戦国武将・武田信玄の人気のひみつに、ブログ的に迫っております😉
信玄公の息の長い人気に一役買ったかもしれない(!?)のが、
「武田二十四将図」。
武田の二十四将とは、信玄公と武田氏の下で活躍した23将。
23将の選抜は作品によって若干変わりますが、
当然のことながら、信玄公は永遠のセンター✨✨
ご覧いただくと一目瞭然なのですが、
一連の「武田二十四将図」には、一定程度の型があります。
☆縦型で、
☆床几に腰かけた信玄公を中央最上段に、
☆その下に23将が左右分かれ、それぞれの指定席に座し、
☆皆さま、軍議を終え次第、出陣せんばかりの「お決まりの」お姿。
中には、お顔が4分の3だけ、横向き、完全に後ろ向き(!)なんかもありますが、
基本的にはこんな感じ☟
「武田二十四将図」(個人蔵)
江戸時代前半には、ある程度の型をもって成立していたようですが、
描かれる人物が存命中に、寺社などに奉納するために描かれた「寿像」でもなく、
亡くなった後、個人の記憶を回想することを目的に描かれる「遺像」とも違う。
その存在意義や形式共に、モデルとなったのは、
すでに成立していた「徳川二十(または十六)将図」あたりではないかと推測されています。
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/90373
確かに、画面構成などが似ています😉
江戸時代、盛んに制作された「武田二十四将図」ですが、
すでにない大名家の軍団絵が、その意味合いを変えながら、
☆縦型で、
☆床几に腰かけた信玄公を中央最上段に、
☆その下に23将が左右分かれ、それぞれの指定席に座し、
☆皆さま、軍議を終え次第、出陣せんばかりの「お決まりの」お姿。
中には、お顔が4分の3だけ、横向き、完全に後ろ向き(!)なんかもありますが、
基本的にはこんな感じ☟
「武田二十四将図」(個人蔵)
江戸時代前半には、ある程度の型をもって成立していたようですが、
描かれる人物が存命中に、寺社などに奉納するために描かれた「寿像」でもなく、
亡くなった後、個人の記憶を回想することを目的に描かれる「遺像」とも違う。
その存在意義や形式共に、モデルとなったのは、
すでに成立していた「徳川二十(または十六)将図」あたりではないかと推測されています。
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/90373
確かに、画面構成などが似ています😉
江戸時代、盛んに制作された「武田二十四将図」ですが、
すでにない大名家の軍団絵が、その意味合いを変えながら、
最初は肉筆、後に木版画として出版される例は珍しかったようです。
身分と時代を越えて、多くの人が「武田二十四将図」を手にした訳は、
甲州流軍学が徳川幕府の軍学として認められ、
身分と時代を越えて、多くの人が「武田二十四将図」を手にした訳は、
甲州流軍学が徳川幕府の軍学として認められ、
信玄公の戦術などをまとめた「甲陽軍鑑」が、まずは武士の間で、
そして、庶民にも広く読まれ、講談や歌舞伎にも盛り込まれて。
そして、庶民にも広く読まれ、講談や歌舞伎にも盛り込まれて。
さらに、武田家に関わる軍記物や軍談物も流行。
「武田二十四将図」が浮世絵などの題材としても人気を博し、
「武田二十四将図」が浮世絵などの題材としても人気を博し、
現代のプロマイドの様相を呈していきます。
武田家を支えた、数多くの武将たちも「甲陽軍鑑」を飛び出して(!?)
個性豊かに描かれ、読者・鑑賞者を楽しませたのでしょう。
異形の軍師・山本勘助や、鬼美濃と恐れられた馬場信春、
信玄の弟・「武田の副大将」武田信繁、
信玄の弟・「武田の副大将」武田信繁、
親子で二十四将に数えられる真田ファミリーなどなど。
そんな魅力あるキャラクター総出演の「武田二十四将図」もまた、
お館さま・信玄公を盛り立てていったのかもしれません。
死してなお!
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