「武田二十四将図」は
信玄公をセンター✨に、武田氏の下で活躍した23将を描いた図像。
ある一定の型に従って描かれた、仏画的礼拝図です。
共に「武田二十四将図」(個人蔵)
注目は、信玄公のお顔。
なんと、不動明王のお顔と重ねたような表現になっています。
なんと、不動明王のお顔と重ねたような表現になっています。
不動明王は、大日如来の怒りのお姿。
それは、仏教の教えの邪魔だてをしようとするものに対する威嚇であり、愛の鞭。
煩悩や迷いを焼き払う炎(!)を背負い、
目は天地眼。左右上下を睨み、天から地に至るまで決して悪を見逃さない。
口元は乱抗歯。バージョンは様々ですが、牙が上に下にと出ています。
信玄公のお顔が、こんなふうに不動明王の忿怒のお顔で描かれている作品は少なからずあるようで・・・。
それは、仏教の教えの邪魔だてをしようとするものに対する威嚇であり、愛の鞭。
煩悩や迷いを焼き払う炎(!)を背負い、
目は天地眼。左右上下を睨み、天から地に至るまで決して悪を見逃さない。
口元は乱抗歯。バージョンは様々ですが、牙が上に下にと出ています。
信玄公のお顔が、こんなふうに不動明王の忿怒のお顔で描かれている作品は少なからずあるようで・・・。
驚いてしまうのは、このように信玄公を不動明王に重ねて表現したものは、
江戸時代に始まったことではなく、どうやらその前から。
服装など、肖像画の制約が緩み始めたころの作品とはいえ、
人を神として表現するというのは、中世のルールを越えたものだったのでしょう。
同じような例は、なかなか見当たりません。
江戸時代に始まったことではなく、どうやらその前から。
服装など、肖像画の制約が緩み始めたころの作品とはいえ、
人を神として表現するというのは、中世のルールを越えたものだったのでしょう。
同じような例は、なかなか見当たりません。
信玄公と不動明王を重ねて表現した主な作品には、
例えば、弟である武田信廉(のぶかど)の筆によるものと伝えられる「鎧不動尊像」が。
不動明王のまとう鎧に、武田家家紋の花菱や、腹まきに信玄の使用した龍朱印と同様の円龍文が入っています。
こうした一連の表現は、「イコール信玄公」というサインだったのかもしれません。
その他、よく知られるところでは、恵林寺所蔵の「武田不動尊像」。
「甲斐国志」の恵林寺の項や、「甲陽軍鑑」によると、
不動尊像は京仏師・康清に彫らせたもので、
信玄自身の毛髪を漆に混ぜて、胸の部分に植え込ませた(!?)とか。
不動尊像は京仏師・康清に彫らせたもので、
信玄自身の毛髪を漆に混ぜて、胸の部分に植え込ませた(!?)とか。
自らを、どこまで不動明王になぞらえたかどうか、知る由もありませんが・・・、
毎日が命がけ(!)だったに違いない戦国時代。
神仏など、見えない世界との関わり方が現代とは全く違ったはずで、
戦の場で、神仏の名号を染め抜いた旗指物を立て、そのご加護を得ることを願ったように、
不動明王に自らの一部を埋め込むことで、そのお力を得たいと祈念!?
・・・その後、甲州流軍学が徳川幕府に認められ、
そのエッセンスのつまった「甲陽軍鑑」も広く読まれるように。
ちょっと教訓的に、新しい時代(=江戸時代)の武士のあるべき姿を説く一方で、
「武田二十四将図」では絶対的な君主に、忠義をもって従う家臣たちを描き、
「武田二十四将図」では絶対的な君主に、忠義をもって従う家臣たちを描き、
幕府にとっての、あるべき武士の姿を見える化。
不動明王のお力を何としてでも得たいと願った(!?)信玄公のエネルギーが、
幕府の求める新たな秩序を作り出すためのエネルギーに変換されようとした時、
「武田二十四将図」は、なくてはならないものになった・・・のかもしれません。
江戸後期、「武田二十四将図」はより多くの人々に親しまれるキャラクター満載の武者絵に。
その存在価値も微妙に変化。時代の波には逆らえない、ということでしょうか😉
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