長崎は8月9日,被爆から75年の「長崎原爆の日」を迎えた。長崎市の平和公園では前夜,市民が「私たちが平和のバトンをつなぐ」などと平和への願いを込めたメッセージを書き入れた,手作りのキャンドルno柔らかな光が一帯を包んだという。
私は,永井隆著『長崎の鐘』,『この子を残して』の二冊を読み返し,改めて「原発許すまじ」の思いを強めた。
幼い二人の子どもたちへの父親の遺言書ともいえる『この子を残して』では,永井博士が不治の慢性骨髄生白血病で余命三年との診断を受け,それを奥様に告げるくだりは,思わず座り直して読み返した。
photo:永井隆博士 出所:ウィキペディア
長崎の鐘
▼ 『この子を残して』 14ページ~16ページ
予期され、予防に心を用いられていた原子病は、ついに私の肉体に慢性骨髄性白血病および悪性貧血の形であらわれてきた。それは研究を始めてから満十三年の後のことであり、戦時中の無理な勤務満五年の後のことであった。決定的な診断がつき、まあ、あと三年は生きているだろうとの予後判定だった。ぜひもない次第であった。
私は信頼する妻にその夜すぐ、すべてを知らせた。じいっと聞いていた妻は波立つ胸をおさえ、 「生きるも死ぬも神さまのみ栄えのためにネ」と言ってくれた。
二人の幼子の行末について相談をしたら、 「あなたが命をかけて研究なさったお仕事ですから、きっと子供たちもお志をついでくれるでしょう」
と言った。
その言葉に私はすっかり落ち着きを取り戻した。これなら後に心をのこすこともなく安心して、倒れるまで研究室に勤められるぞ。
あくる日から、さらに新しい元気を奮い起こして教室で働いた。まったく別人のように仕事に身が入った。捨て身でゆくとはこのことであったろうか?
戦争はいよいよ激しくなり、あいつぐ空襲に大学病院は患者で満員となった。
私の教室はまるで野戦病院のようだった。夕方になると私の脚の力が抜け、筋肉がひきつったりして、階段を昇るときなどには看護婦さんから押し上げてもらった。それを見て笑う者は私自身だけであった。学生さんが走り寄って来て、私の手にもった参考書を代わりに運んでくれたりした。みんなにいたわられながら、私は楽しく忙しく立ち働いていた。
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『長崎の鐘』と『この子を残して』を合わせ読みしているうちに,「生きる目的とは何か」「人生の意義とは」を考えるようになった。自ずと「死」「最期のあり方」に思いが及び,安楽死,尊厳死の是非,そして「俺はどうする」に思い巡らすいまである。
(この項,続く)
NHKの連続テレビ小説「エール」のモデルとなった作曲家,古関裕而さん。その代表曲の一つが「長崎の鐘」。サトウハチロー作詞,古関裕而作曲で藤山一郎が歌った。歌のモチーフになった鐘が長崎市の浦上天主堂の「アンゼラスの鐘」である。