田舎の老後生活

老後の田舎生活ではなく、もともと田舎者の気楽な老後生活です。

図書館巡礼 その1 南陽市立図書館

2022-12-22 23:15:03 | 日記

古い時代の、木造で、冷房はなく、暖房は石炭ストーブだったころの図書館が懐かしい。すでに読み切れないほど蔵書があったのに、建て替えられるたびに蔵書も増えた。しかも、自分の蔵書も莫大なほど膨れ上がる。図書館はこうなると、もはや借りにいくことはめったになく、むしろ自分の本を落ち着いて読む場所として選ばれるようになった。

読み切れないほど、目を通しきれないほど蔵書は膨らんでいるというのに、図書館に行くと、また、読んでみたくなる本が目につき、借りてしまう。しかも、その本も読む場所は結局、図書館になる。

読む場所は、自宅の布団の中、ファミレスもあるが、やはり図書館が一番落ち着いて読める。

図書館に行くための準備がある。筆箱にはシャープペン、サインペン、多色ボールペン、ポストイット、はさみ、定規、糊(折り紙したときに使ったりする)、辞書をめくる指サック、ロッカー用の100円硬貨が2枚。ペンキ塗り用の刷毛。これは、机上の消しゴムカスを払うもの。老眼鏡。メモ用の不用紙。椅子用クッション。水筒。図書貸し出しカード。スマホ。スケジュール帳。

どこもかしこも図書館は新しくなって、味わいがドライになってしまったが、その町の雰囲気が味わえる。

以前は、めんどくさい課題を1つだけ持って、遠くの図書館に出かけた。ところが最近は集中力がなくなり、せっかく訪問したのに肝心の課題や読書はパラパラめくってすぐ放棄してしまう。
図書館は次第に観光や息抜きの場所となってきている。それでいいかなあ。

シューベルト「冬の旅」のこと

2022-12-19 12:33:46 | 日記
シューベルト「冬の旅」のこと
(原作詩ミュラーはそっちのけで、作曲者のシューベルトだけがもてはやされている)

小学校の音楽の時間に聴かされたクラック音楽が退屈で嫌いだった。だが、4年生のころ、親が、理研という電気屋さんからステレオと勧められて買ったレコードのほとんどが心にしみる音楽で好きになった。

私はそもそも学校の勉強が退屈で、現代だったら不登校児童になっていただろうぐらい学校が退屈で、それよりも、家に引きこもって図書館から借りてきた本を読んでいる方が楽しかった。

深夜になるとラジオから流れてくるFEN(ファー・イースト・ネットワーク極東放送)のジャズが楽しかった。
有名になる前のジョージ・ルーカスの「アメリカン・グラフィティ」にも登場したラジオの有名DJであるウルフマン・ジャックも登場した。

後に、眠れない夜を、ひっそりラジオを聴いて過ごすというのは、私だけでなく、同世代で後に大流行した。日本放送「オールナイトニッポン」、文化放送「セイ・ヤング」、TBS「パック・イン・ミュージック」を大人たちに混じって全国の高校生たちが聴いた。

そんなことで昼夜逆転の小学生になったのだが、買うだけ買ってちっとも聴かない親に替わって私がレコードを聴いたのだが、その中に2枚組のドイツ歌曲があった。シューベルトの「冬の旅」だった。

シューベルトは「未完成」もベートーベンの「運命」とAB面に刻まれたレコードも何度も聞いた。
 友だちの影響でビートルズやモンキーズも好きになったが、生涯を共にしたのは「冬の旅」だった。
高校では音楽の教科書に「1. Gute Nacht(おやすみ)」と「5. Der Lindenbaum(菩提樹)」が掲載しているのを見つけて1人口ずさんだものだった。
放送部だったのでレコードをリクエストし、シューベルト歌曲集「白鳥の歌」「美しい水車小屋の娘」を買ってもらった。

どこに行くにもシューベルトの「冬の旅」だった。だが、なんで「冬の旅」なのか、訳詞を読むところまでいかず、歌声と伴奏するピアノの響きのみを味わうだけだった。

家にあったのは来日記念に発売になったフィッシャー・ディースカウのレコードだったが、CDになってからは、ヘルマン・プライ(山形市立図書館蔵)、ハンス・ホッター、クリストフ・プレガルディエンも聴く機会ができた。「21世紀の『キング・オブ・テノール』」と称されるヨナス・カウフマンはまだ聴いていない。

どのアーティストの歌がいいとかのこだわりは私にはない。どれも素晴らしい。けれども、じつは、演奏を拝聴することの他にも、それ並ぶ大切なことがあるのだが、私はしていなかった。

歌詞を読んでいないということだ。歌曲だから、歌声で物語を味わうことは、なくてはならないことだ。それをしてこなかった。なぜならば、私の音楽鑑賞スタイルは「ながら」なのだ。ドライブしながら、パソコンをいじりながら・・・それで文字情報は1字たりとも我が頭に入力していなかった。

それに比べるとモーツァル「魔笛」やワーグナーの「ニーベングの指環」のストーリーは何度か読んだ。歌曲と歌劇の違いだろうか。

やっと長い前置きが終わる。このたび、長くもない歌詞をお二人の訳で読んでみたのだ。

お一人はCDの付録の訳で、喜多尾道冬(きたお みちふゆ)。名前がステキなのだが、本名で1936年生まれの有名大学名誉教授。もうひとかたも有名大学名誉教授の神崎昭伍(かんざきしょうご)。

訳は上記の先生の訳は穏健で、下記の先生の訳は情熱的だ。
さて、ここに来てやっと、一体、誰の詩をシューベルトは歌にしたんだい?というところになる。

シューベルトが歌曲にした詩は、同時代の詩人ヴィルヘルム・ミュラーの作品である。このミュラーの解説はネットでは探せない。伝記本は県立図書館でも買っていない。ゲーテと同時代の人らしい。ゲーテとは違って詩はライトらしく、一般受けしていたらしい。

ミュラーの伝記は、そのうち何らかの形で入手して読むとして、次は「冬の旅」の詩の感想を書きたい。

とともにシューベルトが作曲した同詩人の「美しき水車小屋の娘」の訳詩が見つかったのでそれを読んでみる。
「美しき水車小屋の娘」恋愛の楽しい歌曲。失恋の「冬の旅」の前段階として読んでおくべきものだろう。

ミュラーの「旅のワルトホルン吹きの遺稿からの詩集」をシューベルトは入手し、帰宅してさっそく3曲作ったという。「ウィキペディア(Wikipedia)」の解説によると、ミュラーの作品そのままに曲を付けたのではなく、どうも、曲を付けやすいように手直ししたようだ。だから「ミュラーの詩に曲を付けた」という記述にはなっていない。

山枡信明の世界テノール歌手の山枡信明(やまます のぶあき)自ら訳した詩が見つかったので、それを読んでみた。

 おおむね、明るく活気に満ちた恋愛心の芽生えが歌われている。まあ「もえー」と叫んでいる。

この水車小屋の詩に登場する若者は美しい娘に恋心を抱くので、まずは明るい快活な内容である。若者は修行中の粉職人である。恋愛した娘は街で見かけた娘ではなく、どうも親方の娘ではないかと私には思われる。

恋愛した娘は「美しい水車小屋の娘」であり、青年は粉職人なのだから。・・・ちなみに、ドイツの職人というと、カール・マルクスの「資本論」のくだりを思い出す。
ドイツの職人はマイスターとして、プライド高く、雇用主には煙たい存在。それで、作業工程を細かく分け、単純労働化して、職人はただの作業員に貶めプライドをそいだという過程があったという。

その職人というものは、ひとかどの職人になるために、あちこちのマイスターに入門していろんな技を習得する必要がある。それで若者の旅というのがあったということだ。
われわれは「旅」というと水戸黄門漫遊記を連想するが、ドイツでは若い職人見習が、よい師匠を求めるためにする意欲的な歩みというのがイメージされることだろう。

「美しい・・・」の物語は、娘を見そめ、惚れ、心の中でともに生きるのだが、娘はもっとカッコいい男性、狩人に惹きつけられる。見習い職人は「娘ならそんな、はしたないことはしない」だの、心で叫ぶが、失恋を認め、川に飛び込んで死ぬ。

最後は失恋で自死することになるのだが、出だしは快調だ。

さて、やっと「冬の旅」になる。これは最初から最後まで暗い。

やっかいになっていた親方(マイスター)の家で何があったのだろう。それともやはりここでも失恋か? 深夜、村を出、旅立つ物語だ。

自分の住まいを出て、親方やその娘の住む家の前を通りかかる。その家を見ながら、呪ったり、執着心を表したりする。その家の犬からは吠え立てられる。やがて、村はずれになり、けもの道や山道など、大通りでない道を歩む。そして山奥まで来て、宿で休もうとするが、満室だと追い払われる。
人の通らない道を人目を避けるようにして歩み、山の獣におびえながらも勇気を出して歩み続ける。やがて幻を見る。太陽が3つ見えるのだ。なぞの「手回しのオルガン弾き」の姿も見える。オルガン弾きは「氷上にはだしで、あちらこちらとよろめいている」もはや幻覚だ。そのオルガン弾きの老人につられて、旅人は雪の中をさまよい続けるのだ・・・。

全編、暗い世界だ。よくもまあ、こんな歌を小学生から現在まで聞き続けてきたものだ。私ばかりでなく、世界中の人々にこの歌曲は愛されている。歌の物語をよく知った人々にだ。

ネットにもアマゾンにもろくに見かけない原作詩人のヴィルヘルム・ミュラーだ。シューベルトに曲を付けてもらって大ヒットになって200年も経ったのだが、いまだにほとんどの人は詩人を知ろうとしていない。求めるのはシューベルトのみ。こりゃあ、もっと暗くなるよ!

秋葉山(あきはさん) 南陽市宮内 令和4年度登頂第11回目 12月13日(火)

2022-12-13 18:23:34 | 日記
秋葉山(561メートル 南陽市宮内)今年度登頂第11回目をしてきました。
向山公園駐車場を出発したのが1時30分 帰着までの時間が2時間。

第1回は5月8日(日)、第2回は5月17日(火)、第3回は6月15日(水)、第4回は9月5日(月)、第5回は9月22日(木)、第6回目 9月26日(月)標識を建ててきました。第7回目 10月9日(日) 第8回目 10月28日(金) 第9回目 11月9日(水) 第10回目 12月9日(金)

今日は地元の知り合いたちと。みなさんも、これまですでに何十回か登った宮内中学OB。健脚ばかりで、わたし、息切れで「ちょっと、休憩!」と叫んでしまいました。

登りは、ぐるりと山荘まで巻いて登る道。これは1987年頃に秋葉山荘建設ついでにできた道だ。この道のおかげで、秋葉山登山も味わいが出たというものだ。私の作なる標識を確認し、記念写真撮影。心は中学生なのに、写真に写った姿を見ると、おぞましいことに、ジジイになっている。なんの魔法を掛けられたのか。






秋葉山(あきはさん) 南陽市宮内 令和4年度登頂第10回目 12月9日(金)

2022-12-09 14:05:04 | 日記
秋葉山(561メートル 南陽市宮内)今年度登頂第10回目をしてきました。

向山公園駐車場を出発したのが11時50分 帰着までの時間が1時間45分。

第1回は5月8日(日)、第2回は5月17日(火)、第3回は6月15日(水)、第4回は9月5日(月)、第5回は9月22日(木)、第6回目 9月26日(月)標識を建ててきました。第7回目 10月9日(日) 第8回目 10月28日(金) 第9回目 11月9日(水)

山は葉をすっかり落としたので、枝々の隙間から宮内やその周囲がよく見えました。

<秋葉山神社一の宮> 社の前に立ててあるのが軽ピッケル。かつて飯豊の石転び沢を登るのに買った。それ以外は使用することがなかったが、近年、里山に入るときに必ず持参する。クマなど山の獣対策。ホイッスルとともに。
 
<一の鳥居>笠木、島木、額束の部分が2011.3.11のときに落下。いつか広く勧進してお金を集めて元の形に戻してあげたい。

<二の宮>山小屋が右隣にある。山小屋の近くには、かつて洞窟があり、サンショウウオが棲息していた。その洞窟が今は見当たらない。さらにこの山の裏には、隠れ金山の掘り跡があった。東西から貫通させようとしたのか?今は潰れてしまって見つけられなくなった。やぶ深くに隠れてしまった。いつか、ノコギリ等道具を以てして、やぶを切り払い姿を露出させたい。

この山を第1のピークとして越えると、いよいよ本ピークを目指すことになる。つまり「秋葉山」とは大小の2つの山を合せた総称である。

<山頂 秋葉山神社>
春、まだ残雪の頃に山頂でカモシカと出会ったことがあった。そのカモシカは私と面と向き合って動かない。私もみつめたまま。すると、ガサッと音がして子鹿ちゃんが飛び出してきて、すぐに薮に消えた。その後を追って母鹿も姿を消した。母鹿は身を挺して私を引きつけ、子の鹿を逃したのだ。わたしゃ、悪者かい!プリプリ。

山頂の山道。この道を登り、そして帰る・・・。