![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/15/5cb7545d8d421825859968076bbaf77c.jpg)
東京都港区の慶應義塾大学・三田キャンパスに
創立者・福澤諭吉を記念する「慶應義塾史展示館」がある。
建物はかつての図書館だ。
近代日本を代表するであろう「曽禰中條建築事務所 」が手がけただけあって
今も変わらず、堂々と美しい。
ここに無料で入館でき、慶應義塾にまつわる歴史を知ることができるのだ!
先日、「建築プロムナード──建築特別公開日」 にあわせ出かけきた。
(詳しくは本家ブログ→「建築さんぽ~三田編」)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/f1/5374bba58a466b4bbc8bb63d5d2ea090.jpg)
今、ここに「深紅の大優勝旗」が展示されている。
夏の甲子園、「第105回全国高校野球選手権大会 」の優勝旗だ。
横浜市の塾高こと慶應義塾高校から移ってきている。
本当に深紅の優勝旗って真っ赤なんだね~
初めて見たわ❤
この夏、自由な髪型で、いわゆる高校野球の「常識」と
一線を画した「塾高」こと慶應義塾高校が優勝した。
のびやかな彼らの姿に、多くのファンが熱狂したことは記憶に新しい。
塾高ナインの活躍に胸躍らせた夏の日々が蘇る・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/9b/4c992e921d3ec205cb99bf2db65af204.jpg)
その一方で・・・
ここには学徒動員で亡くなった戦没学生についての
アーカイブを見ることもできる。
まずは、当時の慶應義塾の置かれた状況を
展示のテキストから引用する。
ーー福澤(注:創立者・福澤諭吉)を原点とする義塾の教育方針や
福澤思想は、戦時体制下で徐々に不適切とみなされるようになる。
国による諸学校の改廃が勧められ、塾生は『学徒出陣』や勤労動員、
学童疎開に翻弄された。
キャンパスは空襲によって廃墟と化した。
義塾は存立の危機に陥り、多くの塾生(注:学生)・塾員(注:卒業生)が
命を落とした。ーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/46/362ed47c45c8e4b9db36bd148458cdc5.jpg)
慶應からの学徒出陣兵といえば、
特攻隊員・上原良司がよく知られているだろう。
『新版きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記』(岩波文庫)に
「所感」「遺書」他が収められているからだ。
四半世紀ほど前、当時ファンだった劇団四季ミュージカルの「李香蘭」で
上原の「明日は自由主義者が一人この世から去っていきます」という
「所感」の言葉が使われていたことを鮮明に覚えているだ。
上原良司、1945年5月11日、沖縄方面で特攻死、享年22歳。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/d6/68b1fe5378466b73e0611fe002a54fe2.jpg)
そして、わたしが1番忘れられないのは塚本太郎。
人間魚雷回天による特攻戦没者である。
(↑は塚本が自分で編集したアルバムとのこと)
彼は慶應義塾の予科(現在の教養過程)に在学中、
水泳部水球部門のゴールキーパーとして活躍した。
未確認情報だが、水球部には、塚本の胸像が今もあるそうだ。
塚本に惹かれたのは、山口県周南市・大津島の「回天記念館」で
その肉声を聞いたからである。
学徒出陣し海軍入隊の直前、帰省すると、
父が銀座に持っていたスタジオで録音されたものだという。
前半は昔を懐かしむ優しい息子であり、優しい兄ながら
後半は勇ましい軍国調の言葉となる。
どちらも塚本の真実の姿なのだろう。
まだ二十代の若者、心揺れて当然だ。
塚本は、長男なので本来だったら特攻志願はできないのだが、
血書を上官に提出し、認められたのだそうだ。
熱い熱い志しに突き動かされたのだろうか。
あの少し高い声の塚本さんの声は、今も忘れられない。
その後、呉市の大和ミュージアムでも塚本の録音が流れており、
涙が止まらなくて困った。
1945年1月21日 西カロリン諸島ウルシー環礁で塚本太郎 特攻死
享年21歳。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/5b/48079605fc68e17c117d385a31c4bb6b.jpg)
去年、沖縄で遺骨収集作業中に
慶應の「ペンマーク」がついた万年筆が発見された。
ここで展示されると聞き、ここに来ている。
持ち主は特定されたのだろうか・・・
展示「慶應義塾関係戦没者数」によると「学徒出陣」による戦没者は
387人だという。
慶應義塾全体では、2231人にも上る。
学徒出陣によって出陣猶予が解かれ、
20歳以上の学生も出征しているわけだ。
今年優勝した高校生は15歳から18歳。
出陣学徒と、さして年齢が変わらない。
昭和9年の日吉開設以来、太平洋戦争終戦まで、
塾高の校舎は慶應義塾の予科の校舎として使われていた。
塾高生も、出陣学徒も、どちらも同じ校舎で学んだ若者なのである。
若者らしい夢を抱きながら、生きて帰れなかった出陣学徒、
今もウクライナで、ガザで、
同じことが起きていると思うとやりきれない。
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それだけに深紅の大優勝旗を持ち帰った
塾高生がまぶしい。
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おつきあいいただき、どうもありがとうございます。
間違いや勘違いなどあることと存じますが、
個人のブログゆえ、どうぞお許しくださいませ。
参考:
●阿久澤武史『キャンパスの戦争 慶應日吉 1931-1949』
慶應義塾大学出版会
●阿久澤武史 都倉武之 亀岡敦子 広通広通『日吉台地下壕 大学と戦争』
高文研