私の轍 第3回

2022-03-16 11:08:53 | 日記
私の轍 WatashiのWadachi 第3回
 読者の皆さん、申し訳ない。これがアップされずに、第4回が先に出たなんて・・

第1章 4 高校時代

① カルチャーショック
● 多くの皆さんもそうであるように、高校生活によって世界が格段に広がり、少なからぬカルチャーショックを受けた。
 中間考査 教師「数学試験範囲、P○までと、問題集の何番まで」 生徒「問題集で分からない所があるんですが」 教師「次の時間は先に進まず、問題集の質問タイムとします」。 私(内心)「何 それ。そういえば一緒に買わされたなあ。授業でちっとも使わなかったから、参考に持ってるだけやと思っていたが・・ それよりビックリしたのは、それをやっているやつがいたこと。 次の時間 私(内心)「エ! こんなにたくさんのやつが質問するなんて・・ゲゲ 」
 音楽の授業でレコード鑑賞などすれば、冒頭の部分で曲名を言い当てるやつがいる。
 1時間目の授業に遅刻した生徒が教師に叱責された。「遅刻の理由は?」「本を夜中まで読んで寝不足で朝起きられませんでした」「そうか、何の本を読んでいた」「ソクラテスの弁明」 中学では当時ほとんどが丸刈りで、高校では頭髪を伸ばすことが一つの楽しみになっていたものだが、まだ、いがぐり頭のままの生徒が、教師とこんなやり取りをしている。
 誕生日パーティに御呼ばれに行ったら広い屋敷の庭で、初めて食するような料理を用意するお嬢様がいる。ハイソサイティの子女のように見えた。
● 昭和36年4月、守口一中から大手前高校に進学したのは6名ほどであったと思う。多くは市内有名中の出身者で、東中や船場中といった中学名、あと守口に近い旭区の中学の出身者だったと思う。しかし、小学校で見知っていたのに、中学では姿を見なかった者、あるいは、当時の5学区制での京阪沿線で言うと守口や門真までのはずなのに、枚方からかよっていた者も多かった。ナンデヤネン! 形式的には越境入学の禁止と言われていたようだが、内実はざるの底だった。守口一中出身と言っても、認知もされておらず、マイノリティとして高校生活はスタートしたわけです。

② 部活動
● バスケット部の練習を見に行く。中学府予選の準決勝で完璧に抑えられた旭東中新入生の選手が、先輩にぼろくそに怒られている。
「アカン、バスケは無理。僕は陸上に入って、ひたすら、この大阪城のまわりを走ろう」と決めて陸上部に入りました。弱小クラブでインターハイにひっかかるような選手もおらず、上級生はと言えば、中長距離・跳躍・ハードル・投擲などはほとんど一人の状態で、400リレーがなんとか出場できるくらい、当然私も、指導者もおらず、他の部員と同じようにスタート練習をしたあとは、一人でフラフラと大阪城の周りを指導者もおらず、ふらふらとjogしていました。だから、戦績など恥ずかしいもので、大阪の大会などでは、いつもビリにはなるまいという有様でした。初めてのインターハイ大阪府予選5000mに出場しました。当時高校No1の日本記録を作った沢木圭介?が3年生で同じ組です。400mトラックを12周半するわけですが、2周抜かれました。横を風が通り過ぎるようでした。それでも、素人とは練習量も違うので、3学期の寒い時期に学校行事としてあるマラソン大会には、2年の時には優勝したものです。おまけがついておって、昔の女学校の伝統からか、金蘭祭?とかいう自治会主催のキャンプファイアーが当時は開かれておったわけですが、その点火役が、前年のマラソン大会の優勝者なのです。後に、大手前出身の後輩の女の子が、「あの時の、Aさん、かっこよかった」とかいっているではありませんか! 惜しいことをしました。そんな時期もあったのです!!

③ 2年のクラス
● 2年になると、高校生活が楽しくなっていった。友人も増えた。それまでの学級担任が府教委の指導主事と抜かれたあと、大学卒後間もないと思われる若い教師に替わった。中文を専攻していたようで、「楊貴妃の沐浴の下り」など、ヤニ下がって嬉しそうに講義していたことを思い出す。
 しかし、教師としては経験不足から、学級経営など念頭にも無ければノウハウも持っていない。生徒二人の個人懇談をよびかけられ、当時仲のよかった友人と担任の下に行ったのだが、先生からの話とてない。気の毒になり、友人と二人で話題を探して喋っていたことを思い出す。クラス経営も、ホームルームの運営も生徒にほとんど任されていた。ということは、出席番号1番だから学級代表の私の責任は重大だ。ホームルームの時間を仕切るはめになった。学園ドラマみたいに、何回も討論会を続けたりする一方、休み時間には即決のトランプに興じたりして、忘れられないクラスとなった。男女の関係なく「仲良し」だった。中国・九州方面への修学旅行も忘れ得ない。3学期、盛り上がりクラスの解散会をやろうという話になった。学校の近所に医者の息子(木本君)が住んでいるので、そこの1室(といっても、広間が凄い)を借りることに話がついた。学級委員長としては、後顧の憂いを残さぬよう、担任に通告しておいた。デ゙、あやふやな記憶であるが、30人くらいは集まったと思う。それもビール抜きで、よくあれだけ盛り上がれたものと思う。(純朴であった・・酒なしで・・)
● 勉強のできるやつも多かった。例えばK君。模擬試験でトップの座を譲らなかったK君は、早くから東大間違いなしという折り紙つきだったが、「僕は数学の岡潔先生に習いたい。(当時)奈良女の先生で女子大には行けないが京大には講師で来ている。だから、京大に行く」と宣言していた。しばしば、短い鉛筆をなめ、手帳を開けては何か書き付けている。「何をしている」と尋ねると「思いついた俳句を忘れないよう書き留めている」とのこと。また、カナヅチなので「泳げるようになりたい」という理由で水泳部に入ったという人物。彼は、私が3年で悩んだときはカウンセラーになってくれた。どんな人生を歩むかと思ってたら、やはり大学の数学の先生となった。他にも難関大学や医学部に行った者も多かった。


私の轍 第4回

2022-03-05 16:50:16 | 日記
(ウクライナ侵略がえらいことになってる中で、日常生活も何やかやあって、気が付きゃ、第3回 高校生活①が無い、手入れしようと思って、少しの間、そのままにしておいたら、無い!!  プレビューまではできたのに、どっか行ってしまった???
 ということで、できるだけ早く 第3回をアップしますので、この第4回を読むのを待ってネ
4 高校時代② 続
③ 学び・進路
● 3年生となる。さすがに、受験プレッシャーはかかってくる。文系・理系・文理系のクラスわけで私は文系にしたのだが、2年生の親しい友人の多くは理系・文理系に行き、クラス内に見知ったものはあまりいず、ひたすら暗い受験生となったのである。青春の悩み多き時期だった。(だから、当時のカリキュラムでは、数学Ⅲの微積分や行列・確率などは全然学ばなかったことは、後から考えると残念んzことだった。)
● 一つは大学進学か?就職か?の進路についてである。当時は、大手前といえども少数ながら就職者もいた。家に帰ると長兄と次兄が父に仕込まれながら、大工修行に励んでいる。建築ブームの時流に乗って家業は成功してきたとはいえ。大きな店ではなく、数人の大工職人と息子2人がいる。3人もいらぬ。私はと言えば、勉強はよくできるが、不器用で大工は不向きだから、「好きな方面に行け」と言われ大学進学を目指した。兄姉4人いても、大学に行った者はだれもいない。なかでも長兄は学業面もかなりでき大学進学の意思も成績も備わっていたように聞く。しかし、父は認めなかった。父と長男の確執めいたものを、高校生くらいになると感じていた。自分の勉強部屋は道路に面した二階にあり、向かい側は建築現場の資材置き場兼作業場があった。作業の音が聞こえてくると、自分一人がのうのうと受験勉強をしていていいものかと悩んだ。大学に進学することに後ろめたさを抱えていた。だから、授業料の高い私学は鼻から受験する気はなく、ダメなら就職しようと決意した。
● 今一つは、2年時に憧れていたマドンナに対して本気で人を恋うる感情が強まった。かつての青年が愛読書としていた安倍次郎の「三太郎の日記」で鎮めようとした。この本に触発されて、哲学的なしこう志向であり、
思考でもあり、嗜好でもあった)に興味を持った。試行敵に、ニーチェの「ツアッラートストラかく語りき」を読んだ。2年生の時だったか、堀江謙一さんの「太平洋ひとりぼっち」が評判になった時で、所詮世界は違うので憧れ以上のものではなかった。「哲学」に関して生齧りの知識でも知っていることが、私の知的プライドだった。
国語の時間に例の楊貴妃好きの元担任から、弁証法を説明するに当たって私に「知ってるか」と尋ねたのでドイツ語の「アウフヘーベン」と答えて得意になったことはいまだに記憶に残っている。
● 受験勉強については、文系で上述のような哲学しこうもあるからして、一番得意にしていたのは、現代文の評論である。文法的知識の欠如していた(真面目に努力しなかった)古典は苦手で合計は大したことはなかったが、小説・評論・古文・漢文で25点づつの配点中25点は任せとけくらい
の自信を持っていた。社会や英語はまあまあだが、数学は分からないのではないのだが点数がとれない。よくできる友人に相談したら、当時出版されていた「大学への数学がいいぜ」ということで、夏休みに2回仕上げた。2学期になってからの校内模試や、腕試しの予備校模試でも何とかなると思うようになった。
● そこで、大学選びである。文学部に照準を定めたが、京都・大阪・神戸の中でいずれを選ぶかが問題である。当時の試験は3月上旬一斉で、入試科目に違いがあったが、今のような偏差値で判断するという風習はなく、担任は「受けたいところを受けよ」以上のことは言わない。(そもそも進路指導という観念そのものが大手前の教師には無かったのかもしれない。)理科は京大だけ2科目、阪大・神戸は1科目で、生物の対応をしていたが、そのあたりが一番のネックであった。他の多くの級友とは違い、浪人は許されぬ、私学には行く金がないと思い込んだ上で、父に言った。冒頭の生い立ちところで述べた「鏡台、飯台、寝台」のダジャレ、諧謔の話に、気も楽になり、2科目目の「化学」に急遽取組み京都を受験することにした。京大の数学は難関という話だが、合格したのは分からなかった数学で点数が取れたおかげと思っている。

④ 青春いろいろ
● 陸上部や2年時のクラス仲間以外にも、よく付き合ったグループがいた。東京の山手線を夜中に徒歩で歩いた話題になった大学生の弟が、われらも規模は小さいが大阪環状線徒歩1周をしようと企画した。私もなぜか誘われ、民放に計画を持ち込み、各駅に着くたび電話し、電波に乗せてもらったのである。その時のメンバーに誘われて、小坊主修行をすることになった。二人の友人のどちらかがお寺さんに知り合いがおり、「大徳寺は大仙院で、受験勉強しないか」という誘いに安易に乗り、1週間ほど生活したのだ。馬鹿だね俺も! 寺では早朝に起き、まずは掃除、座禅の真似事をして、昼間に勉強したというもの。私たち3人の生活指導係が尾関宗園さんという方で、楽しい思い出となった。これを書いているにうちに懐かしくなりWEB検索すればこのあとすぐ、住職となり著作・テレビも含めた説法で有名となった僧侶であった。
● この友人に誘われ、今で言うボランティア活動にも2~3回参加した。知的障害児の宿泊施設で労働奉仕し、職員や園児と交流するというもの。
 この活動は、大学入学後に本格的にやりだすので、詳細はそこで記す。
● 2年生の時、政治にも目覚めた。部は陸上だったが、別のクラブの尊敬できそうな先輩に誘われ、ある会合に呼ばれた。20人くらいだったか?何人か見知った顔もあり、熱心に討議していた。場の中心にいたのは、文化祭で演劇のヒロインを演じていた女性だった。それこそ、校内一のヒロインだ。社会問題や政治について熱っぽく論議する姿に感動した。2回目に行ったときは、様子も知れたことだし、大して心動かされることもなかった。他の人から、子のヒロインの父は、政党色明らかなバリバリの市会議員と聞いて、「なるほどな」と思い、それ以降参加することもなかった。




私の轍 第2回

2022-02-20 10:56:13 | 日記
(前回、WatashiのWadachi 第1回目はブログに揚げる理由ーもともと書き散らかした文章をまとめて本にしたいということと、コロナ禍で突然ポックリ逝ってこれまでの作業が無になることが残念だーを述べた。今回は生い立ちの記に続いて小・中学校時代の思い出となる)

第1章 生い立ちの記(その2)
 

2 小学校時代
 
●入学した守口小学校というのは、創設が明治5年(1872年)というから、学制の始まった最も古い学校の一つだそうだ。守口市は大阪市に隣接し、 戦後市町村合併している。

● 父は大工仕事に忙しく、長兄とは13歳も年が離れており、中卒後すぐ父について大工修行するとともに、定時制工業高校で建築を学んでいた。だから、私の養育は母親や二人の姉によるところが大きく、おとなしい子どもだったようだ。2月生まれの早行きということもあり、低学年の頃の記憶もないが、体力的には劣るほうだった。ただ50音順の出席簿のいつも1番だったので、何かと先生のご指名におよび、それがまた嫌ではなかった。先生との相性も良かったのだろう、忠実であったから、授業もよく聞いた。中学年のころからは成績も伸びていった。ただ、いわゆる座学はよくできたが、体育や図工など実技的なものは全然という「優等生」タイプで、手先も不器用だったと自認している。担任の自宅に何人かの友人と遊びに行った思い出もある。たぶん、自我構造が素直だったのだろう。言われた指示を守らないと怒られるという臆病さも手伝ったのだろうが、高学年になるほど、勉強はトップクラスになり、児童会の会長にもなった。

● ある日、小学校から帰ってきて、お茶を飲もうとしたら水屋にシールみたいなものがが貼ってあって、母親から「剥がしたらアカン」と注意され たという記憶がある。「税務署」「差し押さえ」という言葉を覚えた。なんやかんやありながらも、数人の職人さんを使うようになっていった。戦後復興の建築業界の波に乗って、個人ながら注文・請負建築があたり、家業も好転していったように思う。 

● 小学校6年時、桜町から守口駅前の寺内町に転居した。もと質屋であったことから、立派な土蔵があり、厚い漆喰の扉とまさに時代劇さながらの南京錠に興奮したくらいだ。それまでの長屋と大違い! 親が少し頭を痛めたのは、転居によって校区が替わることだ。京阪線を挟んで北側なら、守口小の校区のままだが、新しいお屋敷?(当時はそう見えた)は違う校区だ。2学期からであったと思う。児童会会長であったことも関係あったのかどうかは定かでないが、卒業まであまり時間もないし、そのまま守口小に通いたいと言ったら、その通りになった。ン?!・・

3 中学校時代
● 小6の引越しによる校区変更―居座り=越境通学は、そのまま中学校にも引き継がれ、昭和33年(1958)守口一中に進んだ。部活動が活発で、野球部や陸上部(駅伝)で大阪を制覇したこともあるようだし、弁論部という中学ではユニークな部もあったようだ。私は、多分友人から勧められてだったと思うが、バスケット部に入部した。
 小学校以来の運動音痴で、横目で先輩や同級生のうまいやつを見ながら、ドリブルの練習、シュート練習にいそしんだ。顧問だったM先生が熱血先生タイプで、その指導力に感心したからだ。見よう見まねで3年生の時には何とかガードのポジションを得た。身体の小さい先輩のガードがミドルシュートを得意にしていたので、それなりに自分も努力し、練習試合で決めたときには、得意満面になったものだ。5人のチームは大型選手の主将に引っ張られ、そこそこの強豪に数えられるようになってきた。すぐ近所の旭区には、府下でもトップクラスのチームがあり、いい練習試合ができるようになっていった。その結果、府の中学校大会で、準決勝まで進出を果たしたのである。準決勝の相手は、手合わせをしたK中、手の内を読まれており、完敗した。敗因の大きなものは私である。オールプレスをかけられ、ガードの私がボールを運びきれず、あるいは攻撃時にセンターにボールを回しきれず、何度かボールを奪われた。どうしようもなくなって打つミドルシュートは決まるわけも無い。かくて、高校入学して見知った敵メンバーもおり、早々にバスケットを続ける意欲もわかなかった。

● その後も運動音痴だが、とにかくガンバルという性格的なものの結果か、運動スキルはほとんど要求されない長距離走がドンドン速くなり、何と中2の時、校内マラソン大会で優勝してしまったのである。陸上部員はレベルが違うから参加できなかったためだ。このため陸上部の顧問に眼をつけられ、中3の途中から陸上部にもダブル登録され、駅伝に駆り出されることになった。そして、中3マラソン大会で、順当に優勝した後、余勢をかって出場した大阪府中学校駅伝大会で、アンカーを任された。優勝争いには噛んでなかったが、強豪校の一角として8番くらいで来たと思う。もう一つのチームと競ってほとんど同時にたすきを受け継いだ。素人の怖さ、距離を考えながらペース配分するなんてできなくて、とにかく引き離してやろうと飛ばした、飛ばした。相手がいつの間にか離れ始めたと思ったらゴールは間近、結果は区間優勝。顧問もチームメートも唖然、私も呆然。表彰されたものとしては運動系では、その時貰った楯が唯一のもの。ちゃちだが、珍しいお宝となっている。(自慢です)
 しかし、長距離はともかく、表面的には他の運動も勉強も良くできると見られていたのだろう。校内球技大会でまともにレシーブできないのにバレーの選手に選ばれるなどは迷惑至極な思い出もあった。
 
● 学校の近くに塾ができ、友人の多くはそこに通っていたようで、塾の話を漏れ聞くこともあったが、羨ましいとは思わなかった。行く必要がなかったからだ。またまた自慢話めくが、座学5科目では勉強になんら困ったことはなかった。学校の近所にできた塾に多くの友人が行き、一種の流行になったこともあったが、その必要は無かったし、経済的余裕があるとも思えず、親にそんな話は一切しなかった。(ただし、唯一、あまりにも字が汚いので、小6のとき、習字(書道?)を習いに行ったことがあった。結局半年くらいでやめたため、悪筆は私の代名詞みたいなものとなってしまった。) 中3の進路でも当時5学区制であったが、公立の学区トップ校以外は考えられなかった。(当時は私立高は、あまりできない子の行くところと考えられていた。)

● 勉強で苦労はしなかった分、生徒会にエネルギーを使った。生徒会顧問の先生が熱心で、いろんな活動をしたと思う。活動の活性化をみて、学校が「生徒会の部屋」をつくってもくれた。役員連中とその部屋にたむろしていたが、他の生徒から見たら、なんとも鼻持ちならない連中と見られたかもしれない。

● 3年生のクラスでは、担任がゴンタの横の席を指定した(当時は二人の連結机)。早弁や授業妨害などの阻止のためのお目付け役みたいなもんだ。この友人のゴンタNo2が、座席の座布団みたいなものを握り、けんかではなくボクシングの真似ということで何回か相手にさせられたのは少々まいった。今でいえばいじめということになるだろうが当時そんな認識は無い。生徒会長で成績は学年トップ、どんくさいわりにマラソン大会の優勝者相手(自慢のオンパレードでスイマセン)に、憂さ晴らしをしようとしたら、そんな形しかなかったのだろうし、実際、私もそんな余裕をもって対応していたのかもしれない。ボコボコにされることは無かった。
 一つの忘れられない事件は、家庭科の授業ボイコットだ。昼休みに、男子の誰かが言い出して、近くの淀川堤防で遊ぼうということになったようだ。自分から乗る者もいたし、勢いから参加せざるを得ない羽目になった者もいて、気がつけば私を除く男子全員がボイコット組になっていた。この先生は1年生の担任でもあったし、サボりたいなどと考えたことももとより無かったのだが、なんともいえない男子の視線に負けてしまった。いやな思いをしながら小1時間うろついて戻ったらその先生は泣いているし、他の先生からは謝りに行けとおこられる。後は夢中でよく覚えていないのだが、中学の同窓会でよくこのことが言われる。「A君までサボったんやったネ」と。
 友人はバスケット部の連中と、級友では2人、一人は中卒ですぐK製鋼に就職し、卒業後2~3年で親交は途絶えた。もう一人は断続的なつきあいだったが、40歳の時同じ教員であることがわかって交流するようになった(残念ながら、病をえて夭折した)。

● 今から思えば、家庭の教育・文化・教養的環境に恵まれていたわけではない。高校以降、幅広く世間を知り始めると、文化芸術的素養がないという自覚は、コンプレックスにもなった。しかし、小学校の児童会・中学校の生徒会活動や部活動によって、学校や教員というものにポジティブなイメージを持ち、いろんな経験をしたことで、悩みというほどのことではないと思えたのは幸せであった。



watashiのwadachi

2022-02-19 00:00:00 | 日記
76歳になった。来年は喜寿の年である。20年以上も前、自分の寿命がいくつくらいまでか考えたことがあった。平均寿命も短く、定年も60歳定年だった。知り合いの先輩で63歳で亡くなった人が二人続いたので、マ、生きてお勤めが果たせたらいいな!ぐらいにしか思っていなかった。
 しかるに、喜寿に手が届こうとしている。ならば、何かしようと決意することとした。コロナ禍の時代、つくづく思ったのは、突然の感染、重篤化によって死に至った人々の無念さである。生きてきた時の思い、考えが伝えきれずに去ってゆかざるを得ないくやしさはいかばかりか?
 もともと、リビングウィルで、葬儀が不必要であることを書くつもりであったが、それでもただ消え去るのみ、とまでは悟りきれていない。いや、むしろ、文学部を志向し、こんなブログを続けているのも、書いたものを読んでほしいという欲求の強い人間なのだ。それで、喜寿の祝いは、書き溜めた文を集めて自費出版した出版記念パーティにしようかな?と思っていた。タイトルは「私の轍」WatashiのWadachi
 しかし、ここで少し冷静になる。本にして誰が読む? 無料の謹呈として送っても、膨大であればあるほど、ともに生きた時期を別にして、隅から隅まで読む人は少なかろう。この種の本なら、古本屋も引き取ってくれないだろう。
 ということで、gooのブログを借りまして、気の向いた時、気の向いた箇所にお目通しいただければ幸いです。
大雑把な構成は、第1章 生い立ち(誕生ー小ー中ー高校時代ー大学ー大学院)
        第2章 教員生活(堺市立工業ー府立藤井寺ー府立平野)
        第3章 府教育委員会時代
        第4章 校長時代(府立大東ー府立三国丘)
        第5章 定年退職後の生活(海外子女教育相談、ボランティア活動等)
            その他
第3章までは大筋書き溜めたので、割合、定期的にアップできるかと思います。

では1回目
      第1章 生い立ちの記 
 1 誕生
 昭和20年8月、昭和天皇のポツダム宣言受諾の詔勅を聞いたのは母の胎内においてであった。21年2月の誕生は、5番目の3男 末っ子であった。
 父は滋賀県の農家の次男坊であったため、京都の大工の丁稚奉公からはじめ、独立して守口の地で開業した。兵役を免除されたが、私が生まれた時には40歳を超えていた。30代の半ばですでに4名の子どもを育てた母は、当時としては多産というほどではなかったが、「出産直前の夢枕に祖母(母の母)が立った」と言っており、この子が多分最後の子宝であろうと思っていたらしい。
 戦火拡大中の1939年生まれの次男に勝次、真珠湾攻撃の翌年1942年生まれの次女には洋子と名付けた父は、敗戦で民主主義の世の中になった私を民三とした。なんとも時節便乗型というか、プラグマチックというか、ともあれ民主主義の申し子という自覚は早くからあった。
 母だけでなく兄・姉にも面倒を見てもらったようで、幼児期の記憶はないが、何となく貧しかったという感じはあった。幼稚園には上の兄姉と同じく行かなかった。母は末っ子(おとんぼ)ということで溺愛してくれたという感触をもっている。年の離れた長姉なども、よく「ねんねこ」でおんぶしてくれたと聞かされた。
終戦から数年、小学校に入学するくらいまでは、相当金銭的にも大変だったようで、おやつの取り合いなどわずかに記憶しているものの、家族の愛情には恵まれていたと思う。

●父が40を回ってからの子どもだから、物心ついてからの最も古い記憶は、1枚のスナップだ。父が使っていたオートバイの後の荷台にたち父の肩に手を置いている姿だ。しかし、その写真でも既に父の眼窩が窪んでいた。大工の棟梁で朝は8時前に家の前に集まった職人にその日の指示をするわけだが、「こーつと」というのが口癖であった。何のことかよく分からないままであったが、「甲乙と」、まず一番は・・といった意だと、後にに思い至った。浪曲と映画が好きで、東映の時代劇によく連れて行ってもらったという記憶がある。
 大学進学および、結婚の時の相談した記憶は鮮明だ。「国立しか受けないが、行きたい文学部でのうち京大・阪大・神大のいずれにするかで迷っている。大阪・神戸はなんとかなるかもしれないが、京都は厳しい。行きたいのは京都だが・・」。父の言葉はこうだった。「お前、京大は自分の姿を映すだけのことやろ、阪大なら飯が食える。神大は寝るしか役に立たん。阪大にせい」・・ズッコケた。なんと分かっていながら「鏡台・飯台・寝台」と家財にたとえて、交通費の一番かからない阪大を薦めたのであった。一生忘れられそうにも無い。私のダジャレ好きも、このおやじの血かもしれない。
 就職先も決まり、専門学校に入学が決まった今のカミさんと同棲することにしたが、哀しいことに住居の敷金がない。父に相談したところ、「そんなふしだらなことはイカン。」と諭され、それからひと月経たぬ間に結婚することになった。

●独立開業しても得意先をほとんど持たなかっただろう地に来た大工の一家7人は、数軒続きの長屋に居を構えた。夕暮れ時には、近所の空を蝙蝠が飛び回っていたことを思い出す。また官憲が隣人宅に摘発に来たのでびびったこともあった(どぶろくの密造)。記憶では、入り口を開けたら三和土から2畳の玄関、襖の西側が台所、北側が奥の間(6畳?)、その北には便所と離れに通じる廊下で少しの庭があったと記憶している。

●戦後すぐの混乱もあったのだろうが、出産直後の写真は無い。幼稚園には(兄弟の誰も)行っていない。小学校入学式の集合写真も兄からのお下がりだった国防色の服を着ている。その内、請負建築や修理の家業も顧客がついてきたようで、私の中では、貧しいとは感じていなかったとと思うし、ましてや恥じるという感覚は持っていなかったと思う。


watashiのwadachi

2022-02-19 00:00:00 | 日記
76歳になった。来年は喜寿の年である。20年以上も前、自分の寿命がいくつくらいまでか考えたことがあった。平均寿命も短く、定年も60歳定年だった。知り合いの先輩で63歳で亡くなった人が二人続いたので、マ、生きてお勤めが果たせたらいいな!ぐらいにしか思っていなかった。
 しかるに、喜寿に手が届こうとしている。ならば、何かしようと決意することとした。コロナ禍の時代、つくづく思ったのは、突然の感染、重篤化によって死に至った人々の無念さである。生きてきた時の思い、考えが伝えきれずに去ってゆかざるを得ないくやしさはいかばかりか?
 もともと、リビングウィルで、葬儀が不必要であることを書くつもりであったが、それでもただ消え去るのみ、とまでは悟りきれていない。いや、むしろ、文学部を志向し、こんなブログを続けているのも、書いたものを読んでほしいという欲求の強い人間なのだ。それで、喜寿の祝いは、書き溜めた文を集めて自費出版した出版記念パーティにしようかな?と思っていた。タイトルは「私の轍」WatashiのWadachi
 しかし、ここで少し冷静になる。本にして誰が読む? 無料の謹呈として送っても、膨大であればあるほど、ともに生きた時期を別にして、隅から隅まで読む人は少なかろう。この種の本なら、古本屋も引き取ってくれないだろう。
 ということで、gooのブログを借りまして、気の向いた時、気の向いた箇所にお目通しいただければ幸いです。
大雑把な構成は、第1章 生い立ち(誕生ー小ー中ー高校時代ー大学ー大学院)
        第2章 教員生活(堺市立工業ー府立藤井寺ー府立平野)
        第3章 府教育委員会時代
        第4章 校長時代(府立大東ー府立三国丘)
        第5章 定年退職後の生活(海外子女教育相談、ボランティア活動等)
            その他
第3章までは大筋書き溜めたので、割合、定期的にアップできるかと思います。

では1回目
      第1章 生い立ちの記 
 1 誕生
 昭和20年8月、昭和天皇のポツダム宣言受諾の詔勅を聞いたのは母の胎内においてであった。21年2月の誕生は、5番目の3男 末っ子であった。
 父は滋賀県の農家の次男坊であったため、京都の大工の丁稚奉公からはじめ、独立して守口の地で開業した。兵役を免除されたが、私が生まれた時には40歳を超えていた。30代の半ばですでに4名の子どもを育てた母は、当時としては多産というほどではなかったが、「出産直前の夢枕に祖母(母の母)が立った」と言っており、この子が多分最後の子宝であろうと思っていたらしい。
 戦火拡大中の1939年生まれの次男に勝次、真珠湾攻撃の翌年1942年生まれの次女には洋子と名付けた父は、敗戦で民主主義の世の中になった私を民三とした。なんとも時節便乗型というか、プラグマチックというか、ともあれ民主主義の申し子という自覚は早くからあった。
 母だけでなく兄・姉にも面倒を見てもらったようで、幼児期の記憶はないが、何となく貧しかったという感じはあった。幼稚園には上の兄姉と同じく行かなかった。母は末っ子(おとんぼ)ということで溺愛してくれたという感触をもっている。年の離れた長姉なども、よく「ねんねこ」でおんぶしてくれたと聞かされた。
終戦から数年、小学校に入学するくらいまでは、相当金銭的にも大変だったようで、おやつの取り合いなどわずかに記憶しているものの、家族の愛情には恵まれていたと思う。

●父が40を回ってからの子どもだから、物心ついてからの最も古い記憶は、1枚のスナップだ。父が使っていたオートバイの後の荷台にたち父の肩に手を置いている姿だ。しかし、その写真でも既に父の眼窩が窪んでいた。大工の棟梁で朝は8時前に家の前に集まった職人にその日の指示をするわけだが、「こーつと」というのが口癖であった。何のことかよく分からないままであったが、「甲乙と」、まず一番は・・といった意だと、後にに思い至った。浪曲と映画が好きで、東映の時代劇によく連れて行ってもらったという記憶がある。
 大学進学および、結婚の時の相談した記憶は鮮明だ。「国立しか受けないが、行きたい文学部でのうち京大・阪大・神大のいずれにするかで迷っている。大阪・神戸はなんとかなるかもしれないが、京都は厳しい。行きたいのは京都だが・・」。父の言葉はこうだった。「お前、京大は自分の姿を映すだけのことやろ、阪大なら飯が食える。神大は寝るしか役に立たん。阪大にせい」・・ズッコケた。なんと分かっていながら「鏡台・飯台・寝台」と家財にたとえて、交通費の一番かからない阪大を薦めたのであった。一生忘れられそうにも無い。私のダジャレ好きも、このおやじの血かもしれない。
 就職先も決まり、専門学校に入学が決まった今のカミさんと同棲することにしたが、哀しいことに住居の敷金がない。父に相談したところ、「そんなふしだらなことはイカン。」と諭され、それからひと月経たぬ間に結婚することになった。

●独立開業しても得意先をほとんど持たなかっただろう地に来た大工の一家7人は、数軒続きの長屋に居を構えた。夕暮れ時には、近所の空を蝙蝠が飛び回っていたことを思い出す。また官憲が隣人宅に摘発に来たのでびびったこともあった(どぶろくの密造)。記憶では、入り口を開けたら三和土から2畳の玄関、襖の西側が台所、北側が奥の間(6畳?)、その北には便所と離れに通じる廊下で少しの庭があったと記憶している。

●戦後すぐの混乱もあったのだろうが、出産直後の写真は無い。幼稚園には(兄弟の誰も)行っていない。小学校入学式の集合写真も兄からのお下がりだった国防色の服を着ている。その内、請負建築や修理の家業も顧客がついてきたようで、私の中では、貧しいとは感じていなかったとと思うし、ましてや恥じるという感覚は持っていなかったと思う。