黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

長崎さるく #20 大黒・恵比寿市場内

2009-07-10 01:11:19 | 長崎さるく
前々回からアップしている、
JR長崎駅のすぐ近くの暗渠上に作られた大黒市場と恵比寿市場。
今日は市場の中を見てみます。



大黒市場の入口にあるかまぼこやさん。
(ごめんなさい、店の名前を忘れましたm(_ _)m)
関東では
さつま揚げの○○入り、とか○○揚げ、と一般にいわれる食べ物を
長崎では「○○天」あるいは「○○てんぷら」と言います。
画像中央の手前の箱に入った半月型のものは、
あじ天だと思いますが、これが絶品です。



隣には既製品系の練り物が所狭しと並んでいます。
右端の下から2段目を見ると、
いわゆる関東でいう蒲鉾のようなものもあるようですが、
長崎の人から関東の蒲鉾が美味しいと聞いたことはありません。
奥の中央にはドギツいピンクとグリーンのものが見えますが、
これがチャンポンに入っている、
ピンクとグリーンのはんぺんですね。
板はんぺん、とか、型はんぺん、と呼ばれる、
とても弾力のあるはんぺんです。



市場内にはその場所柄魚屋さんが多く、
往年の魚屋さんによく見かける、
タイル貼りの陳列台を設置したお店が沢山軒を連ねます。
このお店は他の商品がもう売り切れなのか、
フカのユビキしかありません。



ウェブで見ると、
長崎では結構有名な『銀丁寿司』
5人も入れば満員の立ち食い寿司。
全皿110円というリーズナブルな値段ゆえ、
決して絶品という味ではありませんが、
ロケーションも一緒に食べれば大満足。



ほとんどが魚屋さん、所により肉やさんと果物屋さん、
といった店並びの中、異彩を放つテーラー。

市場内はシャッターを下ろした店も多く、
かつての賑わいを感じることはできませんが、
ここに取り上げたお店は全部現役。
そういえば長崎には、こういった昭和の雰囲気を残した、
市場と名のつく場所が多いですが、
じょじょに消えて行ってしまうんでしょうね。

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長崎さるく #19 恵比寿市場

2009-07-09 00:24:30 | 長崎さるく
JR長崎駅のすぐ南側にある、
暗渠の上に作られた市場。
前回の記事では大黒市場をアップしましたが、
実はこの市場は2つの名前の市場が一続きになっていて、
奥へ進むと、いつのまにか恵比寿市場になります。
Mapion
なぜ大黒市場と恵比寿市場に分かれているのか、
などはお店の人に聞き忘れましたが、
Mapionをご覧になってもお分かりの様に、
市場の約3/4が大黒市場、そして1/4が恵比寿市場です。



この場所が大黒市場と恵比寿市場の境目になります。
左側が大黒市場、右側が恵比寿市場です。





境目を反対側から見た画像です。
右側が大黒市場なので、店の幌には大黒店と書いてあります。
コンクリの板が敷かれた通路には穴があったので、
この下には川が流れているはず、と思い、
小石を蹴り込んで耳を澄ませましたが、
水に落ちる音は聞こえませんでした。



休日は全ての店が閉まって、
まるでシャッター通りの様相です。






長崎市内には最近マンションの建設が増えたらしく、
至る所に新築のマンションを見かける様になりました。
市場のすぐ横にも真新しいマンションが建設され、
新旧の入れ替わりの象徴的な光景を作り出しています。





恵比寿市場の終点です。
大黒市場の建物がそれぞれ独立していて、
増築3階建て系だったのに比べ、
ご覧のように、恵比寿市場は極めて長~い長屋作りで、
建物の中央を貫通する様に通路が造られています。
2階のベランダが木製の部屋もところどころ目につきます。



そして市場を抜けると道を挟んで、
再び開渠が始まります。
川を見る限り水は流れているので、
やはり市場の下には水流があるのでしょう。
次回は市場の中へ入ってみようと思います。

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長崎さるく #18 大黒市場

2009-07-08 00:16:35 | 長崎さるく
前回の記事では、
JR長崎駅のすぐ南側にある終わりかけの運河をアップしましたが、
その運河が暗渠になった土地の上に、
レトロかつワンダーな市場<大黒市場>がありました。
Mapion
まずはその外観から見て行こうと思います。



これは暗渠の上に作られた市場通りの建物の裏側ですが、
これでもかといわんばかりの、
増築3階建て木造建築のオンパレードです。
一応茶色トタンをベースにしているものの、
それぞれの店舗が思い思いの増築をし、
更に道ばたにはみ出した備品や設備と相まって、
もうカオスそのもの。



最初の画像の右奥から振り返って撮影した画像ですが、
逆から見ても凄いですね。





モルたるの2階建ての建物の上に、
木目壁面の3階を増築したんでしょうか。
しかもどの建物の3階も、
かつて青線地帯にあった「ちょんの間」としての狭いものではなく、
しっかりと1階分の高さをとった3階です。



壁面からトタンで囲われた部屋を
むりくりはみ出させる造りは、
以前にアップした長崎さるく #01 銅座川の光景にも通じます。





大黒市場と呼ばれるこの市場は、
戦後の動乱が治まった昭和30年初頭に造られ、
かつては賑わいをみせたものの、
現在では3年後の取り壊しに向かって、
静かに余生を過ごしているような市場です。



前回アップした運河と桟橋は、
恐らくかつての海産物の荷揚げ桟橋で、
そこで荷揚げされた海産物が、
この市場で売られていたんではないか、
と想像してみましたが、
どなたかご存知の方がいらっしゃったら、
教えて頂ければと思います。

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長崎さるく #17 駅前の運河

2009-07-07 01:25:17 | 長崎さるく
ちょっと前にアップした、
シリーズ『長崎さるく』の続編です。
まずは長崎へ行ってそこを通るたびに、
いつも気になっていた運河の話から。

JRの長崎駅前から少し南へ歩くと、
時が止まった運河があります。



Mapionを見ると、
画像の位置は埋め立てられている様に表示されますが、
実際は埋め立てられてはなく、
画像の様に開渠の水路がちゃんとあり、
既に使われていない様子ですが、
桟橋も残っています。



両岸に煉瓦で基礎を作り、
そこにコンクリートで増築したような造りの桟橋で、
特に北岸は煉瓦の遺構しか残っていません。





やがて運河は駅前のメイン通り、大波止通りの下をくぐり、
道を越えたところで再び顔を出すものの、
その先ですぐに暗渠になってしまいます。
Mapion
この日は水位が高く、
運河の様子が少し分かりにくいですが、
けっこう深く、幅もそれなりにあります。




そして暗渠になったとたんに、
まるで暗渠の門の様に建物が建ち、
運河の幅一杯に一杯飲み屋的な店が軒を連ねます。
これだけでも不思議な光景ですが、
これからしばらく上流へ続く暗渠の上に、
かつて活気があった大市場がのっかています。

■ 追記 JUL.12, 2009 ■

コメントを頂いたちび太郎さんによると、
この煉瓦遺構は長崎市内の路面電車のかつての橋の跡だそうです。
昭和24年に路線替えで廃止され、そのまま残っているとのこと。
50年前からこの状態なんですかね。
▼ちび太郎さんの記事
大波止で見つけたもの(報告)

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長崎さるく #16 最後に夜など・・・

2009-05-01 01:46:24 | 長崎さるく
シリーズでアップしてきた長崎さるく。
最後はちょこっと夜さるくです。

以前に台湾特集の最後の記事でもアップしましたが、
面白いと思った街は、その夜中の顔も見てみたくなります。

普通旅先の夜の街へ繰り出すといえば、
おねえちゃん系のお店と相場は決まってますが、
その方面には全く興味がないんで、
台湾の時も同行のメンバーがマッサージなどに繰り出してる間、
ずっと街をさまよってました。

長崎の夜は東京に比べると早く終わり、
銅座の歓楽街をのぞいては、
いっきに静かになります。
息をひそめる夜中の街は最高です。



唐人屋敷跡の記事で触れた土神堂。
門も閉ざされ中へは入れません。
塀越しに差し込むオレンジのナトリウム灯が、
昼間見た土神堂とは違う表情を映し出します。



電鉄の線路。> Mapion
長崎は数少ない路面電車の走る街でもあります。
終電が終わった後、道路の真ん中に線路だけが光る光景もまた、
今となっては懐かしくもあり不思議でもある光景です。



出島橋 > Mapion
現役としては日本で最古の鉄道路橋。
橋の上部につけられた銘版をみると、
アルファベットで「DESHIMA-BASHI」と書かれています。
「でじま」ではなく「でしま」なんですね。
橋のすぐ隣にある出島もほんとはでしまなんでしょうか。





長崎滞在もあっというまに終わり、長崎空港です。

今回の訪崎では、いままで知ることのなかった長崎を、
ちょっとかいま見ました。
さすがずっと海外の窓口だった長崎ですね。
これからもしばらくは楽しめそうです。
「長崎さるく」という企画は今の市長が、
市長になる前に提案した企画だそうですが、
さるくツアーに実際参加するしないは別として、
さるくしながら続々と面白いものが見つかる街
であることには違いないと思います。



東京へ戻ったら一人長崎祭りです。
といってもたいしたことではなく、
空港で高野屋のからすみとかまるなかの「ちゃんぽん天」とかを購入し、
そのとき行ってきた長崎のことを思い出しながら食べるだけなんですけどね。
でもからすみは小川水産のからすみにつきます。

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長崎さるく #15 まとめ

2009-04-30 02:21:25 | 長崎さるく
何十回も滞在しながら、
いままで殆ど軍艦島関連のところへしか行っていなかった長崎。
今回たまたまちょっと時間があって、
市内を3、4時間さるくしただけで、
今まで知らなかった長崎が見えたような気がします。

軍艦島や高島炭鉱、そして三菱やグラバーなど、
ヨーロッパ列強の影響下の近代産業遺産しか見てこなかった長崎ですが、
実は長崎はヨーロッパよりも遥かに
唐の影響を色濃く残す街なんだと思いました。

東京へ帰る日、
「軍艦島を世界遺産にする会」の理事長、坂本道徳さんと、
吉宗(よっそう)」へ行きました。



※画像、まずそうですみません
観光客ならずとも足を運ぶ、茶碗蒸しで有名な店ですが、
ここででる卓袱料理 (→Wikipedia) もまた、
中国と深い関わりのある料理です。
思えばペーロンランタンフェスティバル長崎くんちの龍踊 (じゃおどり) 、そして爆竹と
市内には中国の影響を受けたものが沢山残っています。



画像は唐人屋敷跡の入り口にあった四海楼のかつての写真です。
四海楼とはちゃんぽん発祥の店。
同じ海外の玄関口として栄えた横浜発の、
スパゲティ・ナポリタンは日本人による発明でしたが、
ちゃんぽんは中国人により考案されたものだったんですね。

何分の一だったかは覚えていませんが、
かつて市民の多くの割合が中国人だった時期もある長崎。
長崎の文化や料理を「和華蘭」というように、
ヨーロッパと同等に、あるいはそれ以上に、
中国の文化がしっかりと生きずいているんだと思いました。








そして浦上の片足鳥居








原爆で命を落とされた沢山の方々の
ご冥福をお祈り致します
                合掌







これもまた広島をのぞいて、
他の都市には決してない長崎だけのもの。
和華蘭の特殊な文化に加えて原爆も体験した長崎は、
極めて特殊な街だと思います。



最後は長崎へ行ったら必ずといっていいほど訪れる
「タイチ寿司」 →Mapion
軍艦島にあった飲食店「厚生食堂」の息子さんのお店です。
ここの寿司を食べてから、東京の寿司が食べられなくなりました。
お勧めは「白鉄火巻き」。
どういうものかは食べてのお楽しみ、ということで、
そのほか程よい焦がしが入った炙りものが絶品です。
軍艦島に興味のある方は、
タイチ寿司へいかれてはいかがでしょうか。
もしかしたら島の話をしてくれるかもしれません。

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長崎さるく #14 聖福寺2

2009-04-29 03:22:04 | 長崎さるく
前回からアップしている
長崎市内にある唐寺のひとつ、聖福寺の続きです。
この寺は「瓦」にまつわるものも面白いものがある寺です。



山門から大雄宝殿へいく途中の土壁と瓦は、
その部分だけ見るとさながら荒れ寺のような趣ですが、
これが補修費がなくそうなっているのか、
それともあえてその状態で保存しているのかは、
とっても気になります。
とにかくいい具合なんです。







境内には瓦をありえない積み方をして構築した塀がいくつもありますが、
なかでも最も目を惹くのは大雄宝殿の横にあるこの瓦塀です。
明治初期に聖福寺の3末寺が廃寺になった際に、
その寺々の瓦を集めて作られたそうですが、
これがまた凄いですね。







猿の面のようにみえる鬼瓦や右上には魚も見えます。
前回アップした魚板に限らず、魚にまつわるものは唐寺に多く、
この聖福寺の前にアップした宗福寺の境内の壁面にも、
魚のレリーフが施された所がありました。
また中央上部には桃の形が見えますが、
長寿を意味する桃は境内の他の場所にも、
いろいろな形で施されています。

ちなみに瓦塀の中には煉瓦が積まれている様ですが、
かなり厚みのない煉瓦の様に見えます。
この塀が明治の初期に造られたことと考え合わせると、
これもまた蒟蒻煉瓦の遺構ではないかと思います。







素晴らしい瓦塀の奥の階段を昇ると、
大雄宝殿の裏面を高台から眺められる場所へ行け、
さらに階段が急勾配なので、大雄宝殿の屋根瓦も間近に見る事が出来ます。
屋根の四方を守る鬼瓦。
これまた目も血走っていてリアルな形相ですね。







崩れかけた屋根瓦の間からは草が育ち、
いい雰囲気を醸し出しています。







最後は大雄宝殿の裏側の瓦を上から見てみます。
つやがある箇所が何カ所もあるので、
かつては着色されていたかあるいは上薬や釉薬が、
塗られていたんではないでしょうか。

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長崎さるく #13 聖福寺1

2009-04-28 02:26:22 | 長崎さるく
前回まで長崎市の唐寺のひとつ、宗福寺をアップしたので、
唐寺をもう一つ。
唐人屋敷跡や宗福寺から少し離れた所にある、
聖福寺(しょうふくじ)です。→Mapion
寺の成り立ちとかはWikipediaをご覧ください。



これまで見て来た唐人屋敷跡の御堂や宗福寺のように赤くなく、
以外と慣れ親しんだ感じの寺だなと思って中へ入ってみました。







ところが実際中へ入ってみると、
画像は本殿の大雄宝殿ですが、
瓦の色のせいか沖縄の建物にも見え、
また周囲の植物のせいか東南アジアの寺院にも見え、
やっぱりエキゾチックです。







大雄宝殿の上から伽藍を眺めてみても、
やはり何か違和感があります。
左寄りには育ったパピルスも写っていますが、
そもそも寺院とパピルスの組み合わせ自体、
国内の他の場所ではなかなかないおめにかかれない光景でしょう。







伽藍や寺の雰囲気はともかく、
この聖福寺を訪れたのは唐寺だからというわけではなく、
この赤い施設を見たかったからです。
「惜字亭」(せきじてい)と呼ばれるこの施設は、
既にご存知の方もいるでしょうし、
その形から以前の記事をご覧になった方は思い出されるかもしれませんが、
金爐と呼ばれる、経文などを焼却浄化する施設です。

この惜字亭のことは既に小菅修船場跡の記事で触れました。
蒟蒻煉瓦と呼ばれる長崎で明治期に製造された、
初期の薄い煉瓦によって作られた現存施設として紹介しましたが、
その時は漆喰で塗り固められ蒟蒻煉瓦は見えない
とアップしました。
確かに表向きは奇麗に塗装され蒟蒻煉瓦製であることはわかりません。
しかし炉口から中をのぞいてみると、







なんと蒟蒻煉瓦が露出してるじゃないですか!
画像は炉口から炉内の上方を撮影したものですが、
天井付近の横積みされた煉瓦は明らかに厚さの薄い蒟蒻煉瓦です。
2015年の夏に世界遺産に登録された小菅修船場跡よりも、
2年早く造られた惜字亭。
ここにまた一つ蒟蒻煉瓦の現存遺構を見つける事が出来ました。







これは境内にあった魚板。木魚の原型で、
「魚の形をしているのは、魚は日夜を問わず目を閉じないことから、
修行に精進することの象徴であったためとされる。
そして、魚の腹をたたくことで煩悩を吐き出させる、
という意味合いが有ったともされる。」(Wikipedia)
だそうです。
確かに舌を半出しにして、ゲボっていう感じですね。

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長崎さるく #12 宗福寺2

2009-04-27 04:22:59 | 長崎さるく
前回からアップしている長崎市の唐寺、宗福寺。
今日は境内をぐるっと見てみます。



長崎県にある3つの国宝のうちの2つが、
この宗福寺にある話は前回の記事でアップしましたが、
そのもう一つがこの本堂にあたる大雄宝殿です。
1646年創建のこの建物は長崎市内最古の建物だそうです。

中学の修学旅行以来いろなん国宝いろいろと見て来ました。
そして国宝と呼ばれるモノには一種の共通した雰囲気というか、
時間の年輪みたいなものを感じます。
同じ市内の国宝、大浦天主堂もキリスト教の施設でありながら、
京都や奈良の国宝寺院と似た匂いを感じるのは私だけでしょうか。
しかし、この大雄宝殿には<国宝らしい臭い>をあまり感じません。
極めて軽やかで、つい最近の建物のような印象です。







唐人屋敷跡に残る御堂では、
真っ赤なお供え台やコンクリートの床面など、
異文化の香りが紛々と漂っていましたが、
この大雄宝殿は内部もそれほど異国情緒を感じません。







唯一壁に並ぶ羅漢像はみなそれぞれ自由な姿勢をしていて、
大きさもそこそこあるので目を引きますが、
羅漢像は国内の他の寺院のものも、
けっこうリアルなポーズをしているものがありますね。







大雄宝殿の隣には媽祖殿があり、その手前に媽祖門があります。
至る所に筆文字の扁額がかかげられている光景は文字地獄です。
ここには額が3つしか写っていませんが、
奥には更にもう一つ扁額があります。







唐人屋敷跡の記事でも触れた、
海運の象徴として祀られる媽祖さまは、
ここでも祀られています。
媽祖さまはよほど厚い信仰の対象なのでしょう。







帰りがけに前回の記事でアップした三門を上から眺めてみると、
長崎の街並に突然表れた竜宮門の様子がよくわかります。

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長崎さるく #11 宗福寺1

2009-04-25 22:21:29 | 長崎さるく
シリーズでアップしている長崎さるく。
「さるく」とは町をぶらぶらするといった意味の長崎弁らしく、
2006年から長崎市が提案し、
年々定着してきている新しい観光の方法です。
この中には前回の記事にアップした軍艦島の見学ツアー他、
幕末の歴史跡を偲ぶツアーなど、
歴史的トピックに事欠かない長崎市ならではのツアーだと思います。

さて前回の唐人屋敷跡までは本当にさるくしてましたが、
これからはちょっと場所を移動しながら、
他の長崎も見てみようと思います。

まずは丸山花街跡や唐人屋敷跡からそれほど遠くないところにある、
唐寺、聖寿山宗福寺です。→ Mapion
唐寺というだけあって、ひとたび門をくぐるとそこはもう異世界。
同じ長崎市内の興福寺・福済寺とともに長崎の唐三寺のひとつ。
最古の興福寺から9年後の1629年創建という、
とても由緒あるお寺です。



ふつう寺院の入り口に建つ門は山門ですが、
この門は山門 [下述] より手前にある3つめの門なので、
三門と呼ばれるそうです。
そのルックスから竜宮門とも呼ばれるそうですが、
確かに色と良い形と良い竜宮城への入り口のようですね。







三門の横に並ぶ狛犬も、
爪や体の形等、国内ではお目にかかれないものですね。
ところでこれは狛犬でいいんでしょうか?
ここってお寺ですよね。(汗)







三門を越えて石段を登ると本来の山門だった、
第一峰門があります。
ちなみにこの門、長崎県にある3つの国宝のうちの一つで、
もう一つもこの宗福寺にあります。[後述]
※最後の一つは大浦天主堂。







門の名前にもなっている書体が掲げられた扁額の周辺を見てみると、
その装飾の具合が半端ないですね。
国内の寺院でこれほど装飾過多なものを見た事がありませんが、
それでも記憶をたぐると、
日光の東照宮 (寺じゃないけど) や京都の西本願寺を思い出します。







画像は西本願寺のものですが、
この装飾のある扉は「唐門」と呼ばれているので、
納得ですね。







第一峰門の扉の裏にはかわいい蝙蝠の装飾があります。
日本ではあまりいい印象がないコウモリですが、
中国では幸福の象徴としてあがめられるそうです。
そういえばカステラの老舗「福砂屋」のマークが、
蝙蝠をかたどったものだったのを思い出します。

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長崎さるく #10 唐人屋敷跡3

2009-04-22 02:11:29 | 長崎さるく
長崎の唐人屋敷跡に残る数少ない御堂。
4つある御堂のうち前回アップした2つ以外の残りの2つです。

◆ 土神堂 ◆



唐人屋敷跡の最初の記事でアップした金丸温泉の隣に建つ、
土地の神様を祀った土神堂。
前回アップした天后堂や観音堂よりは遥かに新しく、
戦後老朽化していたのを解体し、石台だけだったところに、
昭和52年 (1977) 、長崎市が復元したものだそうです。
煉瓦造りではなく、確かに新しそうですね。







堂内は前回アップした2つと比べると極めて殺風景で、
ご神体を祀る祠も堂内の広さに比べてアンバランスな印象です。







しかし祠の中に鎮座する神様を拝むと、
小さいながらかなり迫力がありますね。
左奥に従えた従神も照明のせいでしょうが、かなり怖い。
そういえば中国の神様ってご神体がみんなリアルなんですね。





◆ 福建会館 ◆



唐人屋敷跡に残る4つの御堂の最後は福建会館です。
福建会館と言ってもそれは名ばかりで、
当初華僑によって建てられた福建会館は原爆で崩壊し、
現存するのは明治時代に隣接して建てられた天后堂だそうです。
天后堂・・・以前の記事でも書きましたが、
海の神様である媽祖様を祀った御堂ですです。







こちらの媽祖様は細面ですらりとしています。







最後は天后堂の右となりにある「金爐」です。
これまで見て来た御堂にも形こそ違え全てこの金爐がありました。
ちなみに右書き文字です。
金爐とは文字の表す通り「お金を燃やす爐」
かつては浄銭の目的でも使われたようですが、
現在では主に教文などの焼却のために使われるようです。
豪快な傾きっぷりと年季の入った痛みっぷりが魅力ですね。

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長崎さるく #09 唐人屋敷跡2

2009-04-20 02:33:13 | 長崎さるく
1600年代後半に造られた唐人屋敷はその約100年後の大火で全焼。
以降自由に屋敷を建てる事を認められたものの、
1859年の開国によって多くの中国人は現在中華街がある新地へ移り住み、
廃墟化して行ったそうです。

さすがに150年も前に廃墟化した場所だけあって、
現在は当時の住宅は残っていません。
唯一残っているのは当時敷地内に建てられた御堂だけです。
しかしこの残っている御堂が、
どれもこれも<日本化>していない強者ぞろいです。

◆天后堂◆



実在の人物、媽祖(まそ)様を祀った天后堂。
元来の建物ではなく明治39年(1906)に再建されたものだそうですが、
それでも100年以上の歴史がある建物。
基本的には煉瓦造りだと思いますが、とてもそうは見えません。
手入れが行き届いているんですね。







手前の垂れ幕はお供え台に掲げられたもの。
金の刺繍文字「天上聖母」は媽祖様の別名。
海の神様としてあがめられ、航海のときには一緒に船に乗せ、
停泊すると、その停泊した土地に降ろして、
そこに祀ったそうです。





◆観音堂◆



現在のものは大正6年(1917)に、
当地の華僑によって改修されたものだそうですが、
手前に写る入口のアーチは創建当時のものと言われているそうです。
もっともつなぎは後年の補修だと思います。







堂内は全て真っ赤に塗装され、内壁も赤い煉瓦製です。
ご神体を祀るスペースが2つあり、
右側には小さいながら綺麗な白亜の観音様が祀られています。
それはそれで良いんですが、
左側の妙にリアルな彫像が気になります。







関帝、すなわち関羽ですね。
それにしても凄い顔立ちです。
ドレッドの髭を右手で持ち上げてるのも驚きです。
観音様といえば仏様、そして関帝といえば商売の神様。
日本で言えば、
観音様の隣に菅原道真が祀られている様な感じじゃないでしょうか。

中国での神仏混合がどういう状況かはわかりませんが、
日本での神仏混合はあまりみかけません。
特に堂内に隣り合わせで神様と仏様というのは珍しいのではないでしょうか。
真っ赤な空間とともにエキゾチックです。

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長崎さるく #08 唐人屋敷跡1

2009-04-16 07:25:48 | 長崎さるく
シリーズでお送りしている長崎ひとりさるく。
これまでの道順をおさらいマップにしてみました。

マップを見てもらうとおわかりのように、
丸山花街跡から梅香崎天満宮と歩いてくると、
その先にあるのが唐人屋敷跡です。

「唐人屋敷」・・・名前くらいは聞いた事があるものの、
今までまったく気にする事がなかったエリアです。
唐人というからには中国人が住んでいたんでしょうが、
では唐人屋敷とはどんなとこなんでしょうか?


唐人屋敷入口の解説板より

丸山応挙画と言われる「長崎港之図」に描かれた長崎は、
北から南を上空から見た想像図でしょうか。
中央左寄りの細長い屋根が密集している所が唐人屋敷。
右下の海に浮かぶ四角い埋立地が「新地」と呼ばれた場所でしょうか。
新地は現在では中華街となっている一帯です。
Mapion

そして船が停泊しているあたりの陸地が、
「居留地」と言われた場所だと思います。

出島同様、鎖国時代に
貿易商を中心とした中国人が住んでいた唐人屋敷。
その敷地は出島の約2.5倍の広さがあり、
2,000人~3,000人も収容できる屋敷が並んでいたそうです。
それでは屋敷跡を歩いてみることにします。



敷地の真北に位置する入口から入ると、まず市場があり、
その横の路地にはエキゾチックな空間が広がります。
Mapion
丸金温泉は、丸山の記事でアップした山頭温泉同様、
温泉ではなく銭湯のようですが、こちらも現役です。







かつてこのブログでアップした台湾を思い起こす、
日本とは思えない光景です。







温泉前の道を先へ進むと屋台的バラックの商店などもあります。
建物の表向きは木造ですが、どうやら
その奥に建つ年季の入った煉瓦造りの建物と合体しているようです。
Mapion







唐人屋敷の敷地の周囲にはかつての堀の跡も残っています。
唐人屋敷は基本的には練塀と竹矢来(たけやらい Yahoo!辞書)で囲われていたようですが、
一部には堀もあったようです。

堀跡に張出した家の造りは、
この長崎ひとりさるくシリーズの最初にアップした、
銅座川沿いの家並みを連想します。

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長崎さるく #07 大徳寺跡

2009-04-15 01:39:19 | 長崎さるく
前回までアップした丸山花街。
ぐるっと一周してこの「長崎ひとりさるく」シリーズの
最初の記事の場所へ戻りました。

最初の記事の一番最後の画像の奥に写る階段。> Mapion
これは「忍び坂」と呼ばれ、
表門から堂々と帰ることをはばかった、丸山で遊んだ人が、
ひっそりと帰った坂道だそうです。

坂の先には大きな楠を祀った楠稲荷神社があり、
その奥にかつてあった寺の名前だけが残る、
大徳寺公園が広がっています。



公園の中腹にある「梅ヶ枝焼餅」の店「菊水」の
大正5年(1916)築の木造建物が、
一気にタイムスリップさせてくれます。
明治20年(1887)に販売を開始した梅ヶ枝焼餅。
当時は3軒あったそうですが、今ではこの1軒だけです。
梅ヶ枝焼餅は、餅と言っても一般的な餅程弾力はなく、
また饅頭の皮程やわらかくもない、
程よい腰のある素朴な衣に上品な味の餡が入ったスゥイーツで、
一番近いのは鯛焼でしょうか。
でも今まで食べた事のない食感ですね。
是非行かれてみてはいかがでしょうか。
庭先の藤棚の下で食べられます。



菊水を先に行くと、
「梅ヶ崎招魂社並同墳墓地跡」の碑と砲弾のモニュメントがあります。
明治開幕の決め手となった戊辰戦争で戦死した藩士を祀った、
招魂社がもともとこの地にあったようです。

更に奥へ進むと梅香崎(これもうめがさきと読みます)天満宮があります。
1600年代後半の創建と言う由緒ある神社で、
その後大徳寺がこの地に移転すると、大徳寺の守護神社として機能し、
大徳寺が移転した後もこの地の鎮守として現存する神社のようです。



綺麗な本殿は別にあるのですが、
本殿の奥、本来神殿がある位置に、現在では廃社が残っています。
少し右に傾いている様に見えると思いますが、
実際ピサの斜塔なみに傾いています。
左から押すと、ドリフのセットの様に、
右へペッちゃんこに崩れそうです。



神殿にしては大きいので、もともとこれが本殿だったんでしょうか。
それにしても回廊の抜け具合、蔦の絡み具合、
かなりきてます。

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長崎さるく #06 丸山遊郭跡4

2009-04-14 16:02:56 | 長崎さるく
前回までアップして来た丸山遊郭。
今日は丸山の話で面白いな、と思った事を2、3。

◆茶屋と揚屋◆

太夫などの遊女が出張する茶屋と揚屋の違いは、
一般的には料理を作れる場所かどうか、
(解りやすく言えば揚屋は料亭、茶屋はケータリング)
だったらしいですが、
丸山の場合は遊女屋に付随してあった料亭を茶屋、
そして独立した料亭を揚屋と言ったそうです。

丸山にあった茶屋は、以前の記事でアップした
「引田屋」の「花月」と、
丸山最大規模の「中の筑後屋」にあった「中の茶屋」
の2軒だけだったそうです。

◆長崎衣装◆

もともと海外との交流をずっと続けた長崎には、
海外からの織物がたくさん流入し、
市内の人の衣装は相当華美だったそうです。
「長崎衣装」とまで言われたその服は、
長崎奉行から華美禁止令が出る程だったそうで、
これにはびっくり。
勿論最もゴージャスだったのは丸山の遊女たちだったそうですが、
彼女達への制限はなかったそうです。

江戸末期、踏絵の時に店先に出てくる遊女の衣装は
ことさら絢爛豪華だったらしく、
それみたさに多くの見物客で賑わったそうです。

◆花街文化◆

明治に入ると遊郭は貸座敷、遊女を娼妓と改称、
明治後半から昭和の前半にかけて、
料亭の台頭とともに芸妓を中心にした
花街文化へと移行して行ったそうです。

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