アリとキリギリス(八ヶ岳みちくさ散歩より)
(略)

こんな雪景色の寒い季節がやってくると、ふとイソップ物語の童話「アリとキリギリス」を思い出します。

アリとキリギリス 
夏のある日、キリギリスが野原で歌を歌っていると、アリたちがぞろぞろ歩いてきました。



「おい、アリくんたち。そんなに汗をびっしょりかいて、何をしてるんだい?」



「これはキリギリスさん、わたしたちは食べ物を運んでいるんですよ」

「ふーん。だけど、ここには食べ物がいっぱいあるじゃないか。
 どうして、いちいち家に食べ物を運ぶんだい。
 おれみたいに、お腹が空いたらその辺にある食べ物を食べて、あとは楽しく歌を歌ったり、遊んだりしていればいいじゃないか」

「でもね。キリギリスさん。
 今は夏だから食べ物がたくさんあるけど、冬が来たら、ここも食べ物はなくなってしまいますよ。
 今のうちにたくさんの食べ物を集めておかないと、あとで困りますよ」

 アリたちがそう言うと、キリギリスはバカにした様に、

「ハハハハハハッ」

と、笑って。

「まだ夏が始まったばかり。冬の事は冬が来てから考えればいいのさ」



 そう答えると、また歌を歌い始めました。

 さて、それからも毎日キリギリスは陽気に歌って暮らし、アリたちはせっせと家に食べ物を運びました。



 やがて夏が終わり、秋が来ました。



 キリギリスは、ますます陽気に歌を歌っています。

 そしてとうとう、寒い寒い冬がやって来ました。

 野原の草はすっかり枯れ果て、キリギリスの食べ物は1つもなくなってしまいました。



「ああ、お腹が空いたな。
 困ったな。
 どこかに食べ物はないかなあ。
 ・・・あっ、そうだ。
 アリくんたちが、食べ物をたくさん集めていたっけ。
 よし、アリくんたちに何か食べさせてもらおう」

 キリギリスは急いでアリの家にやって来ましたが、アリは家の中から、



「だから、食べ物がたくさんある夏の間に食べ物を集めておきなさいと言ったでしょう。
 家には家族分の食べ物しかないから、悪いけど、キリギリスさんにはあげる事が出来ません」

と、言って、玄関を開けてくれませんでした。



 キリギリスは雪の降る野原の真ん中で、寒さに震えながらしょんぼりしていました。

 今、楽をしているなまけ者は、そのうち痛い目にあうというお話しです。

子供の頃、この物語を聞いて

「そりゃ、キリギリスは自業自得だし、アリの生き方が正しいでしょ」

と思ってましたが、今になって、このアリとキリギリスを読むと、なんだかどちらが正しいのか疑問に感じます。

というのも、八ヶ岳にいると、みんなキリギリスのように自由気ままに、その日暮らしの人もたくさんいるからです。

もちろん自給自足や備蓄、そういった観点から見れば八ヶ岳の人の方が、都会の人よりもアリっぽい生き方かもしれませんが、「働きアリ」という視点で見れば、アリは資本主義経済で自由を奪われ、生きるために必死に働かせられている大多数のサラリーマンを象徴しているのかもしれません。

食べ物にはありつけなかったかもしれませんが、冬がやってくるまでのキリギリスは、毎日がハッピーで、自分らしく生きて、本当に幸せだったことでしょう。

だからといって、アリが不幸であったかといえば、アリはアリで、そうやってチマチマ備蓄して備えることに幸せを感じるタイプであるとしたら、それはそれで冬がくる前の苦労も幸せだったのかもしれません。

最後が、アリだけのハッピーエンドで終わっているから違和感があり、これで冬はお互いの得意分野を分け合って双方助け合っているクライマックスだったら、どっちが正しいとかなく、誰もが得意分野があり、それを淡々とやっていれば、すべてが循環して皆が幸せになれるという、もっと素晴らしいストーリーになるのに・・・と思いました。

実際、現代版のアリとキリギリスは、冬にアリがキリギリスに食料を分け与え、お礼にキリギリスが歌を歌ったりと、まさに理想的な未来の循環社会に書き換えられたパターンもあるようです。

アリとキリギリス。個性や得意分野はそれぞれ。

これからの時代は、それぞれの大好きなこと、得意なことの一品持ち寄りによって循環する社会。

八ヶ岳では、そんなコミュニティーを目指していきたいと思います。(転載終了)

先日、この「アリとキリギリス」のエピソードについて書きました。

なんとなく書き終わった後、なんで今のタイミングにアリとキリギリスなのか・・・色々考えていると、これはこの先の日本の未来にも関係してくることなのかもしれないと思いました。

3度の臨死体験者で有名な木内鶴彦さん。

臨死体験中に地球の過去から未来までタイムトラベルし、そう遠くない日本の未来の姿も見てきました。

その未来のタイムラインの中には、自然災害などの危機よりももっと破滅的な未来のビジョンもありました。

それは、現代の行き過ぎた強欲資本主義が飽和状態となり、紙が神となってしまった拝金主義から多くの大国・大衆が目覚め、ある時期に通貨への信用が世界規模でなくなってしまったタイミングがあったそうです。

その瞬間、何が起こるかといえば、昨日まで当たり前に使えていたお金が、ある日、突然使えなくなってしまうのです。

それが1日だけならまだしも、2日、3日・・・1週間も1ヶ月も半年以上もお金が使えない・・・。

通貨危機の場合、極端なことをいえば、パン1つ100円だったのが、パン1つ100万円になってしまう、いわゆるハイパーインフレが起こります。

それでも物資がまだ市場にある時期はマシで、本当の危機はお金が使えない、物が買えないよりも、物そのものが市場から消えてしまうことです。

食料自給もエネルギー自給もできていない日本。特に生産ではなく消費専門の都会は、お金の価値がなくなった瞬間から急速に食料そのものが周囲から消え去っていきます。

木内さんが見てきた未来のビジョンの中で、もっとも警鐘を鳴らしているのは、都会の食料危機。

まさにアリとキリギリスの世界です。

ただ、これは都会の中でも備蓄していたアリと備蓄していなかったキリギリスの話にとどまらず、やがて日本全体を舞台としたアリとキリギリスの関係に事態は発展していくそうです。

それは、都会から食料が消えると、飢えた民が暴徒となって田舎の農村を襲撃するという悲劇にまで陥ると・・・。

その時に、せめて地方にたっぷりと都会の人達を食べさせるだけの余裕があれば、イソップ物語とは違う、助け合いの調和的なアリとキリギリスの物語となります。

だから、木内さんは未来の村として自給自足できる農村コミュニティーを推奨し、自分もまた、起こっては欲しくはないですが、万が一のそういった未来に備えて、自分たちだけでなく、困った人達と争うことなく調和するための受け皿の構築を進めています。

世界情勢が緊迫する中、本当の危機は戦争でもなく、この資本主義の崩壊とともにやってくる食料やエネルギー危機であります。

「都会じゃないと仕事がなくて生きていけない」

そんな常識が

「都会じゃとてもじゃないけど生きていけない」

そんな常識に変わる日も、そう遠くはないのかもしれません。