1945年8月9日に,長崎市に原子爆弾が投下された。原爆による死者は73,884人,重軽傷者は74,909人におよび,爆心地から半径2km以内は,焼け野原と化した。
「長崎原爆の日」を前に,長崎医大教授永井隆著『長崎の鐘』,『この子を残して』の二冊を読み返し,改めて「原発許すまじ」の思いを強めた。
長崎の鐘
『長崎の鐘』は,1949年1月刊行の永井隆氏が自らの被爆体験をつづった手記である。
小学生の頃,映画「長崎の鐘」をみた記憶がうっすらとある。
“長崎の鐘”について,9ページで次のように思いをつづっている。
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この本の題名となった浦上天主堂(うらかみてんしゅどう)の鐘は、あのクリスマスに煉瓦のくずれた中からつり出され、地面近くに仮吊(かりづ)りのまま鳴らされてきましたが、それから丸三年たった今、新しい鐘楼が建ち、このクリスマスから中空高くなり出すようになりました。この平和の鐘が一日もかかさず世々の末、世界の終りの日まで鳴り続きますよう祈り且つ努めたいものです。------
また,186~187ページでは,母を亡くした我が子,茅乃(かやの)と誠一を慈しみ,そして,蘇り「カーン、カーン。」なる鐘の音に託し,二度と戦争がないようにと念じ訴えている。
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ちちろ、ちちろ、と虫がなく。抱き寝の茅乃(かやの)がしきりに乳をさぐる。さぐりさぐつて父だと気づいたか、声をころして忍び泣きをはじめた。泣きながらやがてまた寝息にかわる。私だけじゃない。この原子野に今宵(こよい)いま幾人の孤児が泣き、やもめが泣いていることであろう。
夜は長く眠りは短い。うとうとと浅きまどろみの夢もいつか白みゆく雨戸のすきま。
「カーン、カーン、カーン。」
鐘が鳴る。暁(あかつき)のお告げの鐘が廃墟となった天主堂から原子野に鳴りわたる。
市太郎さんが岩永君ら本尾の青年を指図して煉瓦の底から掘り出した鐘は五十米の鐘塔から落ちたのにも拘らずちっとも割れていなかった。クリスマスの夕にようやく吊り上げて、岩永君らが朝昼晩、昔ながらの懐かしい音を響かせる。
「主の使いの告げありければ。」誠一も茅乃も跳ねおきて、毛布の上に坐りお祈りをささげる。
「カーン、カーン、カーン。」澄みきった音が平和を祝福してつたわってくる。事変以来長いこと鳴らすことを禁ぜられた鐘だったが、もう二度と鳴らずの鐘となることがないように、世界の終りのその日の朝まで平和の響を伝えるように、「カーン、カーン、カーン。」とまた鳴る。人類よ、戦争を計画してくれるな。原子爆弾というものがあるが故に、戦争は人類の自殺行為にしかならないのだ。原子野に泣く浦上人は世界にむかって叫ぶ、戦争をやめよ。唯(ただ)愛の掟に従って相互に協商(きょうしょう)せよ。浦上人は灰の中に伏して神に祈る。希わくばこの浦上を世界最後の原子野たらしめ給えと。鐘はまだ鳴っている。
「原罪なくして宿り給いし聖マリアよ。御身(おんみ)に倚頼(よりたの)み奉る吾等が為に祈り給え。」
誠一と茅乃とは祈り終って十字をきった。---
出典:永井隆著『長崎の鐘』 2010年(株)日本ブックエース発行
NHKの連続テレビ小説「エール」のモデルとなった作曲家,古関裕而さん。その代表曲の一つが「長崎の鐘」。サトウハチロー作詞,古関裕而作曲で藤山一郎が歌った。歌のモチーフになった鐘が長崎市の浦上天主堂の「アンゼラスの鐘」である。