下記の記事は婦人公論.jp様のホームページからお借りして紹介します。(コピー)です。
今年5月半ば、新型コロナウイルスが猛威をふるうなか、母・みよさん(享年92)が逝去。緊急事態宣言が出され、さまざまな制限があるなかでの“お別れ”でした。しかしそこには、思いがけず大きな気づきがあったといいます(構成=福永妙子 撮影=清水朝子)
母のそばにいることも叶わず
母をショートステイのつもりで高齢者専門病院に預けたのは、今年1月半ばのことでした。5年前に亡くなった父が、最後の3年半を過ごしたよみうりランド慶友病院です。
母は10年ほど前から認知症の兆しが表れ、ゆるゆるとしたペースで症状は進んでいました。父の入院以降ひとり暮らしになった母でしたが、昔、うちに住み込みでお手伝いをしてくれていた女性の「何か手伝えることがあれば」との申し出をありがたく受け、助けを借りることに。週末はきょうだいで泊まりのシフトを組み、加えてデイサービスを利用するなど、いろいろな手立てでやりくりしつつ、母の自宅での暮らしを支えてきました。
けれど、この家での母の生活はそろそろ難しくなるかもしれない。そんな思いもあり、今年のお正月は親戚を集め、母との時間を過ごしながら新年を迎えることにしたのです。後で考えれば、これが母と迎える最後のお正月になったわけで、いいタイミングだったのかもしれません。
母は、子ども時代の自分、つまり5人きょうだいの「末っ子みよちゃん」に戻っているようで、娘の私は母の「お姉ちゃん」、あるときは「おばあちゃん」に。私の弟たちは母の「お兄ちゃん」になったりするのですが、みんなに囲まれて機嫌よく、元気な顔を見せていました。
母は昨年末から足元がおぼつかなくなっていたので、転倒など家の中での事故が心配でした。冷え込む冬は、血圧も気がかり。そこで「寒い時期だけでも」と、お正月ムードが落ち着いた頃にショートステイを利用することにしたのです。
コロナ問題が深刻化したのはその後のこと。母を自宅に戻すタイミングを失っていた2月末、軽い脳梗塞を起こし、それを機に体が少しずつ弱っていきました。そんな母のそばについていてやりたいと思いましたが、コロナ感染対策で面会禁止に。ついに母を見舞うことさえできなくなりました。
今だからこそ、新しい試みを
私には兄が1人、弟が2人います。上の弟はアメリカのロサンゼルス在住。彼は母が脳梗塞で倒れた直後にロスから駆けつけましたが、しばらくして母の状態が落ち着いたのでアメリカに戻りました。けれどその後すぐに、アメリカでコロナの感染が拡大して。日本も海外からの入国を制限し、弟の再度の帰国は難しくなっていました。
日本にいる私にしても、母の状態を知るすべは、病院との電話でのやり取りだけ。会えないというのは何とも不安なもので、担当医や看護師長さんから話をうかがっても、「とりあえず大丈夫そうだ」といった感じで、常にモヤモヤしたものを抱えていたんです。
そんななか、病院に“リモート面会”を提案したのは、ロスの弟でした。モバイル端末をオンラインでつなぎ、画面を通して母に面会することはできないか、と。
その報告を弟から聞いて慌てましたね。今、病院は院内感染対策でピリピリムード。目の前のことだけでも手いっぱいの時期に、そんなワガママな申し出は迷惑極まりないはず。対する弟の言い分は「今だからこそ、やるべきじゃないか」。ここで姉と弟のバトルが勃発しました。
けれど、ありがたいことに病院側は弟の提案を院内で検討し、実現してくださったのです。LINEのグループビデオ通話機能を使って病室とつなぎ、ベッドで寝ている母とリモート面会が実現しました。
私のスマホ画面に映った母の反応は鈍いけれど、ちゃんと生きている。動いている。その姿を実際にこの目で見るのと見ないのとでは、何と大きな違いがあることよ。「母さ~ん、佐和子だよ」と呼びかけながら、心から安堵しました。
驚いたことに、病院からは「こんな時だからこそ、新しい試みに取り組むことが必要でした」と言っていただいて。後日、同じ病院にご両親を預けている友だちからも、「私もリモート面会をさせていただいたの。嬉しかった」と連絡があり、実行してよかったと思いました。
生命が失われる過程を最期の瞬間まで
その後、母の容体は徐々に悪くなり、ついに病院から「すぐに来てください」との知らせが。すぐさま東京に住む下の弟が駆けつけ、続いて私が行きました。このときは家族が病室へ入ることを許されたのです。酸素マスクの中で激しい呼吸をする母。お医者さまによれば、「心臓が生命維持のために必死になって働いている。体の反応なので、お母さまにつらいという感覚はないはず」とのこと。
意識はなくとも耳は聞こえているといいます。「父ちゃんのところに行くとまた大変だから、逝くのはゆっくりでいいよ」などと声をかけました。ロスの弟もスマホのビデオ電話で「母さ~ん」と呼びかけます。返事はありませんが。
激しい呼吸が次第に静かなものに変わり、間遠になり、「これで最後か」と思ったら、また小さな呼吸が……。息をひきとるまでの7時間あまり、初めの激しい呼吸から、最後のひと呼吸に至るまで、私と下の弟2人で看取ることができました。
父が亡くなったとき、臨終に間に合わなかった私はずいぶん泣いたものです。ところが、もっと悲嘆にくれてもおかしくないと想像していた母の最期に、私はさほど涙を流しませんでした。母の死を受け入れられない、というほどの激しいショックは、このときも、今もありません。
なぜなのか……。母の生命が刻一刻と失われていく過程を最期の瞬間まで見届けたことで、時間をかけてその「死」を自分に納得させていく作用が働いたのではないでしょうか。大切な人の死に立ち会えなかった人はたくさんいます。それを思えば心苦しいのですが、「最期を看取る」ことの意味を実感したのも、確かです。
母が亡くなった5月は移動や人の集まりに制限がかかった緊急事態宣言下でしたから、私たちきょうだいとその家族など、本当に近しい9人が参列するごく小規模な葬儀を執り行いました。
ロスの弟はなんとしても参列したいと言いましたが、成田空港に到着したとしても、PCR検査と2週間の自主隔離が必須。それだけ長い時間足止めを食らうとなれば、葬儀への参列は不可能です。
そこで、ご住職に頼んでお寺の本堂にパソコンを持ち込み、葬儀を中継することにしたのです。弟はリモートで参列。ロス側を映し出すパソコンの画面には、喪服を着て数珠を握り正座した弟とその妻、息子の姿が。弟一家ははるか遠く離れた場所から、ご住職の読経に手を合わせ、出棺までしっかり見届けることができました。
高齢化時代の葬儀では、大切な人を見送りたくとも、参列するのが体力的に難しいという人は多いはず。しかも、暑かったり寒かったりで、これも体にこたえる。その意味でも、無理をせずにお別れができるのはありがたいことです。前例のない新しいことに対し、私のようなアナログ人間はつい腰が引けてしまうけど、一度やってみれば「あら簡単、これいいわ」となるわけで。「新しい生活様式」のひとつとして、ネットを活用した葬儀もあり、ではないでしょうか。
常に父とともにあった母の得難い人生
母のこれまでを振り返れば、すべてが父中心に進む家のなかで、父のワガママを常に「はいはい」と受け止めてきました。父と別個の人生なんて、母にはありません。私が母と2人でどこかに出かけた記憶もごくわずか。「お母さんを借りて出かけるから」と言えば、「困る」と父。「借りる」という感覚がそもそもおかしいのですが。
見かねた知り合いが、父抜きの食事に母を誘ってくれたときのこと。父がすんなり許すはずはなく、実現のために画策しました。弟が父を誘って食事に連れ出す。その間、私は母を連れて知人の待つレストランへ、という算段。ところが食事のさなか、父がやってきたのです。「迎えに来た。どうせ同じところに帰るのなら、タクシーを2台使うのはもったいない」。知人とおしゃべりする余裕もなく、食事もそこそこに、母は父に拉致されるように帰宅したのでした。
ただ、絶対君主の父に振り回されて母の人生が不遇だったかといえば、それは違う気がします。父は母がいないと機嫌が悪いぶん、どこへでも母を連れていきました。海外旅行では珍しい場所に行き、面白い人たちにもたくさん会った。なかなかできない得難い体験もいろいろあったはずです。
また、自己中心な父のそばにいたおかげで、はたから見た母の点数は高かった。「かわいそうなみよちゃん」「耐えてよく頑張っている奥さま」というわけで、みんなから可愛がられていました。母にも欠点はあったはずだけど、父の毒の前に、すべて消えて見えない。黒の隣にいればグレーが明るい色に見える、というような(笑)。そうした役得もあって、父以外の人たちからは本当に優しくされた母の人生でありました。
その母が認知症に……。父が高齢者専門病院に入院した段階で、母は自由な時間を手に入れたはずでした。私は前々から、いつか母と旅行しよう、温泉にも連れていこう、一緒に買い物もしよう、と考えていた。けれど、そのときすでに母の認知症は始まっていて、父が亡くなったら実行しようと思い描いていたことは、すべてできなくなっていたのです。それが何より切なくて……。私自身も、初めて訪れるはずだった母と娘の時間を奪われた気がして悔しかった。ただ、なったものはしょうがない。
それまでの抑圧の反動で、認知症になった母が攻撃的な性格になるのではと危惧しましたが、そういうことはなく、パッパラパ~と突き抜けた感じに。もう父のごはんを作らなくていい、面倒を見なくていい。自由はきかなくとも縛られていたものから解放され、のびのびした時間を手に入れたのでしょう。
そうなると、私が「母さん、たまにはごはんを作ってよ」と頼んでも、「エッ、私が?」。そして「お手洗いに行ってくる」と言って戻ってくると、「ふふふ~ん」と鼻歌まじりのすまし顔でソファに座ったまま動かない。再び、私「ごはん作って」、母「エッ、私が? お手洗いに行ってくる」……その繰り返し。こりゃ、ダメだ。(笑)
変わりゆく母を受け入れられず、イライラした時期もありました。それは、まだ「頼れるちゃんとした母親」として見ていたから。やがて症状が進み、「これに着替えて」と服を差し出すと、パッと取って、「ぷうっ」と言って私に投げつけたり、セーターを脱ぐのに顔のところで引っかかった格好のまま動かず、ずっと立っていたり。そんな母を、自分がケアする側なんだと自覚すれば、幼子に対する母親のような気持ちになりました。
母は明るくボケていき、こっちが笑っちゃうようなことをしてくれる。親のことをこう言うのもなんですが、実にチャーミング。その可愛らしさが介護の大変さを救ってくれました。
死を知らせる作業にも意味がある
父の死の前に認知症になってしまった母からは、「自分が死んだときはこうしてほしい」といった話を聞いたことはありませんでした。
父のほうは生前、「俺が死んでも通夜、葬式はするな。香典や花も受け取るな」と口すっぱく言っていましたね。とはいえ現実にはそうもいかず、その死はマスコミを通してみなさんに知られるところとなり、小さな葬儀を執り行いました。次々と届く花、差し出される香典を突き返すことはできないし、受け取ったからにはお返しをするのが礼儀。香典返し、お悔やみの言葉を寄せてくださった方々へのお礼状の発送など、父の意に反してるなあと思いつつも、こなしたのでした。
母が亡くなったときは、コロナ禍での葬儀であり、可能な限り小規模なものにするということはすんなり決まったものの、問題は母の死を親戚以外の誰に知らせるかということでした。父が亡くなってから、母を心配して「お母さま、お元気?」と電話をくださる方、季節の果物を送ってくださる方などが大勢いらっしゃったのです。
せめてその方たちには知らせなければと作業を始めたところ、これがとにかく大変。連絡先がわからない人もいて、古い年賀状や手紙の類、品物の送り状などから探偵のごとく調べるわけです。電話で知らせるにも、相手はご高齢の方が多い。「まあ、佐和子ちゃん、ご無沙汰してます。お元気?」から始まり「コロナ、どうしてらっしゃる?」と続き、そのまま話していると1時間近くかかることも。1日に4件もこなすと、もうクタクタ。それが何日も続きました。
ただ、回数を重ねるにつれ、これはすごく大事なことだと思うようになったのです。「いつも送っていただいたチョコレート、母は喜んで食べていたんですよ」とこちらが言えば、「そうそう、昔、こういうことがあったのよ」と話をしてくださる。ある方からは、「主人が亡くなってから世間とは無縁な生活をしておりましたけど、私のことを思い出し、知らせてくださって、本当にありがとう」と言われました。
親の人間関係なんて、知っているようで知らないもの。私には「誰? この人」という人も、過去をたどることで「母とはそんなに古くからのつき合いなのか」などと知ることができ、母にとっていかに大事な人かがわかる。母の人生における人とのかかわりの一端を知ることになるのです。
年をとるにつれて、世間とのコンタクトは少なくなりがちです。高齢者は社会からのリタイア者という見方をされてしまい、その人自ら、これまで巡り合った人々との交わりをキッパリ断ってしまうこともある。それを今さら復活させようというのではありません。ただ、放っておけば忘れるにまかせて終わってしまう人と人との関係を、母の死の報告により「つなぐ」ことができたのではないかと思うのです。
葬儀にしても、参列することで久しぶりの顔に会える。みんなをつないでくれているのは、葬儀の主人公である故人なんですね。
亡くなったことの知らせも、香典返しやお礼状も、面倒くさいけれど、そこには意味がある。死んでなおの母の教えですね。そこに気づいたのも、私自身、歳をとって、人生の残り時間が見えてきたからかもしれません。
父を送り、母を看取り、では私の場合は……。そんなのわかりません。これまで目の前の危機をどう処理するかしか考えてこなかった私。どう倒れるか、どうボケるかも予測がつかないのですから。あっ、片づいていない部屋はどうしよう。それを考えると息苦しくなりますが。
構成: 福永妙子
出典=『婦人公論』2020年8月25日号
エッセイスト、作家
1953年、東京生まれ。慶應義塾大学文学部西洋史学科卒。エッセイスト、作家。99年、檀ふみとの往復エッセイ『ああ言えばこう食う』で講談社エッセイ賞、2000年、『ウメ子』で坪田譲治文学賞、08年、『婚約のあとで』で島清恋愛文学賞を受賞。12年、『聞く力――心をひらく35のヒント』が年間ベストセラー第1位、ミリオンセラーとなった。14年、菊池寛賞を受賞。