私の轍 WatashiのWadachi 第10回

2022-04-18 22:26:13 | 日記
私の轍 WatashiのWadachi 第10回

教員生活 2 府立藤井寺高校
① 府立新設校への転勤 1期生との出会い
 
 1975年、堺市工から府立藤井寺高校に転勤した。設置者が別だが、府の教員採用試験は合格しているので、ペーパー試験はないが、府の教育委員会に呼ばれて面接のようなものは受けた記憶がある。
 赴任した学校は開校2年目、まだ建設工事が続いており、雨の時などぬかるみに足をとられることもあった。2学年分の生徒、教員も2学年分でスタート。私の担当する倫理社会は2年時に履修するので、2年に入り担任もついてきた。生徒急増期にあって、新設校が続々と建てられ、府立高校としては87番目であった。ために職員の親睦団体を八七会と称した。
初代校長は今から思うとやり手で、いろんな人材を集めてきて、多士済々ではあった。私も校長のお目に留まったのかな? 教室を転用した2年生職員室に用意された机の左手には学年主任のI先生、右手は後に教育監になったO先生だったので、どれだけ指導・薫陶を受けたか、想像できるかと思う。生徒は地元藤井寺、羽曳野、松原だけでなく、当初の学区調整から大阪市内からも通学してきていた。近鉄を利用してくる生徒は、藤井寺駅からは約半時間、高鷲駅からでも20分ほど要したので、駅前の自転車を寸借(占有物離脱)する不心得者もいた。自転車を取られたら、「藤高へ行け」という噂までたち、また事実そうだった。
 やんちゃな堺市工生に十分鍛えられてきたので、半分は女子生徒もいる藤高生がなんぼのもんヤ、とは思っていたが、いやいやどうして、手を焼いた。教職員間での情報交換、職員会議での議論で侃々諤々の日々が続いた。当時を振り返って、駅を降りて足が動かず通勤拒否になりかけた先生もいたほどである。コミュニケーションを図るため、駅前の飲み屋が第2職員室となった日も多かった。遅刻や欠席を繰り返す、あるいは喫煙を何度か繰り返す生徒への指導方針の議論でサッサと退学勧告をうつべきだ、とする論調に対して、粘り強い指導の重要性の論陣を張った記憶がある。しかし、言うは易くとも行うは難し、を思い知らされた。
 一つの工夫は「倫理社会」の授業でいかに生徒に興味関心をもたせるかだ。「青年期」も大きな分野なので、永山則夫の「無知の涙」や、小児科医松田道夫の「恋愛なんかやめておけ」の一部を増す刷りして教材にした。また、生徒にさまざまなアンケートを実施して、その結果を返しながらみんなで考えようとした。アンケート集計などいたずらに手間暇がかかるものだが、マ、生徒に関心を持たせる意味で比較的成果はあったと自負している。
いきなり担任したクラス(2年11組)は割合大人しい生徒だったと思う。しかし一つの事件があった。生徒連絡のために2階のホームルーム教室へ行くと、一人の生徒がタバコを吸っていた。当然、懲戒指導にかけるわけだが、その生徒はラグビー部で、他のクラスのラグビー部員が猛反発し、私の授業になると、廊下との間の窓や扉を取り外すのだ。「この方が捕まえやすいだろう」というあてつけだが、印象深く覚えている。
翌年持ち上がった1期生3年のクラスは、理系2、文系10クラスで、私は文系(3年4組)の担任となった。2年から引き続いてもった生徒も多くいて、楽しかった。やんちゃ・ゴンタが多いクラスでの授業はやはり大変だったが、生徒の進路指導は勉強になった。普通科新設校なので、生徒の進学希望と実力とのギャップがよくわからないまま、相談に応じざるを得なかった。詳細はよく覚えていないが、卒業すぐの時点はともかく、その後看護師になったり社会福祉施設理事や職員もいる。彼らも還暦を過ぎ既に64歳(2022年3月現在)であり、同窓会で会うのが楽しみ、教師冥利といえよう。
▲有名人のエピソードを一つ紹介しておこう。別クラスだが、進路相談を受けた生徒がいた。1年目から文化祭の時に体育館でのバンド演奏に際  し、学校の放送設備以外にPA(パワーアンプ)を借りてほしい旨交渉され、生徒会主顧問とともに実現させた時以来のつきあいである。自分らのバンド活動が「かまやつひろし」に見込まれ、「プロ」の誘いを受けている。バンドのメンバーの一人は既に退学しており、自分もやめようか、3年がんばって卒業しようか」ということで悩んでいるとのこと。当然のことながら、もう1年のことだから頑張って卒業目指すようアドバイスした。この男がロック界では有名な後の「ラウドネス」のドラマー樋口であった。夭折したのは残念である。こんな才能ある者は、卒業しようがしまいが大して変わりがないように思うが、あくまでもレアケースであろう。▼

翌年の2月には、次男亨が誕生した。20歳代の終わりから三十路へと、やはり大きな転機であったのだろう

② 同和教育推進委員長として 人権教育の取り組み
1期生を送り出してからは、3,5,7期生を担当した。2年倫理社会、3年政治経済というカリキュラムになっていたからである。政治経済も割合人気ある科目である。特に理系大学を狙うには私学しか目標とできないが、受験に関係なく聞けるからであろう。日本国憲法はかなりの時間をかけてやった。
 転勤3年目選挙で同和教育推進委員長に選ばれた。当時は、校務分掌の長などは、職員による選挙によって選ばれていた。(現在はあの橋下府政によって校長任命制に変えられたのだが・・)
 当時は、部落解放運動の教育に対する要望や影響も強く、学校でも同和教育推進は主要な教育課題の一つだった。建設当初は学区に調整区を含んでいたので、地元羽曳野だけでなく大阪市内からも同和地区在住生徒も通学してきていた。藤井寺市にも水平社創設当時から同和地区があるのだが、同対法で地区指定されず、無いことになっていた。堺での経験もあるので、その役職については前向きに取り組もうと考えていた。
 ▲しかし大阪では、教員の同和教育に対するスタンスが、矢田教育差別事件と隣の兵庫県で生起した八鹿高校事件によって激しい対立をもたらしていた。校内でもその亀裂は深かった。私は、生徒が差別や偏見にさらされているという不合理は許せなかったので、彼らを支援、応援する立場で発言や行動をした。違う立場の先生方から見れば、問題と感じられたかもしれない。▼
 教員間の対立を見越したうえで、生徒の実態を基にした研修や指導方針を提起していった。具体的には同和地区在住生徒、外国籍生徒(障害のある生徒については実際に在籍するようになってから)の成績や出欠、卒業後の進路の共通理解を図るようにした。当該生徒を理解してもらうために、生徒情報はできるだけ共有したいと考えた。個人情報が漏れたというような問題は起こらなかったが、その在り方については議論する必要があろう。さらに3期生まで卒業させたので、同和地区在住生徒と外国籍生徒について、往復はがきを出して進路状況を調査したこともある。その結果、退学率が高いこと、大学・専門校への進学率は低く、進路先未定または不明者が多い、などが明らかになり、職員への報告とともに、府高同研でも発表した。生徒啓発としては、3年「社用紙から統一用紙への意義」のHRを一つのゴールにした。
 教科 倫社・政経でも人権問題を取り上げるようにした。3年最後の試験で、私の方では把握していなかった生徒が、答案用紙の裏に「僕は〇〇部落に住んでいます。」に続いて人権問題を学習してよかったという趣旨の短文を書いていた。
 当然、在日外国人問題も授業でとりあげてきた。3期生になってからだが、韓国・朝鮮人文化研究サークルを立ち上げて、本名使用し始めた生徒もいたが、後を続けられなかった。
また、近所に藤井寺支援学校ができた。4期生に肢体不自由生徒が入学してきたことあって、障害生徒の教育について理解を深めるため、学校見学→職員交流→文化祭への生徒招待→文化部等の生徒交流等の取り組みを数年にわたって展開した。その影響もあってか、生徒のボランティアサークルもできた。このサークル部員と一緒に支援学校生徒と琵琶湖なんとかパラダイスのプールで下肢マヒの生徒と遊んだ記憶も書いているうちに蘇ってきた。全体のHRで車いす体験、二人一組で目隠しして校内を歩き回る視覚不自由者の疑似体験などの工夫も、1980年代の初めにはやっていた。
 これらの取り組みができたのは、多くの教員の理解と協力が得られたからだと感謝している。

私の轍 WatashiのWadachi 第9回

2022-04-08 21:15:50 | 日記
私の轍 WatashiのWadachi 第9回

     
第2章 教員生活

2 結婚 家庭

 初めての教員生活と、結婚とは同時だった。後先するが、妻とは先述したボランティア団体で知り合った。1971年の韓国でのワークキャンプに日本から5人参加したが、その中に二人はいた。また、国内でのワークキャンプでも児童養護施設の改修によく参加した。学園闘争時代はそれぞれの大学で活動したが、これらの活動の中で、男女の結びつきは、これまでのような家父長制に収れんするような方向のものではなく、対等であるべきだという意見は一致していた。政治変革は挫折したが、足元からの文化革命は実践できるという信念があった。私の就職が決まり、大学卒業後1年働いていた妻が、理学療法士を目指す専門学校に合格したのを機に、新年度から共同生活をする約束をした。しかし、アパートや文化住宅を借りる敷金はない。父親に相談したら「そんなふしだらな」と𠮟られ、結婚することとなった。
それが3月のはじめ、急遽親戚に、仲立ちの使者を頼み、妻の家を訪問したのである。式は親族の顔を立てつつも、結婚式文化のありようは自分らで決めたいという思いから、第一部は親族中心の人前結婚、夜は第二部 友人中心の披露宴風宴会とした。4月当初というあまりにも急なことであった。第一部は結婚式場でなく、レストランの一室を借り切り二人の決意を読み上げ。夜は新地の料亭で行った。私は昼から飲み続けたため、帰りの環状線の中から酩酊状態で、どうやって帰り着いたかも記憶になかった。第一夜から「指導」対象であった。
 新居は大阪市大のあるJR阪和線の杉本町駅、大和川沿いの文化住宅で父に出してもらった20万円が敷金、家賃が1万円であったと記憶している。勤め先の学校の方でも、突然のことであるから戸惑いながらも、親睦会の幹事から「初めてお会いしますが、規定ですから結婚お祝いを」いただいた。また、社会科の先輩教員から、「特休をとってもらわんといかん」と言われた。特休(特別休暇)という言葉さえ知らず、学年の当初から休みをとることや、ましてや新婚旅行など考えてもいなかったのだが、急遽先輩の顔をたてるため、旅館を探した。当時はまだ土曜日は課業日だったので、半日だけ特休、行先は限定されてくる。妻が丹波の立杭焼に行きたいというので、特急ではなく快速電車で笹山に泊まり立杭に行った。その後我が家の食器として活躍する丼などを買った。無計画なので、バスの便は1時間ほどなく、結構重い焼物の丼を抱えて歩き出した。ヒッチハイクで無事帰還できた・・

 翌1972年、わたしが堺市工2年目、妻が理学療法士の専門学校2年生。12月長男が生まれた。妻が学業を続けるためには、私の実家の母の助力が不可欠のため、守口に引っ越した。家の条件のいい所を紹介してもらい、さらに2回引っ越しを繰り返した。

私の轍 WatashiのWadachi 第8回

2022-04-08 21:15:50 | 日記
私の轍 WatashiのWadachi 第8回

     
第2章 教員生活

1 堺市立工業高校
① 初めての教職 多様な生徒・教職員
 1971(昭和46)年、社会人生活のスタートは、堺市立工業(定時制も併設、当時は市工と呼ばれた)の社会科教員としてであった。現在は再編改組されたが、当時は各学年とも機械科3クラス、建築・金属・工芸各1クラスの計6クラス規模であった。経済的に進学するより高校で技術・技能を身に着けたいという真面目でおとなしい生徒が多数派ではあった。しかし、学科による生徒の平均学力に相当差があること、実業高校なので学区はないが堺・大阪市内・泉州地域からきている生徒がほとんどであること、家庭事情の複雑な生徒や問題行動を繰り返す生徒も少なくないことなどが分かってきた。
 授業が始まっても立ち歩く生徒、私語をやめない生徒、注意を無視する生徒などの存在にかなり神経も参った。。校外からツレを教室内に連れ込んで何食わぬ顔で授業に参加?させていたこともある。年末には吐血し胃潰瘍と診断されたが、ほどなくして回復した。
 学校、生徒も時代の影響を受ける。なぜつながったのかよく覚えていないが、「べ平連」活動をしている数人のグループの存在を知り接触した。、高校生がパクられることの心配から、2回付き添ったこともある。親に黙って抜け出して集会に参加した者を、家に連れて帰ったところ、親にしばかれた生徒もいた。何もできなかった・・。
 教員集団は、工業科の教員と普通科教員が、それぞれの職員室をもっており、工業科の教員が実質的な学校の意思決定の中心となり、普通科教員はその補助のように考えられていたようだ。社会科は私を入れて4名、二人の先輩教員から教育について学ばしていただいた。生徒の見方、とらえ方について、議論しあったのが、その後の私の教育観を形作ったといってよい。

② 同和教育・人権教育
 特にY教諭に堺の同和教育研究会に連れまわされた結果、同和教育・人権教育の重要性を深く認識するようになった。この年1971年は、人権教育の期的な取り組みの年で、統一用紙を使いだした最初の年でもあった。受験企業の要求する書類(昔は社用紙といった)を提出させ、家の資産、親の学歴等々、およそ本人の資質・能力と関係ないことがらで、同和地区の生徒、外国籍生徒、ひとり親生徒などは、排除されていた。就職の機会均等の実現のためには、差別的な社用紙に変え、統一用紙にしましょうというのが全大阪進路保障協議会の提案であった。この動きは近畿全体に、やがて全国に広がっていった。文部省もこれを認め、全国的ひな形を示した。大阪府公立高校の教員なら、統一用紙の意義に関してホームルームで指導した経験を全員が持っているはずだ。
 同和問題を勉強しながら、同時に在日韓国・朝鮮人生徒や沖縄出身生徒の問題も学んでいった。堺同研の活動を通し、堺市の小・中学校との先生とも付き合いが生まれ、後の小ー中ー高連携の下地が作られた。

● また、大学・研究職からはドロップアウトしたという鬱積感の代償からか、大阪文学学校(小野十三郎校長?)に半年?一年通った。チューターの女性がかっこよくて、学校の期間が終わっても、会合を持ち、「くんずほぐれつ」という同人誌を出した・・ご多聞にもれず、1号で終わった。 
 「くんずほぐれつ 特集在日朝鮮人問題」―に掲載した文章がコレ (1975年7月)
「われらの内なる排外思想」―高校における在日朝鮮人等の生徒との出会いと、彼ら・彼女らをとりまく生徒たちの意識を通じてのー」(抄)
 (学園闘争が政治的敗北に終わったという後で)「その後、私は工業高校に職を得た。その中で、一人一人の同和地区生徒・在日韓国朝鮮人生徒・両親のいない生徒による語りかけ、生きざま、「問題行動」とよばれる形での、つまりは言語化しえないけれども明確に意思を表現している負のコミュニケーションに接するようになると、「遠さ」を「遠さ」のままでおいておく意識なり感性なりが、実は入管体制を、なし崩しのファシズムの進行を支えているのだと思うようになってきた。
 殊更「政治」の言葉で喋る必要はない。 Y兄弟がいた。父親が朝鮮人であるためなのか、沖縄出身の母親の私生児ということに戸籍上はなっている。兄はこの学校で創設された部落研に積極的に加わり、京都での全国(部落)奨学生大会にも出席した。学内でのその報告会において彼はこうつぶやいた。「しかし、まだエエワ。俺らの立場で、なんか運動せなアカンということは分かっとっても、その組織みたいなもん、無いからなあ」
 この中から初めて私にとっての入管体制の実相が見えたといってよい。しかしそれは同時に、部落研から独立して朝文研組織を作れるつくれるような状態にない学内体制への告発としても受けとらねばならないはずだ。
 だが、そのことは不可能とも言えた。教師側の無知、私たちのていたらくに加えて、生徒の中に、彼の「連れ」の中に、同和教育によって抑圧された差別意識を「朝鮮人」に回流さす層が厳然として存在するのだ。「日帝36年」は今も生きている。・・」


③ 初めて卒業生を出す
 3年目、工芸科2年の担任となった。専門科の教員で担任を回し、足りない場合、普通科の教員を充てるというシステムになっていた。このクラスは芸術科の先生が1年担任だったが、病を得て私に回ってきたのだ。初めての担任だが、本当に多様な生徒がおり、鍛えられた。
 定員40名のところ、退学や留年のため36名だった。うち一人親の生徒が4割、両親ともなくし祖母に養育されているものも一人いた。欠席・遅刻の生徒も多数いて、家庭訪問は欠かせない。不登校がちで、今でいう引きこもり型の生徒は吃音症だった。山が好きで、山には行くが学校には行かないという生徒もいた。あまりにも欠席・遅刻が多いので、授業をやりくりしてある生徒の家に行った。家人は「昨晩友達の家に遊びに行き帰ってきていない」という。能天気!、教えてもらってその友達の家まで行き、家族の了承を得て部屋に入ると、友達は学校に行き、彼は布団にくるまっていたのにはさすがに驚いた!
 家庭の複雑さのゆえに退学を申し出た2名の生徒を引き留めることができなかったのは残念であった。ある時なんどは、杖を振り回して追いかけている男の前をD子が走っていた場面に遭遇した。DVの父親から母子共々で逃げている事情は聴いていたが、突然のことに驚いた。お引き取りいただくよう説得するのには一苦労した。
 それでも34名は3年に進級し、担任はそのまま持ち上がった。5月、就学旅行で九州方面に出かけた。映画になりそうなシッチャカメッチャカな旅行であった。生徒の船室へ降りていくと何組もの麻雀グループができていたようだ。ようだというのは、喫煙の煙でかすんでいるからよく見えない(在学中に喫煙に手を染めなかった生徒はおそらく2割にも満たないだろうと思う)。芋づる式に喫煙指導の対象にするにはあまりに多数過ぎるので、他の教員も見て見ぬふりをせざるを得ないからだ。さらに夜中の枕投げは、布団投げになっていったようだ。2枚ほどの布団は屋根の上で朝を迎え、雨に濡れていた。旅館の人から教員が大目玉を食ったのは言うまでもない。犯人はわがクラスの一員だったので、私も隅の方で小さくなっていた。行程の途中で海の見える風景を見て、はしゃいで3人ほどがパンツ一丁で5月の海に飛び込んだ。門限を守らず、酒臭い息をして帰ってきたグループには思わず、頭をはつった。反発して旅館の入り口で暴力沙汰になりかねないところだった。よく帰って来れたもんだと思う。
 進路が大変だった。工業高校なので、就職先との関係は安定的に築かれているが、工芸科はあまり確実にとってくれるところはない。木工会社や、古い伝統家具職人とか、技術専門校へ行く者もいるが、百貨店や警備会社というものもいる。中で一人4年制大学へ進学した生徒がいたのには感心した。紆余曲折があったのだろう、還暦後の同窓会でさもありなんと納得するような生き様の者もいたが、上述した欠席遅刻の多かった男子が、市会議員になっていたのには言葉失った・・・。
 (現在は工業高校と商業高校を再編整備し、市立堺高校として、就職率の良い高校という評価が定着していると聞く。上述のようなシッチャカ メッチャカ な生徒の存在は、時代の影響だろうと思っている)

私の轍 WatashiのWadachi 第6回

2022-04-03 14:17:08 | 日記
私の轍 第6回

 
 第1章 大学生のころ パート2

③ SCI活動
高校のところで少し触れたボランティア活動にも、結構注力した。
● 欧米ではCOという言葉がある。Conscientious Objection 良心的徴兵拒否、という意味で、宗教的、あるいは政治的信条から、兵役や出征することを拒否するという考え方である。戦争で戦っているときに、あるいは平時で平時であっても国民の義務を拒否するというのは、ズルイ、非国民とか、裏切り者、卑怯者という声があがるのはやむをえない。だから、兵役の代わりに、同じ期間労働奉仕で代替するという運動が提唱され広まっていった。今で言うNPOであり、Service Civil International と名付けられた。日本では徴兵制は布かれていないが、「銃を捨て代わりにスコップで大地を耕すことで平和を築こう」という理念に共鳴した人々によって、日本の支部が作られ、関西でも活動が行われるようになった。
「高校時代」のところで少し触れたように、友達に誘われ、2,3回 障害児施設に行った。見学とか話を聞くだけの活動ではなく、労働奉仕が含まれていることが味噌なので、ワークキャンプと言った。社会監護施設で運動場を広げるために外壁を建造したり、水上生活者の子どもの生活する施設の環境改善などを行っていた。重傷障害児施設として有名だったびわこ学園のキャンプに参加したこともある。
● たしか大学1回生の夏(1964年)、教会を宿泊所とした西成の釜ヶ崎キャンプが行われた。昼、教会と周囲の公園清掃などを行う(中にはアンコに行く者もいた)とともに、。教会の人や、行政職員からこの地域の成り立ちや現状などをお聞きした。アメリカ人も2名参加していたが(なにしろInternationalですから、外国人が参加することもありえるのです)、「自分たちもアンコを経験したい」と言い出した。この二人は社会学専攻の大学生で、レポートする必要があるそうなのです。アンコ経験者がいても、日本語の分からない外国人を連れて行くのなら、話は別です。やむなく私が連れていくことになりました。当時は手配師の車(マイクロバスかトラック)が集まってきて、労賃〇〇円、仕事の内容を書いた紙を見せます。私と二人はおっかなびっくりしながら、求人をあさっていましたが、それ以上に手配師のおっちゃんたちも興味深々らしく、注目を集めるようになったので、手近なマイクロバスに乗り込みました。よく覚えていませんが港湾で降ろした貨物を倉庫に運び込むことの繰り返しだったと思います。昼の弁当を支給され、夕方、賃金を3人分受け取るときに言われました。「明日もけ―へんか(来ないか)? アメちゃん、やっぱりガタイええから」 「いや、一人腹具合悪い言うてますので」と断った。後日帰国し「青い目のアンコ」という本を出したと風の便りに聞きました。

● 国際的なので、翌年の韓国キャンプには私も含めて日本人数名も参加した。また、自炊の必要があるキャンプでは、男女に関係なく食事作りにいそしんだので、おかげで年をへても、自活できる自信がある。

● 3回生になり、専門の社会学講座と、陸上部での上級生としての立場から、SCI活動からは足を洗うようになった。再開したのは、大学院修士課程になってからである。

私の轍 WatasiのWadachi

2022-03-25 10:40:23 | 日記
私の轍 第5回
5 大学生のころ

① 学び 
● 志望した京都大学 文学部に合格した。難しいとされている数学で出題されたうち、関数・グラフの問題に取り組んでできたという感触は今も懐かしい。周りの理系の秀才の友達が色々助言してくれたおかげと感謝した。
● 守口から京阪線で三条まで、当時まだ走っていた市電に乗って吉田の「教養」に着く。第二外国語の選択によるでクラス分けがあった。ドイツ語を選択したが、ここでも、やはり少なからずカルチャーショックを受けた。浪人生が多く、女子が少ない。語学の時間になると、休憩時にセクトの連中がオルグに来る。クラス討論もあって活発に意見を言う猛者も多い。高校時に、民青のフラクションに誘われたこともあり、全く免疫力がないわけではなかったが、政治的党派の多彩な主張には驚かされたが同時に胡散臭さも感じられた。 結果、高校と同じく陸上部に所属し、農学部グランドまで通う生活が始まった。
● 自由・自主的な学びこそが大学生活の醍醐味と考えていたが、試行錯誤の連続であったといいえよう。党派に属する諸君の政治的主張は随分偏狭なように思えて、もっと緩やかなものを求めるうち、鶴見俊輔らの「思想の科学」に依拠するようになった。アメリカのデユーイらのプラグマティズムを啓発的に広めようとする月刊誌である。実用主義と訳されることが多いが、必ずしも内実を伝えきっていないと思っている。観念世界にとらわれるより、現実生活にどう生かすかというほうが大事と考える流派と解釈している。(私の父の冗談「鏡台、飯台、寝台」論から考えると、父もプラグマティストの素質十分であったと言えると思う。) だから、現実の問題の解決に役立たない空理空論や、議論のための議論はきらいだし、公平性や正義を踏みにじるようなことは許せないという心性が出来上がってきたと思う。

● 学部に進学してからの専攻は、哲学科社会学。研究者・学者の数だけ〇〇社会学があるように思えるほど、テーマ、方法論が多様である一方。確立した理論構成や方法論については未成熟な学であると感じてた。社会学の「実習」では、農村調査に行ったが、閉鎖性―開放性といった常識的な二項対立の概念軸を使って聞き取り調査をやって、どんな意義があるのか疑問だった。だから、社会学を学ぶことによるスキルを磨いたとは言えない。何か語学をマスターするのに注力すれば良かったと思っても、もはや遅い。

● 就職希望者は事務室に掲示されている求人表をみて申し込む。複数いれば指定された時間に行き「じゃんけん」で応募することになる。経済学部や法学部の場合はいざ知らず、文学部はそんな様子だった。私も凸版印刷の求人票を見て、じゃんけんに勝ち、就職試験を受けて、筆記は合格した。ほどなくして、東京での面接に来い、ということだったが、気乗りがせず行かなかった。しかし、文学部内でも社会学講座の学生は、はなからマスコミ関係志望者が多く、広告業界、TV局、新聞社等々に就職していった。個人情報に無頓着だった私も、どこかにチャレンジしなければまずいと考え、無謀にも倍率ウン十倍の出版社、雑誌「展望」を出していた筑摩書房と、世界哲学全集等の河出書房新社などを受験した。恐ろしいほどの難しい入社試験で歯が立たなかった。
● 一方で中学・高校の教員免状の課程をとれるようにはしていたので、京都府の高校教員採用試験を受けた。G判定(合格)の通知が送付されてきたが、個別の連絡はなかった。年が改まり、大学院の試験もあるのに、やはり何の連絡もないので京都府教育委員会に連絡を取った。「G判定であっても、公務員ですから、そのポストがあかないと採用にはなりません」「倫理社会の欠員は、専門の先生がおられなくとも他の社会科の先生で回すことが多く、さあー 来春の人事については3月にならないと分からない。丹波のほうで定年の先生がおられますが・・サアーなんとも」 なんとあやふやなものかと愕然なったが、さすがに焦る気持ちが強まった。
● 研究者になることも魅力的な選択肢であったので、修士課程の試験を受け合格したので、結局京都府の教員にはならなかった。人生の岐路なんて分からない。もしかして、冬になれば毎日のように蟹に舌鼓を打っている老後を送っていたかもしれない。ナーンちゃって

②  陸上部
● 高校のときにはビリから何番という選手が、大学に入ってからも運動部活動を続けるなんどは、いかにも物好きと思われるかもしれない。実際、京の町を京大陸上部のエンブレムをつけて長距離走で駆け抜けるとき、町のおばちゃん方が「あの人ら、京大まで入って走らんでも、他にやることあるやろうに」と話し合っていることを聞いたこともある。この時期に、ついてきては、噛みにかかる犬が嫌いになりました。
● 入学年の昭和39年(1964年)は東京オリンピックが開催された年ある。農学部のグランド(1周500mで公式競技場より広い)に行き、自分  でもやれるのかなと思ったし、慣れてくると授業をサボりがちになるので生活のけじめをつけるためには、教養課程の「吉田」から農学部のグランドまで毎日半時間は歩いて練習をしたほうがいいに決まっている。入部してみると多士済々、生涯にわたる友はここでできた。
● 当時の陸上部の長距離陣は強化する必要があり、コーチが4人ほどの上級生に毎日特訓を課しているようであった。たまたま我々の学年は、数えてみると10名が中・長距離志望であった。活気はあったしすぐに馴染んだ。パートだけでなく部全体の雰囲気も良かった。一部私学に見られるようないわゆる「運動部」の人権無視の体質、しごきという名の非科学的トレーニング、など一切無いところも気に入った。自由投稿で文集を創ったり、合宿所で読書会などをやる運動部など、あまりないでショ。
● グランド練習以外に長距離陣の特性を生かして、「今日は大原三千院」、「明日は休養日で哲学の道から南禅寺の疎水コース」、「来週は 嵐山 渡月橋」など、帰りの市電・バス代と入山料だけ携えた観光地巡りは楽しかった。正月2日?の初詣には、比叡山の自動車道を使って三井寺から琵琶湖を眺めたこともある。
● 今のアスリートからみると、「何だ」という記録だったし、大会で通用するような選手ではなかったが、ま、生涯スポーツの基礎体力はこの4年間で鍛えられたと思う。曲がりなりにもマラソンも完走?しました。公式記録=2時間52分2秒(1967年福知山マラソン)、3時間きり=サブ3です。遅いなりに頑張っていましたが、30Km過ぎたあたりから、もうろうとなりました。徹夜明けの朝は、太陽が眩しすぎて、意識がまともでない、というアノ感じなのです。補給処でジュース2杯、両手にバナナをもって歩いているうちに回復しましたガ・・二度と挑戦しようとは思いません!
● それに冬場には駅伝がある。陸上でリレーと並んで団体戦の要素のある種目は面白い。4回生にもなって一人だけ関西駅伝のメンバー、それもアンカーと決まり、練習に注力していました。進路未定でよーヤルワ!という声が聞こえてきそうです。当時のコースは京都西京極競技場~丹波路で、最終区間は、「敵は本能寺にあり」と言った明智光秀で有名な「老いの坂」を超え、京都の街並みに入っていく。登りで追いついてきた京都教育大をあっさり引き離したのだが、下りで左右ともこむら返りを起こし、走っては伸ばし、つっては立ち止まりまた伸ばすという涙ぐましい走り。再び追いつかれたが、最後は置いてけぼりにして順位は守りました。一生記憶に残る駅伝でした。