傾聴。
最近、この言葉が引っ掛かる。
「人の話を聴く」
実は、簡単なようでできない。
何故か?
「他人の話を聴くよりも、自分の話をしたいから」である。
昼休み。
学校でのこと、家でのこと、仕事のこと、ほんのちょっとしたことを、昼食を食べながら話す。
「昨日、○○のドラマ見てね、うちの娘が…」
と、まだ最後まで話さないのに
「あー、見た見た!○○ってさ、私も好きで、今度映画に行くんだよ。でね、うちの息子がねー(延々)」
話始めた人の、娘の話はどうなった?
ここ数年、こういった場面を多々みてきた。
よって私は、努めて人の話を最後まで聞いて、言葉にして相槌を打つようにしている。
もっとも、きちんとできているかどうかは、わかんないけど…。
楽しい話題ならともかく、愚痴や弱音など、負のエネルギーが多い時は特に気を付ける。
相手の話を一旦全部聞いて、そこから受け入れる。
アドバイスが欲しいなら、私なりに考えて言葉を選び相手に伝えるが、ただ聞いて欲しいだけで落ち着くことが大半なことが多いから、その時は余計なことを言わない。
「大変やったね」
「よく頑張ったやん。だから今、話せるんや」
「もうちょっとやね。ここまで来たんだ」
などなど。
言葉にして吐き出してすっきりするのに、ちょっと弱音が出ただけなのに、余計なことを言う人って非常に多い。
それも根底にあるのは「自分の話を聞いて欲しい」から。
弱った人の、マイナスな言葉なんて聴いてられるかよっ!なんだろうが、その人が言葉を吐き出して、聞いている人がいるというだけで救われるなんて、考えないのだろう。
別に他人の言葉なんて欲してない。
聞いて欲しい。
ただそれだけなのに。
別の目線からの言葉が欲しいなら、ちゃんと自分で「言葉が欲しい」って言うだろう。
聴く側としては、たまにその口を塞ぎたくなるほど、聴きたくない時もある。
なかなか難しい。
言葉を吐くということは、自分一人しかいない時は、基本的にしない行為だ。
たとえその言葉がどんなに醜くても、どんなに卑猥なものであっても、その言葉を向けた対象がある。
他人に聞かれたくないときなど、一人で言葉を吐くこともあるだろうが、やはり対象の人がいたり、時には自分に向けてだったり。
まずは言葉を聴いてから、その人が何を求めているのかで、自分ができることをしていきたい。
支離滅裂になってしまったが、人間、誰でも「自分の存在を他人に認めてもらいたい」という欲求がある。
その人を否定せず受け入れて、そこから言葉を出していけたらいいなって…。
だから、発する言葉は丁寧に聴いていきたい。
それはきっと、自分がそうされたいからだろうな…。