星の上の馬鹿者

これは放浪記です。いろんなところに行っています。

神様、神様、君となら

2022-01-24 22:02:19 | 日記

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よくわからないけれど、まあとりあえずいい曲なんだろうなって曲。

それがスピッツの「運命の人」です。

何がいいのか、そもそも「いい」の定義もあやふやですが、完全なる私の主観によりますと、この曲はとても「いい」のです。ですが、人によっては一ミリたりともこの曲が心の琴線を揺さぶることもないでしょう。この私も、とてもとても知名度の高い、youtubeMVの再生数が10億を超えるようなレジェンド級の曲を聴いて、何の魅力も感じなかったこともありますし、人の好みなんて天から底へと、千差万別なのでしょう。

それでもやはり、いやだからこそと言いましょう、私はこの「運命の人」を、スピッツの数ある名曲の中でもピカイチにいいものだと、あえて声高にするわけです。

スピッツといえばぁ、やれ「ロビンソン」とか「チェリー」とか、「空も飛べるはず」とか、きっとApple Musicだってスピッツを流してくれと頼めばでハイハイこれですね、といった具合に流れてくる定番が上記のものになります。やっぱり耳あたりが良いのは認めざるを得ませんし、ミュージシャンなんて基本売れた曲以外の知名度は悲惨なものです。バンプだったら「天体観測」ですし、HYだったら「366日」とか。流行りってまあそんなものです。

 だからといって、流行り物以外をスルーするのが当然なのか、というとそんなわけありませんし、知られていない部分にも、立派な味付けが施されているのは事実なわけです。

そりゃミュージシャンだって人間で、音楽はプロのするところで、音楽は芸術にも値して、それに気持ちを込めずに作る方が難しい気がします。というのは一ミリも作曲したことのない私の主観になりますが、的を得ていると勝手に信じて・・・

そして長年活動し続けているスピッツですが、「運命の人」は上記のロビンソンとかが有名曲がリリースされた後に発表されたものです。

私にとって、この曲の推しポイントは、圧倒的なメロディラインの良さです。

なんというか、邦楽ならでは、といった感じがします。スピッツならでは、な感じももちろんあります。歌詞は相変わらず、少しよくわからない、フワフワしたニュアンスで、でもそれが帰ってこの曲の明るさを彩っています。

サビの「はーしーる、はーるかー」という伸びのいいメロディが、なんて聴き心地のいいものやら、と感動してしまいます。それにつながるまでのAメロ、Bメロも小気味良いテンポで進んでいくのがいいです。

この曲って、結局何が言いたいのかわからないのですよね。まあスピッツの曲全部がそうなのですが。それなのに、けっこうはっきりした雰囲気で、気分を明るくさせてくれるような曲なので、「頑張れ」とかいった応援ワードなんて全くないのに、なんだか元気になるわけです。

私にとっての、長年のヘビーローテーションですかね。

 

 

 


いつの日もこの胸に、流れてるメロディー

2022-01-24 21:17:36 | 日記

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物憂げな6月の雨に打たれて・・・

という、有名なあの曲のフレーズが頭に思い浮かぶような、そんな雨の日です。と、言いましても、6月の雨」という歌詞とは裏腹に、本日は真冬の1月下旬、外出をするのにはヒートテックが必須となる寒空の日曜日です。昨日一昨日なんぞは極寒もいいところでして、雪でも降るんじゃないだろうかと、少しばかり気持ちの切り替わりにふさわしい情景を期待してみたのですが、結局のところ大阪では雨模様となっております。雨の夕方、コロナウイルスの陽性反応から解放されて4、5日が経った今日、私はいい具合に部屋にこもって、ただひたすらに、自分の好きな小説とか音楽に身を費やしています。

そんな中で、冒頭の一曲を久しぶりにといいますか、ふと改めて聞いてみようという気になったわけです。ミスチルはコンスタンスにapple musicで垂れ流しており、最新アルバムもちゃんと聴きました。それでも長らく活動しているだけあって、山ほどの曲があり、ミリオンセラーの数も日本のアーティストの中でも群を抜いている、そんなわけですから、ついつい1曲の細かな魅力にも着目し難いところがあるのは否めないのです。

それはミスチルに限らず、音楽全体として言えるようなものでしょうか。私たちは常に物事の全ての魅力を感じ続けて生きているわけではありません。感動する映画を観ている時に、派手なアクションのシーンを観ているような興奮を覚えるのは難しい。みんなで楽しくドライブをしてはしゃいでいる時に、はんなりと落ち着いた寺社仏閣を鑑賞している気分にはなれない。どんなものでも、いつでも思い出すことのできる感性とは、なかなか巡り合うことのできないものです。だからこそ、まるで擦り切れるように何回も、私たちは同じ音楽を聴き続けて、その度に同じような感動を、それでも飽きることのない感動を味わっているのでしょう。

最近では、谷崎潤一郎の全集を読み始めたり、微分積分の勉強をしたりと、新しい物事にチャレンジしていることが多いわけなのですが、そんな時にこそ、初めて味わった感動を忘れないでいられるような、これぞといった名曲が心に響いてきて、純な気持ちを取り戻したりするのでございます。

音楽にはそんな力があります。綺麗なメロデイにはその気持ちに優しく触れてくれるような優しさも含まれていたりします。それが自分の頭でっかちな、知識を詰め込みすぎてしまったストレスを緩和してくれて、優しさを取り戻したりするのです。

人間は機械にもコンピューターにもなりきれない。そんな不完全な心というものがあるからこそ、同時に物事に泣いたり怒ったり、笑ったりするような優しさも含まれている、それを音楽によって思い出すことができるというのは大変に素晴らしいものです。

 

 

 

 

 


全集を初めて買ってみた

2022-01-22 20:48:54 | 日記

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谷崎潤一郎にハマりかけています。元々好きな作家の一人ですが、代表作くらいを知っている程度には好き、というレベルだったので、ディープに好んでいたわけではなかったのですが。。。

先月くらいに谷崎潤一郎の全集を思い切って買ってみました。一冊7000円ほどとなり、全部で26巻もあるので、一気に買うのは無理だということで、とりあえず1巻だけを、それも古本で4000円ほどのものをAmazonで買いました。

実際手元に取ってみると、なるほどなかなかに絢爛なデザイン、白ベースのカバーに赤色の分厚い冊子が届きました。これは大体新潮文庫のせいなのですが、谷崎潤一郎といえば完全に赤のイメージが強いです。ちなみに川端康成はネイビーで、三島由紀夫はオレンジになります。

全集では、文庫化されていない話なども掲載されているらしく、代表作『刺青』『悪魔』などの他にも、全く知らないものもありました。そのどれもが、やはり谷崎らしく迷いのない文章と共に、豊富な語彙力に任せた華やかな感覚、そしてその底に見えるような悪魔めいた人間の内面が見えてくるような感じがします。

谷崎潤一郎は、文学の中に哲学や人間模様を強く反映させることはありません。それでも自分にとっては、この卓越した才能の中に、彼の作品でしか感じられない人の形を見ることができるような気がして、今日もせっせと彼の全集を読み進めるわけです。

そんなこんなでもうそろそろ1巻を読み終えてしまいそうなのですが、如何せん4000円の買い物になりますので、容易に読み終えてしまうのは少しだけ抵抗がある気がしないでもないかなと、そんな最近の読書日和です。

 


つまらない自分のために

2022-01-21 11:10:31 | 日記

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体感では完全にコロナウイルス感染症から治ることができたというのに、いまだに出勤することは禁止されています。それなので、本来仕事中のこの時間にブログを書くことにしました。

仕事先の要望では、出勤するためには「就業制限解除通知書」というものが必要とのことです。自治体の保健所から、陰性と判断した人の元に届けられる、待機期間が終了した証明書のことらしいです。その証明書の発行は昨日の段階で申請が終わったのですが、私の住む大阪では感染者が爆増していることもあって、あらゆる段取りが自分の方まで回ってきていない感がすごいです。区の方から連絡が来るとされていたのに、数日待っても来なかったりなどがザラにありました。結局こちらから連絡しなければいけないパターンが2、3回ほどもありました。

コロナなんて先月ほどでは、1日の感染者が数人いる程度にまで収まっていたというのに、今では1日に数千人に陽性反応が出るなど、なかなか収束しないものです。結局他人事のように感じられていたものが、とうとう自分の生活を強く脅かしてしまったものですし、当たり前のリスクを背負っていることに気づいてしまったような感覚があります。幸いにも軽症で済んでしまったのでよかったのですが、色々と考えさせられる今日この頃です。

私は今、シェアハウスに済んでおり、そこでは10人超の人たちと同居しているのですが、私がコロナに罹った時、この今の生活形態に強く疑問を持ちました。楽しく暮らしていることの外側にある、気づかなかったデメリットの波のようなものが、黒く私の価値判断に指針を示しているような感覚です。悪く思われそうな言い方をすれば、私たちは特に何か理念があって一緒に暮らしているわけではありません。人生においてそれが必要とされない時代はあって然るべきだと思います。平和な以上、それを脅かす過激な行動は簡単に肯定できるものはありません。なので何も疑問もないのならば、そのまま暮らしていけたら素晴らしいものです。

問題は、私自身が疑問に感じていることです。とても自己中心的で嫌気も差してくるのですが、結局私は周りと賑やかに生きていることに飽きてしまったのかもしれません。その賑わいによって、私が賄うべき幸福感や満足感に行き着くことがなかったのでしょう。人生は楽しいだけではないはずです。死んでしまいたいくらい病んでいる時とか、タブーの中にある根付いた自分の意識とか、集団のライトな感覚に応えられるものが必要なのです。それがこの家にはないのだと思います。

私の、他人に対してタブーにしている面は、「自分にも詰まらない面がある」ことだと思います。人の目に詰まらなく映らないように意識して生活しています。そんな自分を手放せないのは、もう仕方がない気もしますが、どうなのでしょう。

誰かにもっと弱みを見せられたら、つまらない自分、どうしようもない自分がうまく他人の価値観に反映されたら、よかったのでしょうけれど、それは無理な話に感じたのが、今回のコロナ騒動でした。限界まで弱りきった自分を救えるのは、自分しかいなかったのです。周りの人たちは、私がコロナを移してしまわないか気をつけなければならないものでしかなかったのです。それは他人が悪いわけではありません。私のこの価値判断に問題があるのだと思いますが、それを手放すことすらできません。

虚しいような気持ちが堂々巡りを重ねていき、今のような心境になりました。今はとにかく一人になりたい。誰とも連絡をとりたくもありませんし、誰とも話したくない。ずっと一人がいいのです。人間なんて所詮、団結もクソもない一人の個体でしかないのでしょう。


コロナにかかる前の、何も知らない自分

2022-01-20 09:32:35 | 日記

 

以下の文章は、激しい頭痛と高熱にうなされるハメにあう、その数時間前に綴ったものです。何もありきたりもない、いつもの調子で文章を書いています。よろしければご覧ください。

 

。。。

 

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ブログ書かなくちゃブログ書かなくちゃブログ書かな。。。

というわけで、三連休のど真ん中というのに、私はタリーズコーヒーにまできてこれを書いています。家にいるととにかく集中できない、未知の病にやられてしまっているので、わざわざ足を伸ばさないと行けないわけなのです。そして結構な頻度で行っている糖質制限もあって、ろくに頭が回りません。頭が重くて、そして頭痛に似た謎の症状が出ています。これを治す方法はただ一つ、糖質をしっかり摂取することなのですが、私は意地でも取りたくなかったりしています。体のアトピー性皮膚炎のこともあって、いつも炭水化物とか甘いものを摂りすぎると必ず体が痒くなるのです。それはとてもひどいものでして、小さい頃から腕や足の関節にある湿疹に悩まされ、大学生の頃は入院したこともありました。そんな病弱っ子であり、さらに小さい頃からの群を抜いての泣き虫、弱虫、いじられっ子で、それは今となっても、いつまでも変わりません。。。。いや別にあれですよ、別に憐憫の情を求めているわけではなくて、ただ単に事実を述べているに過ぎないので、どうか私のことを何も思わないでください。同情されることも、失望されることも山ほどありました。その度に嫌なことから逃げて、そして背徳感に押しつぶされて、それを繰り返していくと、もういうてるまに中年と呼ばれる年になってきたではありませんか。さて、私は東西南北どちらに進めばよくて、私の見えないもんは虚数の如く可視できないものとして諦めるしかないのでしょうか。

こうして嘆くような毎日を過ごします。堂々巡りの現実のツアーに、たくさんの自分のしてきたことが尾鰭のようについてしまうわけです。もう何もしたくありません。明日とかもう刺激の1日でしかなく、早く早く、ここから逃げ出したいのです。明日はみんなでUSJに行くらしいです。私も同行するのですが、色々と懸念に変わる材料がそれこそ大量にあって、正直家でじっとしておいた方がどれだけホッとすることでしょう。何もしない日々だけで生きて行けたら、自分の足跡だって見なくて済むし、これからリスクを背負うことだってしなくて済むはずなのに、どうして人間は前を向いて生きていくことを強いられるのでしょうか。下を向けば向くほど、死に近づいている感じがするのは何故でしょうか。

私の唯一成長した点を挙げるとすれば、こんなめちゃくそに病んだ思考を持ち続けていても、文章を書くことができるという点だと思います。それだけは良かったなって。心理療法をある程度学んだおかげでしょうか。そんな気がしますし、そんなこともない気がします。こんなに頭が回っていないのだからさぞかし見直すとき嫌な気持ちになるのでしょうね。やっぱり足跡なんてつけたくないや。

 

。。。

 

以上になります。この後私は家に帰り、自分の体調がよくないことを自覚し体温を測るのですが、39度の高熱が出ていることが判明し、そのまま自宅で療養、みんなと行く予定であったUSJにも行けずじまいでした。この感染者が爆増している最中、みんなと外出しないままに終わってしまったのは、ある意味よかったのかもしれません。

 

以上の文章では、激しい頭痛を伴っていることを綴っています。この時点でおかしいことに気づくべきでしたが、陽性であることはさらに数日間知らぬままで自宅療養を選択してしまったのは、自分の判断がよくなかったのだなと痛感しています。この直後に私の高熱はスッと引いていき、頭痛もあっさり治ってしまったわけですから、油断していたのだと思います。そのせいもあって陽性であることも判明が遅れてしまい、やってしまったなと、自分の判断が甘かったととても反省しております。

 

皆様も、気をつけて。