
表面の肖像マニュエル・ケソンの死後大統領を務めたセルヒオ オスメニャSergio Osmena (1878-1961)裏面は、立法府の建物。1987/1999通貨 現行発券紙幣
セルヒオ オスメニャ
第4代大統領。コモンウェルス(独立準備政府)第2代大統領。 1878年9月9日セブに生まれ、サンファン・デ・レトランに学び、後にサント・トーマス大学で法律を専攻した。米西戦争で学業は中断を余儀なくされたが、1903年に最高裁が司法試験の受験を認め、2番の成績で合格した。 1900年、自らが創設したセブの日刊紙「エル・ヌエボ・ディア(新時代)」において平和的手段を通じた独立運動を推進。1904年、セブ州知事に就任した。 1906年、独立を綱領とする政党禁止令解除後の民族主義政党の合従連衡により結成された国民党の初代党首となる。翌年の第1回総選挙で国民議会議員に当選、1916年の二院制議会では下院議長に就任、1923年には上院議員に選出された。 1933年、独立使節団として尽力したアメリカ議会のヘア・ホーズ・カッティング法(10年後の独立承認)はケソンの反対によりフィリピン議会で批准されず、タイディングス・マクダフィー法を持ち帰ったケソンが1935年のコモンウェルス成立時の大統領となり、その下で副大統領に甘んじた。 1944年8月にアメリカでケソンが死亡、亡命政府の大統領に昇格したが、戦後初の大統領選でロハスに敗れ、政界を引退した。 1961年10月19日83歳で死去。
高額紙幣になるほど悪態が比例するフィリピンかな?
セルヒオ オスメニャ
第4代大統領。コモンウェルス(独立準備政府)第2代大統領。 1878年9月9日セブに生まれ、サンファン・デ・レトランに学び、後にサント・トーマス大学で法律を専攻した。米西戦争で学業は中断を余儀なくされたが、1903年に最高裁が司法試験の受験を認め、2番の成績で合格した。 1900年、自らが創設したセブの日刊紙「エル・ヌエボ・ディア(新時代)」において平和的手段を通じた独立運動を推進。1904年、セブ州知事に就任した。 1906年、独立を綱領とする政党禁止令解除後の民族主義政党の合従連衡により結成された国民党の初代党首となる。翌年の第1回総選挙で国民議会議員に当選、1916年の二院制議会では下院議長に就任、1923年には上院議員に選出された。 1933年、独立使節団として尽力したアメリカ議会のヘア・ホーズ・カッティング法(10年後の独立承認)はケソンの反対によりフィリピン議会で批准されず、タイディングス・マクダフィー法を持ち帰ったケソンが1935年のコモンウェルス成立時の大統領となり、その下で副大統領に甘んじた。 1944年8月にアメリカでケソンが死亡、亡命政府の大統領に昇格したが、戦後初の大統領選でロハスに敗れ、政界を引退した。 1961年10月19日83歳で死去。
高額紙幣になるほど悪態が比例するフィリピンかな?
マッカーサに疎んじられ、大統領とは名ばかり。なんでマッカーサに嫌われていたのか諸説ある。曰く、オスメーニャの性格が暗くて優柔不断だったからとか、ケソンの影に隠れて何にもしてなかったからとか。
私の勝手な推測(資料的根拠は無い)だが、マッカーサに阿諛し彼が比島に持っていた諸利権を戦後に至るまで保証し、更に彼マッカーサの個人的復讐心からの比島奪還作戦を支持していたケソンに対し、そのどちらも否定的だったオスメーニャは当然疎んじられるようになったのだろう(あくまで推測)。
目の前に大統領オスメーニャがいるのに、比国内に残留し対日協力者と化していたロハスと密かに連絡をとり、ロハスからの情報を基に比島奪還作戦を進めたマッカーサ。
もちろん、オスメーニャは蚊帳の外である。1944年(昭和19年)10月、レイテ島タクロバンに上陸し、「I have returned」としつこく喚くマッカーサの演説を聴きながら、一緒にレイテに上陸したオスメーニャは、その夜の宿舎を探すためにタクロバン市内を一人で歩き回っていたと言う。(秘書も従兵も付けて貰えなかった)
この一エピソードを以ってしても、比国の今日はずっと前から決まっていたような気がする。
オスメーニャほどアメリカにコケにされた大統領はいないようですね。アメリカの常套手段をまざまざと。