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田舎の老後生活

老後の田舎生活ではなく、もともと田舎者の気楽な老後生活です。

歳を取ったら徒然草? 3

2025-04-06 15:11:37 | 日記
歳を取ったら徒然草? 3


    第18段 思いのレベルが違うんだろうなあ


第18段には清貧の勧めが述べている。
清貧の暮らしは日本人が伝統的に好む美的生活スタイルの一つだ。
その原点が徒然草に発するかどうかは知らないが、生活にゆとりのある人の選択肢の一つだ。

テレビでときどき紹介されるほど、現代でも選択する人は少なくないようだ。
出入国在留管理庁だったか、そんなようなところに勤めていた男性が、アメリカ人女性と結婚し、子どもができたと思ったら、さっさと勤めを辞めて山暮しを始めたという方がいた。
こういう方の生活は多少心配になるが、

テレビではなく、実際に出会った方だったが、空調設備を製造している会社を売り払って、首相クラスの政治家(なかそ・・)でも買えなかった山を買い、若者たちにユートピア建設を任せ、自分は静かな山暮しをした人もいた。
この方の心配はまるで必要ない。

かたや、ギリギリの貧困生活を余儀なくしている家族もたくさんいる。
一番心配で、世の中の人たちもこぞって心配してほしい人たちだ。

吉田兼好の清貧の隠遁生活は自分で選んだ部類に属するもので、私たちは余計な心配をすることはない。
冬は寒くないのか、薪は足りているのか、そもそも、毎日の食べ物はどうなっているのか、こんな心配はまるで必要ない。

徒然草の端から端まで読んでも描写はない(いえ、読んでません。カッコいいかと思っていってみただけです)が、食糧を間断なく届けに来ている人がいる。それは施しでも温情でもない。吉田が領有している荘園からのお届けだ。

贅沢しようと思えばできるが、それをガマンすること、それが正統な「清貧の暮らし」なのだと思う。

紹介されている第18段で紹介されている中国の許由(きょゆう)は清貧生活の雄のごとく紹介されているが、この方は上級国民に属する方とお見受けする。
この方の清貧ぶりとして、水を飲む容器さえも捨てたというエピソードが紹介されている。
水を飲むのに手ですくって飲んでいるものだから、見かねた方がヒョウタンで作った容器をプレゼントしたのた。だが、風に揺れ、枝に激しくぶつかる音がうるさいといって捨てたのだ。

このエピソードは清貧生活の象徴になっているはずなのだが、どうも、しっくりきません。

ギリシャの哲学者ディオゲネスも同じく水を手ですくって飲んでいた。だが、二人が同じとは思えない。
許由は、うるさくいという理由で捨てたのだが、ディオゲネスは、容器がなくても用事は果たせるという発見で捨てたのだ。

歳を取ったら徒然草? 2

2025-02-23 14:42:39 | 日記
第7段 兼好さんは今だけを生きる人なの?

途絶えることなく人の焼かれている煙を見て、人生をどう過ごすかを思った兼好さん。
長生きを望まないようだ。長生きすると背中が曲がり、顔には皺ができて醜くなる、恥をかくことも積み重なるからと。この辺り、カッコよさにこだわるデキる人って感じのするところ。
40歳まえに死ぬのがほどよいと、その歳を意図的にゴールにした三島由紀夫も兼好さんに感化されたのだったろうか。
三島の同齢の人たちは若くして戦場で散っていった。それに引き換え自分は戦場にも行けず生き長らえている情けなさ。
潔く戦場で死ねなかったことが、なんか一人前でなさそうで恥ずかしかったという思い。
天才と称され、華々しい活躍をしたが、それでも埋められなかった悔い。
それを解決するには、まだ若さの残る40歳を過ぎてはならないのだったのだ。自分も若いうちに死のうと。
三島と兼好の違いはここに歴然としてある。
三島は青春に固着し続けた。
美しいままに死にたいと思う心は同じでも、三島の場合は、過去を断ち切れなかったがためだ。
ところが、兼好の場合はあくまで現在だ。
7段を見る限り、兼好にはこだわる過去の描写がない。
責任あるポストに居座り続けて失敗を重ねる人たち、隠居してボケながらも、自分一人に留まらず末代まで繁栄することに執着する人たちを列挙して、長き命の醜悪さを際立てるが、それは目の前のことだ。
彼には、死ねなかったという三島のような後悔はないのだろうか。
社交の舞台から身を引いて、山に隠遁生活をする身になった彼に後悔はなかったとは思えない。
すると、彼は過去へのこだわりを潔く捨てた人物なのかということが思い浮かんでくる。
過去を振り返らない生き方は、悟ったようでカッコいい。でも、その強がりはいつまで続けられるのか。だから、さっさと死にたいと思うのかなあ。



歳を取ったら徒然草?

2025-02-11 14:09:51 | 日記
第3段 色恋に苦労しない男には、ひとかどの人物としてのオーラは感じられないの?


「玉の巵(さかずき)の当(あて)なき心地ぞすべき」って「底の抜けた玉杯のようなもの」ということらしいけど、どんな感じ?

立派で高価な材料で作られたものだけど、底が抜けている盃っていうのは?

才能とかが優れた人物のようだけれど、色恋に悶々としたことのない男のことを指していっているようなんだけど。
なんか、すごい例えみたいな感じはする。
簡単にいえば「見た目はいいが味のない人物」ということかな?


恋情が高まって、雨に濡れてまで女性の家を行き来したり、それで世間的に嘲笑され、親にたしなめられるほどなのに、思いが果たせず、結局、自分のベッドの中で悶々としている、こんな男を作者はいったんは馬鹿にしているようで、そんな男こそが味がある、人間味があると評価している。


じゃあ、そんな男がいいのかと結論しているのかというとそうでもない。
色恋しない男は味気ない。
色恋しすぎる男は、その積み重ねられた経験の味わいがあるが、女に軽く思われそうで、これもイマイチ。
ほどほどの色恋で止めている男がクールといえようって感じなのかなー。


仏教思想からいえば、色恋なんて虚しいとの発言がありそうだけど、390年間ほど続いた貴族の文化からすると、たしなみとして色恋は完全否定はできないものだったんだろうなあ。
ほどほどという感覚は儒教や仏教の中庸の精神に繋がるよね。

歳を取ったら徒然草?

2025-02-04 14:57:00 | 日記
徒然草淺読み 序段

序段は飽き飽きするほど見かけるけど、
自分の書き綴った文章を「ものぐるほしけれ」という。「気違いじみている」「気が狂いそうだ」という解釈になっていて、すごく違和感があったものでした。

日本人のマナーとして謙遜した表現なのかな、と思ったものでした。

毎日、時間つぶしに書いていた文章、まとめて読んでみると、素直に表現しすぎて、恥ずかしくていたたまれない・・・こんなところではないでしょうか?

「気違いじみている」「気が狂いそうだ」という教科書の説明には、違和感ありすぎて古文が嫌いになった・・・とまではいいいませんが・・・。

清書して序段まで書き足して製本して誰かに進呈したくらいなのだから(たぶん)、むしろ「さあ、読め。読んで暗愚から目を覚ませ」という気持ちだったのに違いないと思うんです。

でも、お怒りになるような方を想定して、先に「これは気が変なときに書いたものですから、真に受けないでくださいね」と言い訳したということなのかなあ。



歳を取ったら徒然草?

2025-01-25 21:17:24 | 日記
徒然草淺読み 第171段は預言か?

小さな頭で思ったのだが、世界規模の聖書は、あの聖書やコーラン、そして仏典かなと思う。そして、東アジア地域での聖書は論語ではないかと思う。そしてそして、日本の聖書は徒然草ではないかと思う。この思いつきを訂正されて、また違った文書を推薦される方もおられると思う。
ともかく、徒然草よりも、ありがたーい書物があるよ、と、たとえば仏教指導者たちの書物を薦められる方のほうが多くおられるだろうが、一冊の聖書として、さまざまな良書を合本するとしたら、やはり、徒然草も加えておいて欲しい文書ではないかと思う。

歳を取って読みたくなった日本の古典の最有力文書として、徒然草がある。筆者の吉田兼好は「法師」とも呼ばれるようだが、仏教指導者ではないので、どうも遊びもよく知っている。

第171段は、吉田兼好がいかに遊びに精通していたかを物語る段ではないだろうか。文書全文を読んだわけでないので、他の段にもありそうなのだが、この段も、遊びに精通している様子がうかがえる描写があるといおう。
文章では「貝覆い」というゲームで、強い人のコツが分析されている。碁盤でのおはじきのような遊びのコツも書かれている。
自分の体験では、貝覆いは百人一首、碁盤のおはじきはボウリングが、吉田の分析が役に立ちそうだと思われた。
つまり、遠くに気を取られないで、手元に注意せよというのだ。

ここまでだと、ゲーム攻略の解説文ということになるのだが、そこから天下取りの戦略や病治しの話に発展していく。
そして、話のシメは古代中国、夏王朝の創始者の禹の痛い経験が語られている。
遠征して戦うよりも、国内で善政に取り組んだところ、敵はすぐに降参したという。
ひょっとして、豊臣秀吉が朝鮮侵略に晩年、力を費やしたのと対照的に、徳川家康は内政に力を注いだ、それが下地になって、明治維新以後の快進撃に繋がった・・・。この章段はそんな預言にもなっているように見えてしまうのだ。