街の風景

散歩の時に出会った何気ない風景、手押しポンプ、使われなくなったコンクリート製のゴミ箱、懐かしい洋館付き住宅などなど。

「雪虫」…安芸太田町津波

2014-11-12 11:34:38 | その他

 

雪虫を今までの人生で、見たことがありませんでした。

ラジオで、雪虫を見たのでそろそろ初雪の季節になりましたなどと言う、

北国の方のお便りを「らじる★らじる」で10月末に聞いて

どんな虫だろうと興味を持っていました。

しかし、北国のことで広島では見ることはないと思っていました。

所が、安芸太田町の友人の所の柿をもぎに行ったときに、

飛んでいるのを初めて見ました(2014年11月8日)。

 

白いものがふわふわ飛んでいます。

写真を撮ろうと捕まえているうちに弱ってしまいました。

 

 

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上野焼(あがのやき)…福岡県田川郡福智町上野

2014-09-15 11:42:07 | その他

 

お茶道具の窯元に見学に行きました。

素晴らしい茶碗がありましたが、「お茶」を点てることはしていませんので見るだけです。

 

お茶道具ではありませんが「蚊遣り器」です。

お茶はしないが、蚊には悩まされているので欲しいなと思いました。

しかし、洋風な我が家には置く所がない。

この「蚊遣り器」は、

渋い、木目が浮き出た縁側のここにしか似合わない。

 

上野焼熊谷本窯 十六代熊谷保興

 

 

 

 

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筑前秋月城跡…福岡県朝倉市秋月

2014-09-05 10:57:15 | その他

 

長屋門

一度は行ってみたかった秋月に行ってきました。

筑前の小京都と言われている静かな町でした。

この長屋門に面した「杉の馬場」は桜の時期に、もう一度訪れてみたいと思わせる風情でした。

 

 

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「公衆電話ボックス」…高松市四国村前

2012-07-08 12:01:00 | その他
高松で、「わら屋」のうどんを食べた時に、
敷地内に古そうな電話ボックスを見かけました。
中には公衆電話が有りました。
     右の立札
この建物は明治三十三年十月
東京の京橋際にたてられた
わが國最初の公衆電話ボックスを
復原したものです。
当時公衆電話は「自働電話」
とよばれていました。

うした公民館便りによると、
今日から牛田公民館の公衆電話が廃止される事になりました。
理由は「利用の少ない公衆電話」だそうです。

携帯電話の普及からか、街中の公衆電話も少なくなりましたが、
加入電話や携帯電話を利用できない場合の時の為、
まだ全国で23万台位あるそうです。
緊急時には、重要な連絡手段ですから、
余り減らさないで下さい。

そう言えば、秘蔵のテレホンカードは何処にいったのだろう…

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能を見る…広島市中区加古町

2010-11-30 18:03:49 | その他
芸術の秋の終りにやっと日本の古典芸術に触れる事が出来ました。

家内の友人の「能の謡と舞のお稽古の発表会」に行って来たのです。

平成22年11月23日にアステールプラザ能舞台で「広島大島会・秋の会」と言う発表会です。

能は、もう30年以上前に一度だけ観賞(見ただけ)した事が有りましたが、

チンプンカンプンで何も解りませんでした。

もちろん面白く有りませんでした。

ですから、家内に誘われたので・・・・行ったのです。(伏字は仮名で4文字)

しかし、今回は良くは解らないのですが、能を見て面白かったのです。


舞囃子…小袖曽我


連吟…敦盛

以上が友人の発表。

見ていて清々しい気分でした。



能…半蔀(はしとみ)

シテ役の方のお稽古の発表でしたが、ストーリーを書いた資料を事前に頂いていたので、

何を演じているのか、セリフ(謡かな)も少しは理解できました。

AKB○○や若い子の歌は、歌詞も良く聞き取れないし、解らないし、騒がしく聞こえるだけで

頭が痛くなるだけだ。

やはり、この歳になると日本の本物の古典芸術もっと親しむべきだ。

家内からの誘いに乗って良かった。

たまにはいい事もあるようだ。

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続・田原坂の戦いの後に門前宿「廣嶋屋」に泊まる…熊本市花園

2010-07-01 23:25:00 | その他

田原坂の戦いを体験して、熊本城の天守閣には疲れの為登閣出来なかった我々「歴爺」は

田原坂の戦いの疲れを取るため、熊本市内に宿を求めました。

熊本市内の中心地から2kmばかり離れた、本妙寺の参道にある「廣嶋屋」という宿です。

この宿が、非常に良かとばってんでした。(少しおかしい熊本弁でごわすが…)




これが、宿屋の外観です。

この写真は次の日の早朝、ウォーキングに出た時に撮ったものなので、

1階は雨戸が全部閉まっていますが、一部少し隙間が有る所が宿屋の入口です。



ここが玄関ホールに当たる所です。蛍光灯で明るいですが、
古い笠に裸電球がぶら下がっているのも残されています。
もし、蛍光灯が無いと、目に老いが来ている「歴爺」全員、
上がり框に蹴躓いていたでしょう。
                                    2階に上がる階段。四つん這いで上がりますが、
                                    そんなに急ではありません。



2階の我々の部屋は寝る部屋とくつろぐ部屋の二部屋と豪華です。いずれも本床の間付きと縁側付きです。

明治時代には無かった、薄型テレビも完備してます。

一人の「歴爺」が縁側から外を見ていますが、この次の下の写真です。



熊本城の緑の木々の中に、天守閣が見えます。夜はライトアップされていました。

しかし、せっかくの熊本城の緑や天守閣の景色も、無粋な四角い熊本市役所の建物が邪魔をしています。



夜の宴(うたげ)の食事は、熊本名物のからし蓮根、天草沖のかますの塩焼き、タケノコとゼンマイの煮つけなどや、

宿の女将手作りのゆづの寒天?(だったかな)などなど

海の物、山の物、裏の畑の物と我々「歴爺」にはちょうど良い料理です。

それにこれ以外に、もう一品有ったのです。




馬刺しです。上の段の左から「たてがみ」、「ふたえご」、その下が「赤身?」(「トロ?)です。

スライスした、たまねぎと一緒にしょうが醤油で食べます。

「たてがみ」、「ふたえご」は通が好む様ですが、馬刺し初体験の「歴爺」やゲテモノ?を食べれない者もいます。

あぁ~勿体ない、こんなに美味しいのに。2人前食べました。

余計な事ですが知らない人に解説。(インターネットから)
ふたえごは、馬のあばら部分の3層肉で硬めのコリコリとした食感と程良い甘味が特徴です。
噛むほどに旨味を増す美味しさです。
たてがみとは、別名“コウネ”とも呼ばれる馬のたてがみ部分の脂身です。
口の中で溶けていくような感じが特徴です。




翌朝は、雨がやんだので一人でウォーキングに出かけました。

廣嶋屋のまえの門をくぐると、加藤清正公のお墓が有ります。

石の墓石ではなく、浄池廟の建物の真下に清正公が葬られているので、建物がお墓にあたります。

加藤清正は、肥後藩の基礎を築き、熊本城中で亡くなり、遺言でここに葬られたそうです。

加藤清正と言えば、猛将で鳴らした怖い人に思っていましたが、熊本では「清正公(せいしょうこう)」と呼ばれ、

親しまれていました。

像の高さは8.2mで彫刻家の北村西望製作です。第2次大戦の時に金属の供出で像は亡くなりましたが、

昭和35年に熊本城とともに像も再建されました。

近くから像を見上げれば、さすが北村西望作だけあって、力強さを感じます。



加藤清正の睨んでいる先は、熊本城と肥後の国です。

廣嶋屋からは、この階段300段を登って来ます。

朝早くから、散歩の人やこの階段でトレーニングをする人が来ています。


ウォーキングから帰ってくると朝食になりました。

卵焼き、みそ汁、焼き魚、海苔、炊きたてのあつあつご飯。

黙って御替わり2杯しました。



食後、のんびりとして宿を出ました。

清正公のお墓にお参りにくる人の為の、お茶屋さん、売店、お土産屋も兼ねていますので雨戸を全部開けています。

肥後のおてもやんの女将が見えます。

歴史に詳しくない「歴爺」に熊本の事を色々と教えて頂きました。

宿泊費は、一泊2食付きで一人6,000円でした。麦水も少し飲みましたし、浴衣まで借りました。

建物は明治時代でも改装はされていますが、トイレやお風呂はどうかと言えば、トイレはウオッシュレット。

浴室はホーローバスで足が伸ばせます。シャワーも付いています。

なんだか申し訳ない金額です。


右の奥の屋根が、清正公のお墓の浄池廟の入口の門です。


この「廣嶋屋」さんは、いままで私が泊まった「C級グルメ」ならぬ「C級旅館」の中でもベスト3に入ります。

お金を出せばいい所もありますが、こんな金額で大満足が出来ました。

このほかの私の「C級旅館」は、島根県の平田の「持田屋旅館」と彦根市の「とばや」です。



この「廣嶋屋」を出て、「歴爺」達は1000円高速で山口県の熊毛ICまで帰りましたが、

女将のお勧めの熊本土産の農産物を買いに、山鹿市に出来た

“JAかもとファーマーズマーケット「夢大地館」”に立ち寄りました。

ここで、すいか、メロン、トウモロコシ、はちく、わらびなどなど、段ボール箱いっぱい買って帰りました。

歴爺の「田原坂の戦い」見聞の旅の最後は、農産物買い物ツアーとなりました。



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田原坂の戦いを見に行く…熊本市植木町田原坂

2010-06-28 00:38:19 | その他
福岡での高校の同窓会から広島に帰って来て、1日広島に居ましたがまた九州に出かけました。

今度は、歴史を楽しむ仲間の「歴爺」グループ3人組です。

「歴女」に対抗して付けた「歴爺」(れきジィと読みます)ですが、私より若い2人には悪いかな・・・。

去年の7月に「関ヶ原の決戦地」を見に行き、次は「田原坂」と決まっていましたが各歴爺の時間や

時期(暑いとだめ、寒いとだめなどうるさいので)で行く日の調整がつかず、

やっと私は九州から帰ってきたばかりなのに、疲れをものともせずに挙行しました。

例の、1000円高速を利用するのです。

熊毛ICに集合して、一路高速道路で熊本の植木ICに向かいました。


田原坂の戦いの事はご存知の事と思いますが、簡単に説明しておきます。(パンフレットなどからの受売りですが…)

明治10年2月14日に薩摩の西郷隆盛が政府に反旗をを掲げ、政府尋問の為薩摩兵を率いて北上しました。

政府軍の鎮台兵が立て籠もる熊本城を包囲し、主力はさらに北上して熊本城を救援する官軍と高瀬(玉名市)で

交戦したが、利あらず引いて吉次峠、田原坂、山鹿の線で阻止を図ったのです。

当時はその中で田原坂だけが、大砲を運ぶ事が出来る唯一の道でした。

熊本城を築いた戦国時代の名将加藤清正は、城の北側は植木町まで続く台地なので

その端の要害の田原坂から熊本城までの14kmを道を深く掘りこんだ凹道として、城北防衛に備えたのです。

この凹道は、戦略的に道の両側に土手を積み上げた道で、この土手の後ろに隠れて、

通過する敵を攻撃する様になっていたのです。

官軍は熊本城の救援のため、その田原坂の道の突破を図ったのです。




歴爺達は、植木ICを出て田原坂に向かいましたが、坂の下の官軍の陣地の方に、馬(車)を進めました。

まず、「田原坂の戦い」を知るには現地を見なければなりません。

田原坂の上り口に立ちました。

しかし、台地の高さは60m~70mとの事で、坂道の距離も1.4kmしかなく大した坂道ではありません。

ウォーキングでも簡単に歩ける道です。

どうしてこんな所で17日間も戦いあったのだろうかという思いでした。



坂の登り始めです。オヤ!少しキツイ坂かな。道が折れています。       
                                 しかし、だんだん登って行くと両側に土手が切り立ってきました。



最初の攻撃の時はここら辺りまで官軍は攻めた様です。
しかし、ここからの三の坂で薩摩軍の反撃に会います。     坂の上は公園となって案内板も建てられている。
                                    その公園に植木町田原坂資料館があります。
                                    我々歴爺はその資料館に、「植木町観光ガイドの会」
                                    のボランティアの方に案内をお願いしました。
                                そのガイドさんのお蔭で戦況などよく解りました。感謝しています。



壁に弾痕の跡が残っている土蔵が復元されています。
田原坂の戦いがいかに凄かったかを示す弾痕です。
官軍は、一日で32万発の小銃弾を使ったと言われています。
                        西南戦争戦没者慰霊碑(田原坂の戦いは西南戦争の中の一戦場でした)



資料館の中は詳しく戦闘の状況が説明されていますし、1日で32万発の銃弾戦で、小銃弾同士が、

空中でぶっつかり合った玉なども展示されています。


薩摩兵の服装と装備。木綿の着物、先込め銃、日本刀。      官軍の服装と装備。ラシャの軍服、元込め銃、銃剣。

田原坂の戦いの17日間の間、晴れは4日しかなく大半は雨の中の戦いで、薩摩兵の木綿の着物は

水を吸い動きが取れず、草鞋の鼻緒は切れ、先込めのエンピール銃は粉の火薬が水を吸って不発になった。

それに対して、官軍は水に強いラシャの軍服、皮の靴、雨の中でも発射が出来る元込めのスナイドル銃を

使用していました。

薩摩軍の日本刀は戦いの初め頃は、占領されても夜討の抜刀隊が陣地を取り返していたが、

官軍も元士族の警視庁巡査の抜刀隊を編成して対抗したため、薩摩軍はだんだん押されていった。



資料館のすぐ近くに、田原坂の戦いの薩摩軍と官軍の戦闘配置を一目でわかる様に

「パノマラガーデン」が造られていています。

それを見ると、官軍がなぜ三の坂(下の写真の中央上部に立札)を抜く事が出来なかったがよく判ります。

三の坂は、道の右側(西側)は崖で、頂上に陣地を築いた薩摩軍の正面を丸裸で通るような三の坂です。

これでは雨に強かった官軍もなすすべが有りません。

三の坂の突破をあきらめ、官軍は西側向かいの丘を占領し砲陣を築いたり、もっと熊本城寄りの横平山を占領し、

田原坂の背後からの攻撃により薩摩軍は敗走することとなった。




田原坂の戦いに敗れた薩摩軍の美少年になりきった私は

“雨は降る降る じんばは濡れる 越すに越されぬ 田原坂  右手に血刀 左手に手綱 馬上ゆたかな美少年”

と歌いながら西郷ドンがいる熊本に逃げ延びたのであります。



その逃げ延びた熊本は、包囲したお城の本丸は包囲の前日に原因不明の火事で焼けてしまっていましたが、

今回の訪問では再建されていました。

田原坂の戦いで疲れて、天守閣の2階でお城のビデオを見ている内に眠ってしまい、

天守閣の頂上に登るのをあきらめました。



戦いの後の熊本の商店街にも視察に向かいました。

広島の本通り商店街のアーケードより大きく、地方に多いシャッター通りではなく元気な町です。


キョロキョロする右の二人が仲間の歴爺。                   女学生を撮ったのじゃありません。
                                   木の根元のスノコから水蒸気が出ているのです。
                                   今日の熊本は暑かったが、お蔭で少し涼しかった。                          



田原坂の戦いを見に行く前に、植木町で熊本ラーメンを食べました。豚骨ですがしつっこくなく美味しかった。

私のC級グルメ:熊本ラーメン「えぼし家」 ラーメン650円


まだ、旅はつづく。




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高校同窓会…福岡市

2010-06-16 02:23:59 | その他
高校の同窓会に行ってきました。

高校は福岡の学校でしたので、同窓会は毎年行われていたのですが、

一度も出席していませんでした。

しかし今回は、卒業50周年という事で、3年前から記念事業案を募集し、

在福岡の幹事さんが色々な計画を立案してくれました。

記念事業は、「博多座」での歌舞伎座観劇。(在校生を招いて一緒に観劇)

      学校見学と在校生の部活との交流。

      記念総会・懇親会

      修学旅行の再現。(京都観光・懇親会・奈良観光)

と、楽しい企画です。

私は、他の用事と重なり、修学旅行の再現に参加出来ませんが、その他の会合に出席しました。



「博多座」

高校時代にはこの付近は商店街だったが、

平成11年に区画整理され「博多りバレイン」の建物が建てられ、「博多座」も出来た。

高校時代の私はこの付近の商店街に住んでいたので懐かしい。


六月博多座大歌舞伎の昼の部を観賞。               観賞して出てくる生徒たちも。


卒業した高校の正門。                      会議室で副校長よりの現在の学校の説明が有った。


創立80周年記念で作られた大理石張りの中庭。          吹奏部による校歌演奏を聴く。


東館(当時は無かった)の屋上から運動場を見る。
左の体育館も無かった。                       運動場も広くなり、運動部活動が盛んだ。


学んだ教室は昔のまま。                     55人クラスだった{と思う)ので椅子と机でぎっしりだった。


昔の制服(当時のでは無い)。男子はこんな風だったが、
女子の制服はもっとダサかった。                校内に手押しポンプが有った。(当時は無かった)      


記念総会と懇親会は、学校の隣の石蔵酒造で。
当時は真面目だったので入った事も無かった。       現役応援団による「祝いの雄たけび」
                                    応援団員は、現在3名で内女子2名との事。危うし応援団。


校歌を歌う同級生達。                       博多では終いは「祝い目出度」で締める。


福岡には、卒業後も両親がいたので度々行っていたので、福岡の街の変わりようは知っていたが、

理由は無いが高校には寄らなかった。

今回は50周年だし、これを逃すときっかけが出来ずに永久に出席をしなくなるだろうと思い参加しました。

同じクラスの出席者は12名だったのだが、顔と名前が一致せず貰った名札や教えて貰い

みんなと50年ぶりの再会が出来ました。

お互いに年は取ったが、一瞬で昔に帰り思い出を語り、時間が過ぎました。

今回の同窓会の参加者は117名で、

観劇・学校見学・記念総会・京都観光・京都懇親会・奈良観光などに50名~75名が参加したようです。

卒業した時は、450名位だったがもう物故者は60名を超え、連絡不明者も40名を超えるとの事で、

私は卒業50周年記念同窓会を楽しみましたが、参加したくても出来なくなる時期はすぐに来るかも知れない。

そうならない様に、ウォーキングを頑張ろう。





 



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バラの花…広島市中区平和公園内

2010-06-04 23:09:52 | その他
原爆の子の像の横にバラ園が有ります。

私たちのクラブが、毎月クリーンウォークをする時の集合場所です。

そのバラ園に「ヒロシマヘイワキネンコウエン」と言う名前のバラが有るのを知りました。

クリーンウォークの時にこの横に集合しますが、バラをよく見た事が有りませんでした。

見に行くと黄色い花でした。



「ヒロシマヘイワキネンコウエン」「Friedenspark Hirosima」と書かれてます。




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初夏の訪れ…広島市中区白島・三川町

2010-06-03 22:08:44 | その他
今日のお昼前に、我が家を出て神田橋を渡る時に振り返ると、

入道雲が牛田山の向こうにもくもくと立ち登って来ていました。

まだ梅雨入り前なのに、夏の風景です。

日差しも強く、眩しくてサングラスが必要でした。



街の中は「とうかさん」の準備がまっ盛りです。

6月の第一金曜・土曜・日曜日に行われる「とうかさん」は広島の初夏の訪れを告げるお祭りです。

今年初めての浴衣を着る「ゆかた着始め祭」としても広島の代表的なお祭りです。

露店が街中に1000件も建ち並ぶお祭りです。

梅雨の6月のお祭りは全国でも少なく、この広島の「とうかさん」に全国からの露天商が集まり、

「夏祭りの仕事始め」として「とうかさん」でお店を開き、それから全国へ散らばって行くという事です。

昔懐かし「お化け屋敷」もあります。


朝は16℃で少し涼しかったが、最高温度は27.4度。

暑かった



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