TBSテレビは10日、TBS系「報道特集」でキャスターを務める金平茂紀氏が31日付で同局の執行役員を退任すると発表した。同番組のキャスターは続けるという。

 

 

 記事が短い!

 写真付きだからベタ記事とは言わないのかもしれませんが、これでは事情も何も全く分かりません。

 金平さんと言えば、高市総務大臣が放送内容が公平でなかったら電波を停止する可能性があると発言したことに対して、「私たちは怒っています」という記者会見を開いた一人。

 記者会見に臨んだ6人の中で、ただ一人TBSの社員という、いわば宮仕えで立場で、しかも、この記者会見を取り仕切る司会進行役をされていたので、その勇気が絶賛されるとともに、TBS社内での立場は大丈夫なのかと危ぶまれていた中での、今回の「降格」人事です。

 なにか関係があるんじゃないかと思わない方が無理です。

「私たちは怒っています」。テレビジャーナリスト6人の「高市発言」に対する抗議記者会見全文と動画。

金平さんのお名前の文字が間違っていてすみません。正確には金平茂紀さんです。

 

 

 金平さんはこの記者会見で

「自主規制とかそんたくとか、あるいは過剰な同調圧力みたいなものが、それによって生じる萎縮みたいなものが、今ぐらい蔓延してることはないんじゃないかというふうに私は自分の記者経験の中から思います。」

「考えてみますとテレビのキャスターとか、コメンテーターっていう人たちがこうやって一堂に局を越えて何かするというのは、2001年の4月に個人情報保護法に異議をするキャスター声明っていうのがあってだいたい同じ顔ぶれだったんですよね。そのときは実はテレビの各チャンネルのキャスターたちがみんな勢ぞろいしました。筑紫さんがまだ存命だったですね、安藤優子さんとか、日テレからもテレビ東京からもフジテレビからも来ました。それが今、できなくなっています。」

「僕らの呼び掛けみたいなものが横に広がっていない、縦に広がっていないということを認めざるを得ません。皆さんは取材という形でここにお集まりいただいているんですけども、今日のアピール文の呼び掛けの対象のかなりの部分っていうのは、もしかすると僕は取材されている皆さんじゃないかというふうに思っている次第です。」

とおっしゃっています。

 TBSの幹部、現場の記者はこの声をなんと聞く。

 

 

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メディアの法と倫理

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マス・メディアやジャーナリストによる取材・報道活動を「法」と「倫理」という2つの社会的ルールの観点から分析し、批判する学問分野である「メディア倫理法制」の概説書。

 

 

金平さんって顔が怖いでしょ?そこがものすごく信用できる。こういうのがジャーナリストの顔なのでは?

もしこの人を食事に呼んだら、安倍首相は物がのどを通らないでしょう。

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「法匪」の時代=金平茂紀

「電波停止」発言で広がる波紋

 「法匪(ほうひ)」と聞いても普通の人は何?と首をかしげるだろう。手元の国語辞典には、「ホウヒ」はギョーザの皮の類をさす「包皮」と、それから、おならをすることの「放屁」しか出ていなかった。

 「法匪」という言葉を僕が聞いたのは、昨年の安保法制をめぐる国会審議の際、参議院の公聴会に出席した元最高裁判事、浜田邦夫氏の発言だった。浜田氏は、集団的自衛権が合憲だというアクロバティックな解釈をする人々を「法匪」と呼び一刀両断にした。「法匪という言葉がございますが、法文そのものの意図するところとはかけ離れたことを主張するあしき例で、とても法律専門家の検証には堪えられない」

 先月初旬の高市早苗総務相の発言が内外に波紋を広げている。政治的公平性を欠くような番組を繰り返して放送した場合、政府がテレビ局に対して「電波停止」を命じる可能性があることに言及したものだ。僕自身、先月末、ニュースキャスターらとともに「私たちは怒っている」という記者会見に参加した一人だが、その後も憲法学者らが抗議の声明を出した。

 高市発言への意見はさまざまだろう。日本は民主主義国家なのだから、多様な意見を述べる自由は保障されている。問題の核心は、為政者や役人らの放送法についての理解度だ。

 放送法の精神を理解するために、その成立過程を調べると、実に興味深い資料に出会う。たとえば旧逓信省(現総務省)が作成した国会想定問答集。「放送は情報及び教育の手段……として至大な影響があるので、放送をいかなる政党政府、いかなる政府の団体、個人からも支配されない自由独立なものとしなければならない」「憲法には表現の自由を保障しており、また放送番組に政府が干渉すると放送が政府の御用機関となり国民の思想の自由な発展を阻害し戦争中のような恐るべき結果を生ずる」とある。これが当時の役人の考え方だった。それから幾多の歳月が流れた。今、法匪という言葉を連想する事態が起きている。

 僕らは、水爆実験やミサイル打ち上げ成功を喜々として報じる北朝鮮の国営テレビのニュースをみて、ああ、あの国には放送や報道の自由なんてないのだろうな、などと感じている。その北朝鮮の憲法にこんな条文がある。「憲法第67条。公民は、言論、出版、集会、示威と結社の自由を有する。国家は、民主的政党、大衆団体の自由な活動条件を保障する」。法の精神を解さず、支配の道具くらいにしか考えていない為政者の国の、冷徹な現実だ。他山の石としよう。

 

 

戦時下の「国内放送の基本方策」再来の悪夢 テレビ試練の1年を振り返る=金平茂紀

 今年も残すところあと6日。年末回顧モードにある。テレビ報道にとって2015年は試練の年だったと思う。何が起きていたのか。具体例をあえて挙げずに、現象のみを列記してみよう。(1)報道するに際し、自主規制・そんたくが著しくまん延した(2)監視犬としての働きが弱まり、愛玩犬さえ出現した(3)多様性が徐々に失われ、横並びの単色化がみられた(4)少数派の主張を切り捨て、多数派の主張に身を寄せる傾向が顕著になった−−全部が全部そうなっているなどとは言うまい。ただ実感として、テレビ報道をめぐる環境が息苦しさを増している。

 歴史はさまざまな教訓を僕らに残してくれる。僕は今1942年ごろの放送史を調べている。といっても、当時はまだテレビはなく、放送といえばラジオ放送だった。NHKの前身の社団法人・日本放送協会が独占的にラジオを放送していた。42年2月、内閣直属の情報局が「戦争下の国内放送の基本方策」を作成し、関係方面に指示した。この内容が、今からみると興味深い。

 目的は「放送の全機能を挙げて大東亜戦完遂に邁進(まいしん)す」(第1条)とされ、具体的な実施項目(第3条)が列挙されている。<(1)放送番組をすべて国家目的に即応せしむること(イ)国策の動向と緊密なる連携を保つこと(ロ)国家的行事と密接なる関連を有すること(ハ)政府重大発表に当たりては放送を以(もっ)て之(これ)が徹底を図ること>とある。今ふうに言えば、放送がすっかり国策のプロパガンダになり果てていた。

 だが、この「基本方策」の文面をつらつら眺めてみると、(イ)(ロ)(ハ)とも今の世の中ですでに実施されてしまっているのではないか。(イ)で言えば、安全保障関連法制や環太平洋パートナーシップ協定(TPP)、アベノミクスをめぐる報道ぶりはどうだったか。(ロ)でいえば、オリンピックのエンブレムやスタジアム選定をめぐる大混乱ぶりをしっかりと批判し得たか。(ハ)でいえば、政府重大発表は、集団的自衛権行使容認の閣議決定や戦後70年談話などは夕方のテレビニュース時間帯に会見が設定され、まさしく<放送を以て之が徹底を図ること>が実に効果的に実行されていたのでないか。

 NHK放送文化研究所が出版した「20世紀放送史」は資料価値のある大著だ。前記の「基本方策」はそこに記されていた。僕も42年に生きていて放送に携わっていれば、抵抗などはできなかっただろうと恐怖を覚えた。空気というのはそのように一気に醸成される。これこそが教訓だ。

 

【金平茂紀の新・ワジワジー通信(13)】「和解案」信用できるか 法匪跋扈の今、裁判所問う

2016年3月8日 13:43
 
 
  • 金平茂紀(かねひらしげのり)
  • TBS報道記者、キャスター、ディレクター

1953年北海道生まれ。TBS報道記者、キャスター、ディレクター。2004年ボーン・上田記念国際記者賞受賞。著書に「ホワイトハウスから徒歩5分」ほか。

 

辺野古訴訟の和解案受け入れを表明し、翁長雄志知事(左)と会談する安倍首相。右は菅官房長官=4日午後、首相官邸


 和解。愛用している新明解国語辞典によれば「仲直りして争いをやめること」とあった。米軍普天間飛行場移設に伴う名護市辺野古の新基地建設をめぐって、今月4日、にわかに生じた事態。あれは本当に「和解」なのだろうか。

 沖縄県はお人良(よ)しにもほどがあるよ。僕は直感的にそう思ってしまった人間だ。そもそも裁判所の異例の和解案にそんなに簡単に乗っていいものだったのか。日本の裁判所が、司法=法を司(つかさど)る、ものごとの理非を法に基づいて判断するという機能を著しく衰退させてしまった現実を嫌というほど見てきたからか。

 僕は、とても残念なことだが、裁判所をあまり信用していない。とりわけ近年の裁判所が示す判断は、行政追随、現状追認の様相が色濃く、官尊民卑=お上に優しく民に冷たい傾向が強まっているように思う。裁判所と言っても生身の人間たちの集合体だ。

 生身の人間だから、裁判官としての立身出世だの、家族の教育環境だの、給与だの僕らとあまり変わらない欲望を持っている人々から成り立つ。だから当たり前だが、司法府の組織としての自己防衛本能のような原理が働き、その時々の政治状況に敏感に反応するし、強い政治権力への忖度(そんたく)も存在する。

 福島第1原発事故の起こる前に提訴されたほとんどの原発関連訴訟は、丸めて言えば「原発は安全です。電力会社の主張は妥当です」と日本の裁判所は判断し続けてきた。原発推進という国策を追認どころか推し進めてきたともいえる。原発の危険性を訴えた民の声を押しつぶす機能を担ってきたのだから。

 僕自身も原告の末端に名を連ねた「沖縄密約情報開示訴訟」の最高裁判決と言ったら、これ以上ひどい中身はないというほど無残な内容だった。密約文書は外務省内で探したけれどもないものはないんだから、あんたら提訴した人間が自分たちで、あったことを証明しなさい、とばかりのひどいもの言いだった。密約文書の存在の立証責任を原告側に丸投げしたのだ。

 日本政府も外務省も、沖縄返還にともなう密約は「ない」「ございません」と長年国民に嘘(うそ)をつき続けていた。それが民主党政権下の有識者委員会の調査で一応「あった」ことになった(もっともあの調査も随分とお粗末な点があったのだが)。

 アメリカ国立公文書館では沖縄返還時の日米密約を裏付ける文書が公開されているのに、日本の外務省内にはいまだに「ない」ことになっているのだ。外務省は、沖縄返還に関する佐藤・ニクソン直筆署名入りの密約文書さえ「公文書」扱いしていない始末だ。後世の人々は何と思うだろうか。

 今回、裁判所が示した暫定和解案も全文が公開されてはいない。不可解なことに、裁判所は、県と国双方に和解案の内容を公表しないように要請していた。以下のような要旨だけが公表されている。(1)国、県双方の訴訟取り下げ(2)埋め立て関連工事の中止(3)国による埋め立て承認取り消しの是正指示(4)県による是正指示取り消し訴訟の提訴(5)国と県は円満解決に向けた協議を実施(6)国と県は、確定した判決に従い、互いに協力して誠実に対応することを確約。

 要するに、全くの仕切り直しである。翁長知事が埋め立て承認取り消しをした時点にまでプレイバックして、そのあとは、国に代執行という強権的な手続きを取らせずにデュープロセスを踏ませるということだ。是正指示取り消し訴訟で県が勝訴する可能性は高いか? 僕はそうは思えない。

 1番重要なことは(6)の「判決に従うという確約」だ。もし仮にここで県があくまでも辺野古での新基地建設阻止の態度を貫こうとしたならば、国はかさにかかって「判決に従うという確約」を盾に徹底的な弾圧に出てくる恐れがある。悲しいことに、一部の為政者は、判決とか法律を自分たちの意思を通すための「道具」としてしか考えていないものだ。それを見越して、忖度して、裁判所が乗ってきやすい「和解」案なるものを用意するという構図。そんなふうでなければいいのだが。

 去年の安保法制の国会審議の際、参議院の中央公聴会で、集団的自衛権容認が合憲だというアクロバティックな解釈を意図する人々のことを「法匪(ほうひ)」と呼んだ人物がいた。元最高裁判事の濱田邦夫弁護士だ。「法匪という言葉がございますが、法文そのものの意図するところとはかけ離れたことを主張する、悪(あ)しき例である」「とても法律専門家の検証に堪えられない」と断じていた。僕はそれを聞いていて本物の司法官を見たような思いがした。かつては最高裁にもこのような人材がいた。

 視界を少し広げてみよう。「放送法」というテレビ局やラジオ局の放送の自由と自律、独立をうたった法律を、いつのまにか「取り締まり法規」のように読み替えて、メディア規制に使おうとしている為政者と役人たちがいる。「法匪」の跋扈(ばっこ)する時代に僕らは生きている。そういう状況のなかで、一体どこまで裁判所を信用できるか。

 沖縄在住の友人・知人たちにこの「和解」の件について話を聞いてみたが、「県議選やら参議院選の選挙対策でしょ」「国側が負けそうになったから和解に乗ってきたんじゃないの」「沖縄側の民意の勝利さ」「工事が止まること自体はいいことでしょ」と、なぜか楽観的な声が多く聞こえてきた。でも僕は思う。本当にこれは「和解」なのかと。あとから振り返ってみて、あの時の「和解案」が引き返し不能の地点だったのか、とならないことを祈るばかりだ。

 翁長雄志知事が去年末に出版した自伝的著書『戦う民意』にこうあった。「生身の人間である私たちは、これからも場合によっては木の葉のように舞い散るかもしれません。しかし、それでも私たち責任世代は、自分の姿を伝えて、子や孫の世代に勇気と誇りと自信を持ってもらいたいと思います」。ああ、ワジワジーする。無性に沖縄そばが食べたくなった。「和解」はそれを食べた後に、また初めから考えることにしてはどうか。(2016年3月8日付沖縄タイムス文化面から転載)

 

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