本日は、小谷城城主・浅井長政自刃の地と、
お人柄についてのエピソードをまとめます。
よろしくおつきあいくださいませ。
小谷城・本丸に向かって歩いていると、その直前に、右に折れる道があります。
(冒頭画像)
ここをずっと下りていくと、「赤尾美作屋敷跡」。
本丸へと続く登城ルートから、少し外れているせいか、人気がありません。
長政さまは、ここで自刃されたそうです。
家臣の屋敷って・・・?
なぜ、本丸ではないの?
天正元(1573)年9月1日、北近江を支配していた、浅井家の居城・小谷城は、
織田信長に攻められ、落城します。
この前日には、長政の父・先代当主・浅井久政が自刃していました。
本当は、この段階で、信長の攻撃は終了、
長政は和議によって降伏することになっていたのです。
ところが・・・
信長側は、重臣の赤尾清綱と浅井石見を生け捕りにしたのです。
赤尾清綱は、自刃の地となった、赤尾屋敷の主でしょう。
一番、本丸に近い地を与えられている、重臣中の重臣ですから・・・
長政さまが、お怒りになるのも、もっともなこと。
黒金門から討ってでるも、信長軍に攻められ、
本丸は、既に占拠され、戻ることができません。
仕方なく、本丸をあきらめ、この地・赤尾屋敷へと向かい、
自刃したのだそうです。享年29歳。合掌。
以前、NHK「英雄達の選択」で、磯田先生が浅井長政の人柄を絶賛しておいででした。
「自分が領民だったら、絶対に浅井長政がいい。」と。
(「戦国武将としては、信長がおもしろいけれど」ともw)
そんな長政さまの最期の想いが綴られた、書状(手紙)が残っています。
普通の手紙より小さな(9.8cm×23.3cm)紙切れに書かれていることが、
いよいよ最期の迫った、城内の混乱をうかがわせます。
宛名は、家臣・片桐直貞(ナオサダ)。片桐且元の父です。
「籠城を続けていたが、既に城は本丸を残すのみ・・・
家臣も裏切って、皆、去って行った。そんな中、残ったのは無二の存在。
申す言葉もないし、手紙でも現せない。謹んで申し上げるのみ」と・・・
討ち死にしたり、捕らえられたりした家臣もいたでしょうが、
裏切ったものも多かったのでしょう。
そんな中、片桐直貞は残ってくれた・・・
長政さまは、ご自身が裏切りなど考えられない、まっすぐなご気性・・・
落胆の中、直貞は、ひとひらの救いに思えたのかもしれません。
でも、息子の且元(カツモト)は、大阪の陣を前に、
豊臣秀頼方から、徳川家康に寝返っていますよねw
息子として、父の生き方に想うところがあったのでせうか・・・
さて、この手紙が、なぜ残っているのか?
戦場ですよ、落城ですよ。
他にも、長政さまが、したためられた書状はあるそうですが・・・
なぜ、残っているのでしょう?
火打ち袋に入れて残った、伝えられる手紙もあったとか。
つまりは、肌身離さず持っていた家臣が、生き残ることができ・・・
さらに、それを子々孫々に伝えたということなのです。
本来だったら、落城した城主の手紙なんて、何の役にも立ちません。
それでも、現代まで、400年以上も伝えられている・・・
太田浩司先生は
「小谷籠城と浅井氏への無二なる中世は、江戸時代以降の湖北人にとって、
何よりもまさる勲章だった」(156頁)と書かれています。
長政さまの人柄が偲べるのではないでしょうか・・・
余談。
片桐直貞宛の「浅井長政最期の感状」は、お茶の水図書館に所蔵されています。
これは、徳富蘇峰のコレクションなのだとか!
すごいっ!
「國民新聞」の主宰者、近代を代表するジャーナリスト!
弟の蘆花は小説家・・・徳富兄弟と言えば、ビッグネーム!!
そちらにも、大興奮でございましたw
おつきあいいただき、どうもありがとうございました。
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参考:
太田浩司『浅井長政と姉川合戦 ーその繁栄と滅亡の軌跡ー』サンライズ出版
本記事の「浅井長政最期の感状」は、太田先生が書き下された文章(153頁)を
もとに、現代文に訳しました。
その他、案内板や現地のパンフレットなどを参考にまとめましたが、
不備な点は素人のことと、どうぞお許し下さいませ。