シュタイナーの本を読むと、人間には3つの部分があるといいます。
それは、体、魂、霊です。体、心(=魂)、精神(=霊)と表現されていることもあります。
体、というのは一番わかりやすいのですが、魂と霊(そして心と精神)は、今まで自分が使っていた意味を考えると、その言葉同士をほぼ同じ意味で使っていたので、区別がつきませんでした。
家にある学研の辞書を見ても、霊と魂、心と精神もほぼ一緒の意味で使われているようです。
でも、辞書をよく読んでみると、精神には人間の心という意味の他に、「物質的なものを超越した宇宙の根源的存在」という意味もありました。
自分がきちんと理解できるように、少しずつわからないことをまとめてみようと思います。
シュタイナーコレクション1『子どもの教育』の中で、訳者の高橋巌さんの解説があります。
そこにこの3つの人間の本性について書かれてありました。
(そこでは霊、魂、肉体と表現されています)
霊は、神の光のことであり、人間は一人一人、神の光をそれぞれ担っている。神は創造主であるということだから、宇宙をどのように作るかの設計図をもっており、人間に霊的な部分があるということは、自分はなぜこの世に、今ここに存在しているのかということ、自分の存在の目的と存在の根拠を自分で知りうる、ということを意味している。
それが人間の霊というものだ、ということでした。
魂というものは、何か自分の周りに対象があったときに、自分にとってそれが気に入るか、気に入らないか、自分にとってプラスになるか、マイナスになるかということを、自分という主観との関係において体験する働きだそうです。
なるほど、と思ったのは、ヨーロッパでは霊と魂を一緒にして、精神や心、心理と言っており、魂と肉体、あるいは心と身体という二つの区分を伝統にしてきたそうです。
伝統的な日本の考え方や仏教の考え方は、人間の本性は肉体、魂、霊の三つの部分から成り立っていると考えられていたそうです。
・・・でも、私は霊と魂はごっちゃになっていました。日本の伝統的な考え方は、少なくとも私には浸透していなかったです。
今では西洋的な考え方が主流になっているということなのでしょうか。
そして、肉体と魂だけの二分説になると、魂だけだと、それは好きか嫌いかという主観的な反応しか示すことができないので、生まれてきた子どもには外からしっかりした伝統の枠を与えて、その枠からはみ出さないような魂をつくっていかなければならないという教育観が成り立ちます。
そうすると、子どもにはできるだけしつけを厳しくして、ルールに則り、幼い魂を特定の社会環境に適応させていくことが教育の基本になる、ということになるのだそうです。
一方、霊、魂、体の三分説の立場になると、生まれてくる幼い魂には霊的な部分があるので、その霊的な部分を損なわないで成長させるような魂を健全に育てることを考えることになり、考え方が二分説とは正反対になる、ということでした。
自分が何のために生まれてきたのか―その目的をそれぞれの人間は持ってこの世に誕生してきて、その目的を果たすことができるように手助けをしていくのがシュタイナー教育の考え方だと私は認識していますが、なるほど「霊」の部分を認識するかしないかで、これだけ教育の立場が変わっていく訳ですね。
そして人には「神とつながっている」霊的な部分があるという視点は、人間に自然に愛を抱かせるものなのかなあ・・・と。
子どもたちがそれぞれの目的をもって生まれてきているということを知るとき、自然にそのことを大切に守っていってあげたいと思いました。
そして人間一人一人が神の光を担っているということは、きっとその光でもってつながっているということなのではないかなと。
そう考えると、周りの人たちがとても大切に思えるのです。
それは、体、魂、霊です。体、心(=魂)、精神(=霊)と表現されていることもあります。
体、というのは一番わかりやすいのですが、魂と霊(そして心と精神)は、今まで自分が使っていた意味を考えると、その言葉同士をほぼ同じ意味で使っていたので、区別がつきませんでした。
家にある学研の辞書を見ても、霊と魂、心と精神もほぼ一緒の意味で使われているようです。
でも、辞書をよく読んでみると、精神には人間の心という意味の他に、「物質的なものを超越した宇宙の根源的存在」という意味もありました。
自分がきちんと理解できるように、少しずつわからないことをまとめてみようと思います。
シュタイナーコレクション1『子どもの教育』の中で、訳者の高橋巌さんの解説があります。
そこにこの3つの人間の本性について書かれてありました。
(そこでは霊、魂、肉体と表現されています)
霊は、神の光のことであり、人間は一人一人、神の光をそれぞれ担っている。神は創造主であるということだから、宇宙をどのように作るかの設計図をもっており、人間に霊的な部分があるということは、自分はなぜこの世に、今ここに存在しているのかということ、自分の存在の目的と存在の根拠を自分で知りうる、ということを意味している。
それが人間の霊というものだ、ということでした。
魂というものは、何か自分の周りに対象があったときに、自分にとってそれが気に入るか、気に入らないか、自分にとってプラスになるか、マイナスになるかということを、自分という主観との関係において体験する働きだそうです。
なるほど、と思ったのは、ヨーロッパでは霊と魂を一緒にして、精神や心、心理と言っており、魂と肉体、あるいは心と身体という二つの区分を伝統にしてきたそうです。
伝統的な日本の考え方や仏教の考え方は、人間の本性は肉体、魂、霊の三つの部分から成り立っていると考えられていたそうです。
・・・でも、私は霊と魂はごっちゃになっていました。日本の伝統的な考え方は、少なくとも私には浸透していなかったです。
今では西洋的な考え方が主流になっているということなのでしょうか。
そして、肉体と魂だけの二分説になると、魂だけだと、それは好きか嫌いかという主観的な反応しか示すことができないので、生まれてきた子どもには外からしっかりした伝統の枠を与えて、その枠からはみ出さないような魂をつくっていかなければならないという教育観が成り立ちます。
そうすると、子どもにはできるだけしつけを厳しくして、ルールに則り、幼い魂を特定の社会環境に適応させていくことが教育の基本になる、ということになるのだそうです。
一方、霊、魂、体の三分説の立場になると、生まれてくる幼い魂には霊的な部分があるので、その霊的な部分を損なわないで成長させるような魂を健全に育てることを考えることになり、考え方が二分説とは正反対になる、ということでした。
自分が何のために生まれてきたのか―その目的をそれぞれの人間は持ってこの世に誕生してきて、その目的を果たすことができるように手助けをしていくのがシュタイナー教育の考え方だと私は認識していますが、なるほど「霊」の部分を認識するかしないかで、これだけ教育の立場が変わっていく訳ですね。
そして人には「神とつながっている」霊的な部分があるという視点は、人間に自然に愛を抱かせるものなのかなあ・・・と。
子どもたちがそれぞれの目的をもって生まれてきているということを知るとき、自然にそのことを大切に守っていってあげたいと思いました。
そして人間一人一人が神の光を担っているということは、きっとその光でもってつながっているということなのではないかなと。
そう考えると、周りの人たちがとても大切に思えるのです。
素直な、文章ですね。
勉強になりました。
返信が大変遅くなり、失礼致しました!
娘も中学生になり、色々変化する年頃ですが、
子どもがなにを目的として生まれてきたのか、
それを本人が自分で見つけられるよう手助けしていきたい、と日々思っています。