半分バイク海苔な日々(´・ω・`)

提督と愉快な仲間達が織りなす妄想青春グラフィティ

先週の金曜日から旅にでてました-2

2011年07月27日 21時54分59秒 | 旅・観光
高畠町から米沢市を経て、福島県へ・・・

あたりは雨模様
道の駅 安達から智恵子記念館へ


高村智恵子出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高村 智恵子(たかむら ちえこ、1886年5月20日 - 1938年10月5日、旧姓長沼、千恵子は誤表記)は、日本の洋画家である。彫刻家の高村光太郎は夫である。彼女の死後、夫が出版した詩集『智恵子抄』は有名である。

経歴 [編集]1886年5月20日、福島県安達郡油井村字漆原(現・二本松市)の酒造業斎藤今朝吉(後に長沼家に養子に入り、長沼今朝吉となる)、せんの二男六女の長女として生まれた。戸籍名は「チヱ」。長沼家は清酒「花霞」を醸造する酒造家で、資産家であった。

1903年、福島高等女学校(現・福島県立橘高等学校)を卒業。日本女子大学校に入学。油絵に興味を持つようになり、1907年に大学を卒業した後は、女性洋画家(当時では珍しかった)の道を選んで東京に残り、太平洋画会研究所で学んだ。1911年(25歳)には、同年9月に創刊された雑誌『青鞜』の表紙絵を描くなど、若き女性芸術家として人々に注目されるようになっていた。

同年12月、柳八重の紹介で光太郎と出会い、1913年(27歳)一緒に上高地に行って絵を描いた時に結婚の意思を固め、1914年(28歳)に結婚(1933年8月23日入籍)。結婚後は、金銭的に苦しい窮乏生活を送りつつも制作活動を続けていたが、1918年の父今朝吉の死、1929年長沼家の破産・一家離散など心労が多く、結婚以前から病弱(湿性肋膜炎)であったこともあり、1931年8月(45歳)に光太郎が三陸方面の取材旅行で留守中、統合失調症の最初の兆候が現れる。1932年7月15日(46歳)大量の睡眠薬を飲み自殺を図るが未遂に終わる。1935年に東京・品川のゼームス坂病院に入院し、病室で多数の紙絵を生み出した。1938年10月5日(52歳)、粟粒性肺結核のため死去。東京都豊島区駒込の染井霊園に埋葬される。

以上・・・ウィキから丸写しwww

結構な豪邸である(^^;


道の駅つちゆからは気温が低く((((;゜Д゜))))
裏磐梯付近でマフラーからモクモクと煙が・・・・暫くほっといたら出なくなったw

喜多方駅前の大黒天で手打ちラーメンを食べてR459から帰宅
美味いとは思うが・・・やっぱ新潟のラーメンの方が・・・・かな?
喜多方市で最高のラーメンを食ってみたい・・・

新潟市の自宅に着くまでは強烈な睡魔との闘いでした(^^;
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