武田氏と言えば、どうしても信玄公。
父である信虎公は、なかなか個性的な方であったようですが、
歴史小説にしても、大河などの時代劇ドラマにしても、
信虎公の残虐伝説以外ははあまり触れられず、
息子による無血クーデターに関しても、さくっと国外追放のシーンがあるくらい。
でも、歴史を紐解けば、この甲斐国における信虎公の働きはとても無視できないもの。
度重なる合戦を経て国を統一し、躑躅が崎館を核とした甲斐府中を作り上げる。
そして、戦国大名として生き抜くための富国強兵が目指されました。
後世、武田家を語る上でのアクセント(!?)として、
文学作品などでは、そのお人柄に尾ひれはひれ。
とはいえ、この父の功績なくして、この息子の活躍なし。
・・・本日は、そんな信虎公のお誕生日!
今から、523年前の、明応7年(1498)1月6日のお生まれです。
実は、信虎公の生まれた年は2説ありまして。
ちょっと前まで有力だったのが、明応3年(1494)生年説。
こちらは、「甲陽軍鑑」(※1)や、
信虎公の菩提寺である大泉寺(甲府市)の過去帳や位牌に記された没年から逆算したもの。
もう一つの明応7年説は、「甲陽日記」(※2)や「大井俣神社本紀 」(※3)に記された
「明応七年正月六日」を支持したもの。
信玄ミュージアムでは、後者の1月6日説を基に、館内の解説を行っています。
そして、信虎公が家督を継いだのは、
祖父の信昌に続き、父の信縄が相次いで亡くなった永正4年(1507)のこと。
御年、9歳!
祖父の信昌に続き、父の信縄が相次いで亡くなった永正4年(1507)のこと。
御年、9歳!
天が、時代が味方したのでしょうか。家臣に恵まれたのでしょうか。
はたまた、ご本人の実力でしょうか。
その後、叔父の信恵との家督争いに討ち勝ち、武田家宗家をまとめ、
その後、叔父の信恵との家督争いに討ち勝ち、武田家宗家をまとめ、
息つく間もなく国衆との度重なる合戦に身を投じ、今川氏の介入を退けながら、甲斐統一。
その最中、1519年に築かれたのが、躑躅が崎館とその城下町。
そして、1521年、生を受けたのが、嫡男の太郎、後の信玄公でした・・・。
館の眼下に見晴らせる城下町、今日の様子
(※1)「甲陽軍鑑」は江戸前期に成立した、武田氏の戦略戦術を記した軍学書。
武田氏の行く末を案じた、家臣・春日虎綱の口述に加筆し、
最終的には、武田氏家臣であり、足軽大将だった父を持つ
軍学者・小幡景憲(1572-1663)がまとめたとされている。
長い年月をかけて成立したものゆえに、史料としての評価は分かれるところ。
(※2)「甲陽日記」は戦国時代の記録。武田氏の用務日誌をもとにした日記。
信虎誕生から、信玄嫡男の義信の婚儀まで約56年間を記す。
作者は、武田氏家臣、駒井政武と考えられ、
史料としての信ぴょう性は高いとされている。
(※3)「大井俣神社本紀」は承応2年(1653)成立。
大井俣久保八幡神社が所蔵。
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