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弁護士・元ロースクール教授宮武嶺の社会派リベラルブログです。

名匠新藤兼人逝く 松坂慶子を女優にした「事件」

2012年06月03日 | 映画

 

名脚本家で大監督だった新藤兼人さんが2012年5月29日100歳で大往生され、本日、告別式が行われたそうです。

私の中では、新藤監督はむしろ脚本家。

その中でも、最も衝撃を受けたのが、高校をサボって大阪の毎日ホールに行ってみた大岡昇平原作、野村芳太郎監督の「事件」でした。

(神奈川県の山林で、若い女性の刺殺死体が発見された。被害者(23)はこの町の出身で、厚木市でスナックを営んでいた。数日後に警察は19歳の工員を逮捕 した。彼は、事件の夕刻、現場付近の山道で地主に目撃されており、事件翌日から被害者の妹と駆け落ちして同棲していた。裁判が開始されたが、召喚される証 人から次々と意外な事実が解明されていった。。。)



この作品で、大女優松坂慶子はまさに「女優」に脱皮したと言っていいでしょう。「女優の松竹」と言われる松竹の女優さんの中でも歴史に残る美しさの松坂慶子(当時26歳)。

子どもの頃から大ファンの私にとっては、最近の肥えた姿は本当に残念なんですが、この作品でただ色っぽいだけでなく、本気で演技に取り組む女優さんになられたと思います。

(これは、真田広之と共演した「道頓堀川」)



生ける北島マヤこと大竹しのぶが松坂慶子の妹役でした。当時21歳の大竹ですが、高校生の私が見ても演技の天才。また兄渡哲也の10000倍くらい上手い役者渡瀬恒彦が愛人役。

これでは二人の名演の間に埋没するのではないかと思ったのですが、堂々と渡り合いました。

史上最高の美人女優松坂慶子は、大岡昇平原作、野村芳太郎監督、新藤兼人脚本の「事件」で、大竹しのぶと渡瀬恒彦に互角に演技して、女優開眼したのでした。



それに比べ、容疑者役の永島敏行を筆頭に、検察官役の芦田信介、弁護人役の丹波哲郎の3人は、なにかの間違いなのか?演出なのか!?と思うくらい、一本調子のひどい演技でした。

まあ、「事件」といっても、法廷場面は添え物だったんですね、新藤脚本では。



清純そうに見えて、深くもしたたかな大竹しのぶと、蓮っ葉に見えて一途に男を愛する、幸薄い松坂慶子。

この二人の魅力を余すところなく引き出し、後の大女優松坂慶子を開花させた、新藤兼人。

僕の中では、この一本が忘れられません。

「女優の松竹」を支えた昭和の名匠逝く。ありがとう、新藤監督。

 

 

追伸

大学生になってから観た、戦後最悪のえん罪事件の一つを描いた「松川事件」。

新藤脚本でも使われている弁護団長正木ひろしが喝破した名言

「主戦場は法廷外にあり!」

は、今でも私の座右の銘の一つです。

 

 

 

監督作品だと「竹山ひとり旅」も好きです。

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新藤さん告別式 400人別れ惜しむ

6月3日 16時41分 NHK
新藤さん告別式 400人別れ惜しむ
 

「裸の島」や「原爆の子」など社会派の多くの名作映画を手がけ、90歳を過ぎても第一線で新たな表現に挑戦を続けた新藤兼人監督の告別式が3日、東京都内で営まれ、別れを惜しむ多くの人が参列しました。

告別式は東京・港区の増上寺で営まれ、映画関係者などおよそ400人が参列しました。
先月 29日に100歳で亡くなった新藤監督は、広島の原爆の被害と、そこでたくましく生きる子どもたちを描いた「原爆の子」や、瀬戸内海の離島の生活を実験的 な手法で表現した「裸の島」などの多くの社会派の作品で世界的にも高く評価され、90歳を過ぎても第一線で活躍を続けました。
式場の祭壇は、「裸の島」の舞台となった広島県三原市の「宿彌島(すくねじま)」をイメージしてユリの花などが飾られ、参列した人たちは遺作となった「一枚のハガキ」を演出する新藤監督の遺影に手を合わせていました。
俳 優の柄本明さんは弔辞の中で、「『石内尋常高等小学校花は散れども』の撮影で、現場に監督が車いすに乗って入ってこられ、われわれ役者に深々とおじぎを し、『監督の新藤です、きょうからよろしくお願いします』とおっしゃいました。このとき、僕たちはいま映画の中にいると思いました。忘れられない奇跡の一 瞬です」と、新藤監督との思い出を語っていました。
新藤監督のひつぎには、デビュー作から「午後の遺言状」まで多くの作品に出演した女優で妻の故・乙羽信子さんが監督のためにいつも削って準備していたという鉛筆が入れられ、参列者はひつぎをのせた車の出発を見送りながら新藤監督のめい福を祈っていました。
「一枚のハガキ」に出演した俳優の大杉漣さんは「100歳になってもまだ映画監督として表現にもがき苦しむ姿は本当に美しかったです。私にとって励みになるような存在で、感謝したいです」と話していました。
ま た、「竹山ひとり旅」に主演した林隆三さんは「新藤監督の撮影現場は、夢工場とでも言いましょうか、熱気と活気と情熱がほとばしっていて、みんなの力で映 画を作り上げようという雰囲気でした。もう一度出演して新しい自分を発見させていただきたかったです」と語っていました。



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追悼 新藤兼人監督 (吉田 幸雄)
2013-01-30 11:00:32
昨年、秋田魁新報文化欄に掲載されたものです。
本当に惜しい方を亡くしてしまいました。


 日本の最高齢監督で、リアリズムに徹した映画作りを追求してきた新藤兼人監督が、5月29日に老衰で亡くなった。100歳の誕生日を4月22日に迎え、多くの関係者が祝ったばかりだった。「これが私の最後の言葉です」と車椅子から挨拶し、参加者を笑わせたほど元気だった聞いている。
 新藤監督は私にとっては、尊敬する三人の監督のうちの一人だった。「『戦争』が『正義』の名のもとに行われ、無くならないが、そうであったら、『不正義』の『平和』のほうがまし」という姿勢は私の鑑となる。
 私は、何度か新藤監督とお会いする機会を得たが、07年4月、東京の映画美学校で行われた、映画『陸に上った軍艦』(山本保博監督、新藤兼人脚本)の初号試写会が忘れられない。
新藤監督の真骨頂であるその反骨精神は、さまざまな新しい演出を生む。映画『陸に上がった軍艦』では、前進しているのに退却しているように見せかけるために、武器も満足に持てない水兵たちが軍靴を反対に履いて海岸を歩き足跡を残す。将校視察の中、真面目に行進する様子などの徹底したリアリズムの演出は、大人が大真面目にする行為を笑いにつなげる。
 一番前にすわっていた監督は、両脇を支えられながら立ち上がり、客席に向かって映画にかける思いと世界中で無くならない戦争について話された。そのときの表情はおだやかで何事かを成し遂げた満足感を感じたのだが、柔和で優しい人柄の中にも、時々鋭く感じる眼光が今でも忘れられない。
 新藤監督の生涯について触れておきたい。
 新藤は1912年に広島市佐伯区(旧石内村)の豪農に生まれた。父が借金の連帯保証人となったことで破産し、14歳のころ一家離散。苦労を重ねながら映画人を志す。
 34年に京都の新興シネマに入り独学でシナリオを描き始める。溝口健二監督に師事し、44年に松竹に移った。同年4月に召集され、宝塚海軍航空隊で終戦。松竹に戻り再び脚本を書き始め、「安城家の舞踏会」(47年)や「わが生涯のかゞやける日」(48年)などの脚本を手掛け、吉村公三郎監督とともに次々とヒットを出し、松竹のドル箱コンビと言われた。 しかし、50年に松竹を退職し、吉村監督、殿山泰司監督たちと独立プロダクションのはしりとなる「近代映画協会」を設立した。映画評論家の山田和夫氏から聞いたのだが、新藤は「作品が当たっている間だけ会社はチヤホヤする。一本でもこけると、まるで掌を返したように冷たくなる。それが資本だ。どんなに苦しくても独立する以外にないと、決断した」と語ったという。
 監督デビューは翌51年の「愛妻物語」。以降「原爆の子」「第五福竜丸」など近代映画協会を拠点に旺盛な創作活動を始める。60年には全編セリフを排した「裸の島」がモスクワ国際映画祭のグランプリに輝く。95年には「午後の遺言状」が日本アカデミー最優秀作品賞するなど、あらゆる映画賞を独占。老いをテーマに社会現象を巻き起こした。
 1971年、学生だった私は、連続殺人犯の永山則夫元死刑囚をモデルとした映画「裸の十九歳」(1970年公開)に衝撃を受けた。永山とほぼ同世代だったこともあるが、新藤監督は冷徹な目で永山と社会の状況を見据えてフィルムに焼きつけ、私に「意識の裸状態」を自覚させた。
 また新藤は、自身による監督作品以外に40人以上の監督に230本を超える脚本を提供してきた。主な作品は『安城家の舞踏会』(吉村公三郎監督、1947年)、『松川事件』(山本薩夫監督、1961年)、『ハチ公物語』(神山征二郎監督、1987年)などがあり、新藤の才能と努力を物語っている。
 新藤はその初心を貫き通した。49年、従来の浪花節ではない新しい時代を反映させた『森の石松』(吉村公三郎監督)は、野心的で一定の評価を得たのだが、興行的には失敗し、上層部からの圧力もあり、松竹を退社せざるを得なくなる。大手で潤沢な資金を得てする映画作りは動員が一番という制約がつき、新藤たちのような新しい試みをするものは疎まれてしまう。また、資金が無ければ無いなりの、工夫を凝らした映画を作り続けた。    
 映画が、白黒・サイレントの「動く写真」の時代からカラー・ステレオに替わり、ここ数年で3D、そしてデジタル化へと技術はめざましく進歩している。だが、観客数は思うように伸びていないようだ=日本映画製作者連盟(映連)調べ。
 そんな映画不況の中で、昨年の公開以来コンスタントに動員数を伸ばしているのが、新藤兼人監督が99歳で発表した遺作の映画「一枚のハガキ」だ。本人が「映画人生最後の監督作」と語る名作。第23回東京国際映画祭審査員特別賞のほか、第35回日本アカデミー賞優秀監督賞、第54回ブルーリボン賞監督賞、第66回毎日映画コンクール日本映画大賞、第85回キネマ旬報ベストテン作品賞を受賞した。
 映画のテーマは「平和」。反戦のメッセージとともに、すべてを失っても、負けずに、たくましく生き抜く人間のすばらしさを、力強く、ときにはユーモアを持って描いている。 大震災や福島第一原発事故、そして経済的な困難などの大変な状況の中、美しいラストシーンで描かれる新藤兼人監督の希望と再生のメッセージは、観る者に深い感動とともに、困難な状況を抱えていても自ら歩もうとする第一歩を意識させる。
 新藤兼人監督は、「天」という文字が刻まれた墓に眠るという。妻で最高の同志だった、先に眠る音羽信子さんとともに。新藤は生前、「『天』は『二人』と書くんだよ」と話していたという。 山本薩夫、今井正、新藤兼人と、私の尊敬する3人の確固たる哲学を持った監督がいなくなってしまったが、作品は残る。
6月いっぱい、秋田県内各地で、新藤兼人監督の集大成である映画『一枚のハガキ』が上映されるが、日本映画界最後の巨匠の作品をこの機会にご覧いただきたい。
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