戦国時代、明日の命もわからない世の中だったからでしょうか。
多くの武将が神仏に帰依していたといわれています。
信玄をはじめとする武田家も同じ。様々な寺社と深い関わりをもっていたようです。
そんな甲斐武田家の氏神は、八幡神。
皆さまの住む土地にも、きっといらっしゃる。全国津々浦々、多くの土地を守る八幡さまですが・・・
多くの武将が神仏に帰依していたといわれています。
信玄をはじめとする武田家も同じ。様々な寺社と深い関わりをもっていたようです。
そんな甲斐武田家の氏神は、八幡神。
皆さまの住む土地にも、きっといらっしゃる。全国津々浦々、多くの土地を守る八幡さまですが・・・
八幡神の「八」は「聖数、たくさんあること」を、
「幡」は、「ご神体や神域など、神さまの依代(よりしろ)となる旗🏁」という意味だそうで。
名は体を表すとは、まさにこのこと!?
「幡」は、「ご神体や神域など、神さまの依代(よりしろ)となる旗🏁」という意味だそうで。
名は体を表すとは、まさにこのこと!?
ここ山梨にも、たくさんの八幡さまがお祀りされています。
武田氏館跡のすぐそばには、館の造営後に源氏である武田氏の氏神様として祀られていた、
石和八幡宮(現笛吹市)から分祀された八幡宮がありました。
その場所は、今は「古八幡」と呼ばれています。
その後、武田家が滅亡して豊臣秀吉の時代に拠点を甲府城に移した際、ちょっと南にお引越し。
通称「府中八幡」。
こちらは、甲府市の金手駅そばにある”山”八幡宮。
平安時代後期、甲斐国にやってきた源義清が建てた八幡宮を勧請して、現在の甲府市愛宕町に。
甲府城築城の時、再びお引越しして、築城守護の神社になります。
その他、韮崎の武田八幡宮、石和八幡神社、山梨市の大井俣八幡神社などなど。
本当にたくさん。
こんなにたくさんの八幡さまがいらっしゃるのも、
源氏が勢力を広げるたびに、守護神として八幡宮を建立したからという説あり。
とってもうなずける話ですが、どうしてそんなに八幡さまが必要だったのでしょう。
たぶん、それは、八幡神が武運の神さまだから!
論より証拠(!?)戦い専門の神さまはやっぱり頼りになる(!)というお話を最後にひとつ。
時は平安時代後半、現在の東北地方、陸奥国に赴任した源頼義(988-1075)が、
土着の有力豪族の安倍氏と戦った前九年の役(1051-1062)。
長い長い戦を制したのは、源頼義でした。
彼を勝利に導いたのが八幡神であり、
この時、父・頼義と共に戦った長男義家(1039-1106)は、河内源氏の祖となり、
この血筋から源頼朝や足利尊氏が輩出されることから、
前九年の役の勝利は、
河内源氏が武家の棟梁の証・征夷大将軍を名乗る根拠に(!)なっていった・・・と言われています。
通称「府中八幡」。
こちらは、甲府市の金手駅そばにある”山”八幡宮。
平安時代後期、甲斐国にやってきた源義清が建てた八幡宮を勧請して、現在の甲府市愛宕町に。
甲府城築城の時、再びお引越しして、築城守護の神社になります。
その他、韮崎の武田八幡宮、石和八幡神社、山梨市の大井俣八幡神社などなど。
本当にたくさん。
こんなにたくさんの八幡さまがいらっしゃるのも、
源氏が勢力を広げるたびに、守護神として八幡宮を建立したからという説あり。
とってもうなずける話ですが、どうしてそんなに八幡さまが必要だったのでしょう。
たぶん、それは、八幡神が武運の神さまだから!
論より証拠(!?)戦い専門の神さまはやっぱり頼りになる(!)というお話を最後にひとつ。
時は平安時代後半、現在の東北地方、陸奥国に赴任した源頼義(988-1075)が、
土着の有力豪族の安倍氏と戦った前九年の役(1051-1062)。
長い長い戦を制したのは、源頼義でした。
彼を勝利に導いたのが八幡神であり、
この時、父・頼義と共に戦った長男義家(1039-1106)は、河内源氏の祖となり、
この血筋から源頼朝や足利尊氏が輩出されることから、
前九年の役の勝利は、
河内源氏が武家の棟梁の証・征夷大将軍を名乗る根拠に(!)なっていった・・・と言われています。
源氏を勝利に導いた八幡神は、どのように頼義を助けたのでしょうか?
八幡さまのお話はもう少し続きます。よろしければ、お付き合いください。
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