以来ずっと気になっていたファティマのマリア様の予言はへたをすると実現してしまうのかもしれないと感じたのでした。その頃、こちらは直接には全然会ったこともなかった遠藤先生や霜山先生、河合先生たちとの奇妙なご縁に気がついて遠藤先生に申し上げたころです。それこそまさに共時性としか言いようのない話でした。しかし、それからマスコミに付きまとわれ、悩まされ、うんざりすることになったわけですが。

たぶん、始まりは遠藤先生の好奇心が原因だったのではないかとにらんでいます。こちらはいい迷惑(これで結局会社には勤められなくなるし、どこでも雇ってもらえないし、である方たちが何とか最低食べていけるようにと手を回して、こちらは生活保護というはめになってしまったわけです)。

問題はなぜか、こちらがもしかしたらこうなるのではないかと思って人に話したことが現実になったりしていたことで、こちらはただなんとなく気になったことを書いたところが、たとえば当時のソ連のことなどですが、翌朝のニュースのトップはそのソ連のチェルノブイリ事故だったり、中国のことを書けば修学旅行の事故があったり、こんなのこちらはどうしてそうなるのか知りませんよ。四ツ谷に行き始めた始めからすでに普通はありそうにもないことにばかり出会っていたのでこれもまたかと思いましたけど。

そんなわけでとにかくどこがどう動いたのかは知りませんが、たぶんローマが動いたのでしょう。あっという間に米ソ首脳対談に進み、核戦争の危機はとりあえず遠ざかったのがあの頃。(だから我が家にまで、ブッシュフォンが来たのでしょう。こちらは英会話のできない人間であせって切ってしまったのですが)

そこまではよかったのですけど、人間の心と言うのは簡単ではないのでその後がかなりいろいろと大変です。たぶんやたらに書くとまずいことばかり。あの時期は教会は莫大なお金を必要としていた時期で、こちらとしてもそれはわかっていたので、出来上がるまでは利用されても文句は言うまいと思っていたのです。でも、ひとつ終わればまた次の欲が起こってくるのが人間の世界なのもつくづくわかりましたよ。

しかし、長話になってきたので今日の分はこれまで。

 

 

 

 

 

 


過去ブログの再掲3

2013-05-17 22:12:19 | インポート

以前So-netブログに出してあった住友正友の記事のバックアップ 

 このブログの書き手は、政治・経済・商業などにはからっきし弱い人間です。難しいことはまったくわかりませんし、たいして興味も持っていなかったのです。しかし、新しいコーナーを作ったのでここにはどのような内容を中心に書いたらよいかと考えたわけです。そこで、自分のこれまでのものにはない全く新しい分野を探して思いついたのが日ごろお世話になっている日経新聞にも関係の深い大企業の存在の始まり、歴史、人物に焦点を当ててみたらどうだろうかということでした。ただの好奇心の産物なのです。

 そんなわけでまず初めは、身近なところで三井住友銀行の三井と住友の始まり、歴史を調べてみることにしました。

 まず、三井を検索してみて、自分が如何に何も知らないかがわかって、非常に恥ずかしくなりました。江戸東京博物館に行く度に毎回、越後屋のミニチュアを眺めていたというのに、どうしてあの店がそこにあれだけ大きく展示されているのか、実は何もわかっていなかったのでした。大変恥ずかしい話です。  

 次に、住友を検索してここでもまた吃驚仰天したのでした。こちらは、住友の祖の住友政友という人物に驚いたのです。

      http://www.sumitomo.gr.jp/history/index.html

 初め、僧籍にあったこの方が諸事情から還俗して、京で本と薬の店を開いたのがすべての始まりで、元々がお坊さんだった方ですから周りの人々にも大きな影響を与えて、慕われていたのだそうで、「文殊院旨意書(もんじゅいんしいがき)」「遺戒(ゆいかい)」など多くの書簡が残されているようです。

 驚いたのはこの方の、教えていたという、「正直、慈悲、清浄」を基本に、神仏を敬い、事に当たっては慎重確実を旨とし、倹約を怠らないことで、これらの精神は、永く受け継がれ、住友の「企業精神の根幹」になったというこのことでした。

 日本とキリスト教の問題で、日本人の宗教性を調べていったとき、この正直、清浄、慈悲の念に出会っていたからです。これこそは本来の日本人の深層に生きていた宗教性であろうと思っていましたが、住友政友の教えもまたそこに根ざしていたことに驚いたのです。

 時代は移り、国際化の波に乗っていやでも変わらざるをえない日本と日本人ですが、変わってしまってはいけないものもあるのだと思いました。

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 以上、こんな記事を書いていたことが判明。書き直したものとあまり変わっていないので一安心。

 


過去ブログの再掲2

2013-05-16 23:15:13 | インポート

遠藤周作先生の頃  2011.4.3
  

※ あの時は、チェルノブイリの事故が起こったのだ。

 

こんにちは~、お久しぶりで~す。あたしを知らない人もいるかなあ? あたし、うちのおばはんの相棒の、ケータイのマリーっていいます。ほんとのケータイよ。時々あの人の書き物に出てきてお手伝いしてるから、知ってる人もいる筈よ。

エーとねえ、今日の話って、昨日の続きのような、そうでもないような、そんな話なの。うちのおばはんの思い出話ってとこかしらね。あの人がまだ若い女の子だったころの話なの。還暦過ぎたおばはんが若い女の子だったころだもん、少なくとも40年以上も昔の話だわさ。

あの人のお母さんてあの人が高校三年の二月に亡くなったの。学校は三学期で、何やかやと大変だった時よ。あの人だって毎日真夜中もラジオを聞きながら勉強していた時期よ。本来ならお父さんはあの人を大学に入れるつもりでいたのに、お母さんの急死であの人、タガが外れてしまって何のために進学しなくてはいけないのかわからないって、勉強もしなくなっちゃったの。あのころなのよね、うちのおばはんがキリスト教の教会に行くようになって、プロテスタントの教会で洗礼を受けたのは。それでもって進学も止めちゃって、とりあえずお茶の水の池坊に籍だけ置いて毎日、好きなようにしてたのだけど、大学に行かなくても手に職をつければいいじゃないかって、言い出して勝手に和文のタイプを習って、勝手に就職しちゃったの。

そのうちにお父さんが再婚したの。そのころに今度はプロテスタントからカトリックに宗旨替えして、四谷の教会に行き始めてたんだけど、独立して一人で生活したいって言い出して知り合いのいた高円寺のアパートの部屋を借りて家を出たの。で、それからがあの人の今の人生の始まりなのよね。

いろいろあったんだけど、あの人、本来は修道生活を志して家を出たから、生活は真面目だったのよ。何分、人の心は複雑だしさ、自分自身の影をあの人に投影してあの人を悪者にして見た人がいたりして変なことになっちゃったのよ。だけどもうあれから何十年もたっちゃったのよねえ。

とにかくそれでも、周りはどう見ようとあの人自身はそのころはちゃんと会社に勤めて、教会にも熱心に通って生活してたわけよ。25,6年か、もうちょっと前かなあ、あの人がたまたま図書館で本を借りて読んだのよ。遠藤周作先生の『死海のほとり』っていう本よ。遠藤先生の本を読んだのは久しぶりだったの。

『死海のほとり』を読んであの人、泣いちゃったのよ。なぜかっていうとね、お母さんが亡くなった頃、遠藤先生の狐狸庵先生シリーズのおかげで悲しみから救われて、先生のご本をもっといろいろ読んでいたのよ。その中に『聖書のなかの女性たち』というのがあって、そこに幼くして亡くなったフランスの女の子、マチルド・ロアの詩が載ってたの。『死海のほとり』の修道士ねずみのはなしで、ああ、遠藤先生の心の中でマチルド・ロアの詩はこういう形になっていったのかってわかったの。それで書いたこともないファンレターなんてものをだしてみたのが遠藤先生とのご縁の始まりだったのよ。

ちょうどあの頃、うちのおばはんもユング心理学をちょっぴりかじっていて、同じ時期に先生もユング心理学を勉強して作品にも反映させていた頃で、遠藤先生の持ち前の好奇心で、忌々しい当時の朝日新聞の記者めが、きちんと当人のおばはんに確認もせずにいい加減なことを言い出して、とうとう、おばはんがまともに会社に勤められなくなっちゃったんだわ。詳しくは言えないけど、偶然がいくつも重なって起こって、普通起こるはずのないようなことがいくつも起こったの。それを利用しようとする人たちが暗躍して実に大変なことになったのよ、あのころ。

でもって20数年たって、関係者のかなりの人が亡くなってるし、家のおばはんも還暦を過ぎて、気力、体力が落ちたし、今回の大災害で日本に力がなくなると、もう、うちのおばはんも浮かび上がる瀬がないじゃない。このまま、真相は隠されたままでただの生活保護受給で暮らすおばあさんになるのかって、あの人、さすがに強烈に落ち込んじゃってるんだわ。

そんな時に聞いた初金の祈りの日の説教は、マチルド・ロアの詩や、死海のほとりのねずみではないけれど、うちのおばはんの心にももう一度、こういう状況でもキリストは一緒にいて同じ情けなさを味わっているんだって思い出させてくれたってわけなのよね。こういうのって、ドコモのギャラクシー・タブを2年縛りで契約して無理やり自分にやる気を起こさせたのと同じくらい、いやもっとかな、立ち上がって動こうって気にさせてくれるんじゃないのかな。どういうおばあさんになっていくかは今の生き方次第だもん。

これからどうなっていくかは、わからないけど、とにかくあの初金の祈りに行ったのはいい薬になったし、近くでいいからまた出歩いてみれば気分も変わってくるんじゃないかと思うわ。あたしやタブをお供に連れていけばいいのよ。新しいことを始めれば、落ち込んでなんかいられないんだから。地震は怖いけどなったらなったでその時よ。

なんかいやに長くなっちゃったから今日はこれでおしまい。 ほんじゃまたね、バイバイ。