📖本『私の○衛兵時代
ある映画監督の青春』
陳凱歌(チェン・カイコー)
苅間文俊=訳
名著復刊!文化○革命は
終わっていない。
『🎥黄色い大地』
『🎥さらば、我が愛/覇王別姫』
『北京ヴァイオリン』……中○を代表する映画監督の、自らの原点となった反逆の日々
「天国」を夢見た毛○東 最後の挑戦、文革。
若き○衛兵として、陳凱歌はどう生きのびたのか?
破壊と挫折、下放先の大自然のなかで得た魂の新生。
過酷な体験を鮮烈な感覚でつづる、死と成長の記録。(以上、書籍の帯より)
(本文引用、始め)
復刊のためのまえがき(チェン・カイコー)
このささやかな本が出版されてから今日までに、中○で起こった変化は、世界の誰もが認めるだろう。人民の生活は改善され、一部の人々は裕福にさえなった。苦難はもはや過去のものだ。まさに喜ばしい進歩であり、これを誇りに思い、満足するのも当然といえよう。
しかし、表面的な姿を取り去って見ると、中○の社会の内部には、この本で描いたような「文化○革命」を生み出した基本的な要素が、いまも存在していることが分かる。非理性を特徴とする歴史の循環は、いまも歩みを止めてはいない。いつまたその破壊的な力が噴(ふ)き出すか分からないのだ。
「文化○革命」が引き起こした根元的な破壊は、社会のデッドラインを突破してしまったことだ。温和とか、善良、敬虔(けいけん)、素朴、忍従という、孔子の提唱した理念で代表される中○の伝統文化が、覆(くつが)えされてしまっただけではない。洋の東西を問わず、人々が世代を越えて命をかけて守ってきた普遍的な価値さえも、覆されてしまったのだ。デッドラインの突破は、ちょうど水をいっぱい入れた皮布の底に、キリで穴を開けたようなものだ。目の前で水が流れ去るのを、なすすべもなく見ているしかない。覆水はもはや元には戻らない。四十年の時が過ぎ去ったが、我々は今もその低迷から脱出できずにいる。さらに多くの時間が流れようと、抜け出すことはできないだろう。
たとえば中○のインターネットに入れば、いまも同じように激しい憎悪(ぞうお)と、氾濫(はんらん)する怨(うら)み、そしてわめき散らす叫び声を、目にするだろう。いまも変わることなく、新たな犠牲者が作り出され、人々の心理状態は、多数に盲従(もうじゅう)したままだ。過去の熱狂は、現在も変わらない。ただ熱狂の対象が、政治から金銭に変わっただけだ。それは、なぜだろう。
それは、集団から放り出されるのを恐れる原初的な恐怖のなかに、人々がいまも生きているからだ。物質的な進歩は、魂の安らぎをもたらしはしなかった。現在の状況は、たしかにリンゴを手に入れはしたが、それは、きれいに見える皮を剥(む)いて食べつくしただけで、じつは甘美な果肉を投げ捨てたようなものだ。投げ捨てられたのは、自律した、落ち着いた、高潔(こうけつ)な生き方だ。
我々が、真理から身を遠ざけ、公理(こうり)を共有することなく、同じ社会に属す集団どうしが憎悪し(互いに憎み)あい、不公平に無関心であり続けるならば、経済的にどれほど大きな発展を遂げようとも、我々が誇(ほこ)ってよい理由などない。「文化○革命」は、終わってはいないのだ。
『私の○衛兵時代』は、私の懺悔(ざんげ)の書である。復刊に際して、このささやかな本を読み返し、自分が当初どれほどの痛みと敬虔な思いを胸に、あの時代と人々を描いたか、それに気づかされて、私ははっとした。この本がいま復刊される意味は、ほかでもない。「文化○革命」や人類自身が引き起こしたあらゆる歴史上の災難は、いまも我々の傍(かたわ)らの闇に潜(ひそ)んでいる。この本は、ただそっと語りかけるだけだ。
見よ、やつはいまそこにいる。
2006年10月
(引用、終わり)