76歳になった。来年は喜寿の年である。20年以上も前、自分の寿命がいくつくらいまでか考えたことがあった。平均寿命も短く、定年も60歳定年だった。知り合いの先輩で63歳で亡くなった人が二人続いたので、マ、生きてお勤めが果たせたらいいな!ぐらいにしか思っていなかった。
しかるに、喜寿に手が届こうとしている。ならば、何かしようと決意することとした。コロナ禍の時代、つくづく思ったのは、突然の感染、重篤化によって死に至った人々の無念さである。生きてきた時の思い、考えが伝えきれずに去ってゆかざるを得ないくやしさはいかばかりか?
もともと、リビングウィルで、葬儀が不必要であることを書くつもりであったが、それでもただ消え去るのみ、とまでは悟りきれていない。いや、むしろ、文学部を志向し、こんなブログを続けているのも、書いたものを読んでほしいという欲求の強い人間なのだ。それで、喜寿の祝いは、書き溜めた文を集めて自費出版した出版記念パーティにしようかな?と思っていた。タイトルは「私の轍」WatashiのWadachi
しかし、ここで少し冷静になる。本にして誰が読む? 無料の謹呈として送っても、膨大であればあるほど、ともに生きた時期を別にして、隅から隅まで読む人は少なかろう。この種の本なら、古本屋も引き取ってくれないだろう。
ということで、gooのブログを借りまして、気の向いた時、気の向いた箇所にお目通しいただければ幸いです。
大雑把な構成は、第1章 生い立ち(誕生ー小ー中ー高校時代ー大学ー大学院)
第2章 教員生活(堺市立工業ー府立藤井寺ー府立平野)
第3章 府教育委員会時代
第4章 校長時代(府立大東ー府立三国丘)
第5章 定年退職後の生活(海外子女教育相談、ボランティア活動等)
その他
第3章までは大筋書き溜めたので、割合、定期的にアップできるかと思います。
では1回目
第1章 生い立ちの記
1 誕生
昭和20年8月、昭和天皇のポツダム宣言受諾の詔勅を聞いたのは母の胎内においてであった。21年2月の誕生は、5番目の3男 末っ子であった。
父は滋賀県の農家の次男坊であったため、京都の大工の丁稚奉公からはじめ、独立して守口の地で開業した。兵役を免除されたが、私が生まれた時には40歳を超えていた。30代の半ばですでに4名の子どもを育てた母は、当時としては多産というほどではなかったが、「出産直前の夢枕に祖母(母の母)が立った」と言っており、この子が多分最後の子宝であろうと思っていたらしい。
戦火拡大中の1939年生まれの次男に勝次、真珠湾攻撃の翌年1942年生まれの次女には洋子と名付けた父は、敗戦で民主主義の世の中になった私を民三とした。なんとも時節便乗型というか、プラグマチックというか、ともあれ民主主義の申し子という自覚は早くからあった。
母だけでなく兄・姉にも面倒を見てもらったようで、幼児期の記憶はないが、何となく貧しかったという感じはあった。幼稚園には上の兄姉と同じく行かなかった。母は末っ子(おとんぼ)ということで溺愛してくれたという感触をもっている。年の離れた長姉なども、よく「ねんねこ」でおんぶしてくれたと聞かされた。
終戦から数年、小学校に入学するくらいまでは、相当金銭的にも大変だったようで、おやつの取り合いなどわずかに記憶しているものの、家族の愛情には恵まれていたと思う。
●父が40を回ってからの子どもだから、物心ついてからの最も古い記憶は、1枚のスナップだ。父が使っていたオートバイの後の荷台にたち父の肩に手を置いている姿だ。しかし、その写真でも既に父の眼窩が窪んでいた。大工の棟梁で朝は8時前に家の前に集まった職人にその日の指示をするわけだが、「こーつと」というのが口癖であった。何のことかよく分からないままであったが、「甲乙と」、まず一番は・・といった意だと、後にに思い至った。浪曲と映画が好きで、東映の時代劇によく連れて行ってもらったという記憶がある。
大学進学および、結婚の時の相談した記憶は鮮明だ。「国立しか受けないが、行きたい文学部でのうち京大・阪大・神大のいずれにするかで迷っている。大阪・神戸はなんとかなるかもしれないが、京都は厳しい。行きたいのは京都だが・・」。父の言葉はこうだった。「お前、京大は自分の姿を映すだけのことやろ、阪大なら飯が食える。神大は寝るしか役に立たん。阪大にせい」・・ズッコケた。なんと分かっていながら「鏡台・飯台・寝台」と家財にたとえて、交通費の一番かからない阪大を薦めたのであった。一生忘れられそうにも無い。私のダジャレ好きも、このおやじの血かもしれない。
就職先も決まり、専門学校に入学が決まった今のカミさんと同棲することにしたが、哀しいことに住居の敷金がない。父に相談したところ、「そんなふしだらなことはイカン。」と諭され、それからひと月経たぬ間に結婚することになった。
●独立開業しても得意先をほとんど持たなかっただろう地に来た大工の一家7人は、数軒続きの長屋に居を構えた。夕暮れ時には、近所の空を蝙蝠が飛び回っていたことを思い出す。また官憲が隣人宅に摘発に来たのでびびったこともあった(どぶろくの密造)。記憶では、入り口を開けたら三和土から2畳の玄関、襖の西側が台所、北側が奥の間(6畳?)、その北には便所と離れに通じる廊下で少しの庭があったと記憶している。
●戦後すぐの混乱もあったのだろうが、出産直後の写真は無い。幼稚園には(兄弟の誰も)行っていない。小学校入学式の集合写真も兄からのお下がりだった国防色の服を着ている。その内、請負建築や修理の家業も顧客がついてきたようで、私の中では、貧しいとは感じていなかったとと思うし、ましてや恥じるという感覚は持っていなかったと思う。
しかるに、喜寿に手が届こうとしている。ならば、何かしようと決意することとした。コロナ禍の時代、つくづく思ったのは、突然の感染、重篤化によって死に至った人々の無念さである。生きてきた時の思い、考えが伝えきれずに去ってゆかざるを得ないくやしさはいかばかりか?
もともと、リビングウィルで、葬儀が不必要であることを書くつもりであったが、それでもただ消え去るのみ、とまでは悟りきれていない。いや、むしろ、文学部を志向し、こんなブログを続けているのも、書いたものを読んでほしいという欲求の強い人間なのだ。それで、喜寿の祝いは、書き溜めた文を集めて自費出版した出版記念パーティにしようかな?と思っていた。タイトルは「私の轍」WatashiのWadachi
しかし、ここで少し冷静になる。本にして誰が読む? 無料の謹呈として送っても、膨大であればあるほど、ともに生きた時期を別にして、隅から隅まで読む人は少なかろう。この種の本なら、古本屋も引き取ってくれないだろう。
ということで、gooのブログを借りまして、気の向いた時、気の向いた箇所にお目通しいただければ幸いです。
大雑把な構成は、第1章 生い立ち(誕生ー小ー中ー高校時代ー大学ー大学院)
第2章 教員生活(堺市立工業ー府立藤井寺ー府立平野)
第3章 府教育委員会時代
第4章 校長時代(府立大東ー府立三国丘)
第5章 定年退職後の生活(海外子女教育相談、ボランティア活動等)
その他
第3章までは大筋書き溜めたので、割合、定期的にアップできるかと思います。
では1回目
第1章 生い立ちの記
1 誕生
昭和20年8月、昭和天皇のポツダム宣言受諾の詔勅を聞いたのは母の胎内においてであった。21年2月の誕生は、5番目の3男 末っ子であった。
父は滋賀県の農家の次男坊であったため、京都の大工の丁稚奉公からはじめ、独立して守口の地で開業した。兵役を免除されたが、私が生まれた時には40歳を超えていた。30代の半ばですでに4名の子どもを育てた母は、当時としては多産というほどではなかったが、「出産直前の夢枕に祖母(母の母)が立った」と言っており、この子が多分最後の子宝であろうと思っていたらしい。
戦火拡大中の1939年生まれの次男に勝次、真珠湾攻撃の翌年1942年生まれの次女には洋子と名付けた父は、敗戦で民主主義の世の中になった私を民三とした。なんとも時節便乗型というか、プラグマチックというか、ともあれ民主主義の申し子という自覚は早くからあった。
母だけでなく兄・姉にも面倒を見てもらったようで、幼児期の記憶はないが、何となく貧しかったという感じはあった。幼稚園には上の兄姉と同じく行かなかった。母は末っ子(おとんぼ)ということで溺愛してくれたという感触をもっている。年の離れた長姉なども、よく「ねんねこ」でおんぶしてくれたと聞かされた。
終戦から数年、小学校に入学するくらいまでは、相当金銭的にも大変だったようで、おやつの取り合いなどわずかに記憶しているものの、家族の愛情には恵まれていたと思う。
●父が40を回ってからの子どもだから、物心ついてからの最も古い記憶は、1枚のスナップだ。父が使っていたオートバイの後の荷台にたち父の肩に手を置いている姿だ。しかし、その写真でも既に父の眼窩が窪んでいた。大工の棟梁で朝は8時前に家の前に集まった職人にその日の指示をするわけだが、「こーつと」というのが口癖であった。何のことかよく分からないままであったが、「甲乙と」、まず一番は・・といった意だと、後にに思い至った。浪曲と映画が好きで、東映の時代劇によく連れて行ってもらったという記憶がある。
大学進学および、結婚の時の相談した記憶は鮮明だ。「国立しか受けないが、行きたい文学部でのうち京大・阪大・神大のいずれにするかで迷っている。大阪・神戸はなんとかなるかもしれないが、京都は厳しい。行きたいのは京都だが・・」。父の言葉はこうだった。「お前、京大は自分の姿を映すだけのことやろ、阪大なら飯が食える。神大は寝るしか役に立たん。阪大にせい」・・ズッコケた。なんと分かっていながら「鏡台・飯台・寝台」と家財にたとえて、交通費の一番かからない阪大を薦めたのであった。一生忘れられそうにも無い。私のダジャレ好きも、このおやじの血かもしれない。
就職先も決まり、専門学校に入学が決まった今のカミさんと同棲することにしたが、哀しいことに住居の敷金がない。父に相談したところ、「そんなふしだらなことはイカン。」と諭され、それからひと月経たぬ間に結婚することになった。
●独立開業しても得意先をほとんど持たなかっただろう地に来た大工の一家7人は、数軒続きの長屋に居を構えた。夕暮れ時には、近所の空を蝙蝠が飛び回っていたことを思い出す。また官憲が隣人宅に摘発に来たのでびびったこともあった(どぶろくの密造)。記憶では、入り口を開けたら三和土から2畳の玄関、襖の西側が台所、北側が奥の間(6畳?)、その北には便所と離れに通じる廊下で少しの庭があったと記憶している。
●戦後すぐの混乱もあったのだろうが、出産直後の写真は無い。幼稚園には(兄弟の誰も)行っていない。小学校入学式の集合写真も兄からのお下がりだった国防色の服を着ている。その内、請負建築や修理の家業も顧客がついてきたようで、私の中では、貧しいとは感じていなかったとと思うし、ましてや恥じるという感覚は持っていなかったと思う。