嘱託殺人事件から,安楽死を考える。--『不可能は,可能になる』古田貴之著から得た教訓-その1
ALS(筋萎縮性側索硬化症)の女性患者に薬物を投与し殺害したとして、嘱託殺人事件で二人の医師が逮捕された。彼らは,犯罪死と疑われずに高齢者を殺害する方法を紹介する電子書籍を出版したり,ツイッター上で安楽死について肯定的な持論を展開するなど,安楽死肯定論者であったという。
なお,報道によると 安楽死を依頼した女性(51歳)は,生きる意味がないとして,薬物などによる「積極的安楽死」を望んでいたという。
この事件をきっかけに,長く本棚に置きっぱなしだった『不可能は、可能になる』PHP刊 古田貴之著 を読み返してみることにした。古田さんは,十四歳の時に,脊髄をウイルスに侵される難病にかかり,医師から「余命は八年。運が良くても一生車椅子だろう」との宣告を受け,絶望の淵に立たされた。だが,「すぐに死ぬわけではないんだ」と考え,前途に光明を見いだしたという。そして、古田さんは,難病を克服し,千葉工業大学未来ロボット技術研究センター所長として,ロボットクリエーターを自称し第一線で活躍しておられる。
そんとき,タイミングよく7月31日放送のNHKラジオ「高橋源一郎の飛ぶ教室」のゲストに古田さんが招かれ,高橋さんのやりとりを通じて,自身の生き様,思いを語られた。その場面を聞き逃しサービスで聴き直したりして,“生きがい”,“死”について,改めて自分なりに考えてみた。
まず,古田さんが十四歳の時に経験した「生死をさまよう病」の状況を『『不可能は、可能になる』から,抜き出してご紹介する。
▼『不可能は、可能になる』 2ページ
僕が生死をさまよう病を経験したのは十四歳のときでした。
「鉄腕アトム」のお茶の水博士や「マジンガーZ」の兜博士に憧れ、巨大ロボットをつくる人になりたい……。そんな夢を抱いていた少年時代は、十四歳のある日、暗転しました。
突然、歩くことができなくなったのです。
あの日、僕は死を身近に感じたことで、そう考えるようになったのです。このままベッドで寝ているわけにはいかない -。僕は焦りました。
しかし、医師の宣告はあまりにも厳しいものでした。
「余命は八年。運が良くても一生車椅子だろう」
「余命は八年?」
「命が助かっても、一生歩けない?!」
その衝撃は、言葉にできないくらい大きなものです。僕の病気は、
しばらくの間は絶望に打ちのめされました。
治る病気だと思っていたけれど、僕はもう駄目なんだ---。
▼『不可能は、可能になる』 p84-p85
入院した病室では、昨日まで生きていた人が、目の前で亡くなっていきます。
六人部屋の病室で、向かい側の三人は末期ガン、隣の二人は意識を失ったまま眠っている植物状態です。
半年後には、僕を除く全員が亡くなり、入れ替わりました。
人生とは何だろう -。
僕はベッドに横たわり、天井を眺めながら考えました。
入院する前の僕は、日本の暮らしに違和感を感じたまま中学生になり、母から「起きなさい」と言われて歯を磨き、ご飯を食べ、学校の始業時刻に間に合うように家を出る。
放課後の塾が終われば一人で遊ぶ。
毎日がその繰り返しでした。
【特別インタビュー】千葉工業大学 未来ロボット技術研究センター・fuRO 所長様<前編>
千葉工業大学未来ロボット技術研究センター 所長 古田 貴之さんの略歴
新たなロボット技術・産業の創造を目指し、企業との連携を積極的に行い、新産業のシーズ育成やニーズ開拓に取り組む。2002年にヒューマノイドロボット「morph3」、2003年に自動車技術とロボット技術を融合させた「ハルキゲニア01」、2005年にロボット操縦システム「WIND Master-Slave Controller」を開発、いずれも産学連携の成果である。また、SUICAの自動改札口や自動車、携帯電話のデザイン等で著名な工業デザイナー山中俊治氏(リーディング・エッジ・デザイン)との共同研究により、ロボットのプロダクトデザイン研究も行う。2010年9月に著書「不可能は、可能になる」をPHP研究所から刊行。