歴タビ日記~風に吹かれて~

歴タビ、歴史をめぐる旅。旅先で知った、気になる歴史のエピソードを備忘録も兼ね、まとめています。

小谷城落城~三姉妹は?

2022-05-29 17:05:35 | 滋賀県

少女の頃、永井路子さんの小説が、よく映像化されていました。

 

中でも、お市の方は定番ヒロイン・・・

 

織田信長の美しい妹は、政略結婚で、浅井長政のもとへ嫁ぎ、

三人の姫、ふたりの男子に恵まれます。

ところが、婚家と実家との間で戦になって、居城・小谷城は落城・・・

 

このとき、お市様は織田家の家来に迎えられ、兄の元へ引き取られ、

織田家の重臣・柴田勝家と再婚まで、

三人の姫と共に、織田家・親族の家で暮らした・・・と思っていました。

 

(JR北陸本線 河毛駅にて)

 

ところが、現地では違う話を知ったのです!

そもそも、お市様と三姉妹の小谷城からの脱出についての史料は

太田浩司氏によると、「良質なものは何も残っていない」のだとか。

 

長浜市平塚町。

小谷城から、車で10分ほどの地に、実宰院(じっさいいん)という

曹洞宗の寺があります。

 

雨の中、静かな集落にある寺を訪ねました。

 

お市様が嫁いだ浅井長政には姉がひとりいました。

長政は正室の子ながら、姉は父と侍女との間の子どもらしく・・・

19歳で出家、得度した姉上の名は、昌安見久尼(しょうあんけんきゅうに)。

 

小谷城から南へ2㎏ほど離れた、平塚の実宰庵(じつさいあん)で過ごします。

(昭和29<1954>年、「実宰庵」から現在の実宰院へと、名を変えました。)

なんと得度から、おそらく亡くなるまでの43年ものあいだ!

 

この姉上・尼様が寺を中興した30年後、

1573(天正11)年、織田信長の総攻撃を受け、小谷城は落城・・・

 

 

平塚での伝承は・・・

落城の前夜、弟・長政は、姉・昌安見久尼を頼りに、

妻・お市と3人の娘を実宰院へと逃がしました。

 

そこへ織田方の残党狩りがやってきます。

急なことゆえ、尼様は、とっさに三人の幼子を、

ご自分の法衣ですっぽりと隠しました。

 

なんと、この尼様は、5尺8寸(約176センチ)、体重28貫(約105㎏)!

泥棒も驚いて逃げ出すほどの巨体でした。

 

それゆえ、法衣も2反の布で作られており、

幼子三人くらい、分けなくすっぽりと包み込めたのでしょう。

 

こうして、三姉妹は難を逃れ、伯母様の元で成長したらしいとのこと。

太田浩司先生も、この寺に三姉妹が身を寄せていたと

「考えたい」と、書かれています。

 

この地区では、今でも尼様が始めたという、

「おみきの行事」が続いているそうです。

 

毎月正月以外の1日、村の女性達が集まり、

集落を流れる川の掃除をし、氏神様にお参りをします。

神前で互いの健康と月の無事を祈るのです・・・

 

尼様が、三人の姫様と村の子ども達が仲良くなる機会を作りたくて、

この行事を始めたのかも」とも言われています。

 

残党狩りにも動じない、大柄な女性は、

おおらかに、父を失った姫様方を包み込んでくださったのでしょう。

 

 

もしかしたら・・・

当時の女性としては並外れて大柄だったこと、

実母の身分が低かったこと、・・・

 

そんなことから、若くして出家を決めたのかもしれません。

それだけの決断を早くにできた、その人は、

きっと心優しく、情にあふれた女性だったはず・・・

 

そんなことを思いながら歩く実宰院は、

静かに、雨の中たたずんでいました。

小谷のお城から運ばれたという、古い門と共に。

 

この後、北荘城で、お市様が柴田勝家と共に自害なさった後、

身寄りのなくなった三姉妹を、しばらく預かったのも、

見久尼さまだったという伝承もあるそうです。

 

 

参考:「みーな びわ湖から」97号 2007年11月発行 長浜みーな協会

    太田浩司『浅井長政と姉川合戦―その繁栄と滅亡への軌跡』サンライズ出版


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