黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

東京暗渠:神田川支流 #23

2006-06-16 01:59:05 | ・東京暗渠
…∽ 初台東分水 1 ∽…

新宿の西部から渋谷区北部一帯を流れていた神田川支流の暗渠を、
現存する橋を中心にアップしています。

4日前にアップした氷川橋まできた所で、
その近辺で合流していた支流のさらに支流をアップしています。
昨日までは氷川橋近辺へ流れ込んでいた2つの川筋のうち、
西側のものをアップして来ましたが、
今日は東側の川筋です。

『明治末葉農村幡ヶ谷地図』には、
氷川橋のすぐ隣へ流れ込んでいるように書かれていますが、
あたりを探しても川筋らしき暗渠道はありません。→Mapion
おそらく氷川橋と交差する道の片隅に流れていたものが、
埋められた後、道と一体化してしまったんだと思います。

明治末葉の地図をたよりに道をすすんでみますが、
結局東京水道通りまで川筋跡らしき暗渠はみあたりませんでした。
東京水道通りと交差する位置に、
明治末葉地図には大トンネルと書かれた、
ギリシャ神殿風の柱が印象的な本村隧道があります。→Mapion



上に記したMapionを見ると、
一昨日アップした本町隧道が左端に見えると思います。
本来、本町隧道の方が古かったんではないかと思いますが、
一昨日の記事でアップしたように、
小トンネルの方は現在では塞がれ本町隧道に変わっているので、
現存する隧道としては、この本村隧道の方が古いのだと思います。

隧道を抜けて道を迂回すると、
川筋跡らしき暗渠道がはじまります。
石の摩耗具合からして、
川だった時代に川へ降りる為のものだったんではないか、
と思われる感じの階段がありました。Mapion



明治末葉の地図を見ると、
その先にこの川筋の源流の一つ、洗旗(あらはた)池が書かれています。
かつてこの一帯には沢山の清水池があり、
それらから流れ出した小さな川が徐々に集まって、
やがて神田川支流へ流れ込んでいたらしいですが、
洗旗池はその中でも規模が大きそうなので、
もしや現在でも残っているのかと思い探してみました。

結局あったのは石碑だけでしたが、
他の池が何の痕跡も残していないこの地域にあって、
石碑が残っているというだけで
この池がそこそこ意味のある池だった事がわかります。→Mapion



画像中央の草むらの中にどーんとある石が石碑ですが、
なぜか道に背中を向けています。
横に立つ由来板が道の方を向いているのをみると、
もともとは道と反対側から石碑を見られるようになっていたのだと思いますが、
現在は高知新聞の寮の敷地の一部になってしまってます。

源義家が白旗を洗ったことから命名されたという洗旗池。
その真偽は例によって確かではないそうですが、
神田川支流が埋め戻された昭和39年(1964)の前年に埋め立てられ、
後ろを向いた石碑に残されている洗旗池の文字は、
東郷平八郎氏のものだそうです。



なんで東郷氏の文字が残されているのか。
由来板によると、ただ「明治38年にここで遊んだ」からだそうです。
たったそれだけで石碑が残るなんて・・・

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東京暗渠:神田川支流 #22

2006-06-15 01:47:56 | ・東京暗渠
…∽ 初台西分水 3 ∽…

新宿の西部から渋谷区北部一帯を流れていた神田川支流の暗渠を、
現存する橋を中心にアップしています。

昨日アップした本町隧道の横でとぎれた川筋は、
隧道をくぐって、途切れた場所から隧道と同じくらいの距離の所から、
再び続いています。→Mapion



壁に落書きのある廃アパートの横を流れる川筋は、
いつごろまで水が流れていたのでしょうか。
暗渠もだいぶ狭く、もうすぐ終わりが近づいている感じがします。

しばらく進むと総板張りの木造民家がありました。
その造りから相当古いモノだと思いますが、
手入れが行き届いていて、あまり古さは感じません。
2階に張り出した部屋は恐らくトイレだと思いますが、
外から見ると不安です。→Mapion



さらに進むと、
その昔倉庫か工場などに使われていた建物を転用した感じの
駐車場があります。→Mapion



トタンの錆具合、ツタのからみ具合、いい感じです。

駐車場の横の川筋を更に進むと、
緩やかな上り坂になり、やがて甲州街道へ抜けます。→Mapion
『幡ヶ谷郷土誌』掲載の『明治末葉農村幡ヶ谷地図』を見ると、
甲州街道を越えて更に少し南下したところから、
この川筋は流れ出しているように書かれていますが、
甲州街道を越えると、それらしき道はいくつもあるものの、
どれが暗渠道なのかははっきりとわかりません。

更にMapionをご覧になるとわかると思いますが、
現在緑道となっている玉川上水と同じ感じの緑道が、
少し東寄りから分かれて甲州街道沿いに作られていています。
『明治末葉~地図』にはこの緑道も川筋として書かれていて、
今日まで見てきた初台西分水とこの川筋は交差していますが、
特に段差のない場所で川と川が交差するとはどういうことか。
川が十字路状に合流するということなのか?

しかしこの交差地点を実際に見ると、
緑道の方に橋がかかっていた跡があります。→Mapion
つまり初台西分水の延長線上の道は
もともと道だったのではないかということになり、
結局初台西分水の源流はわからずじまいという感じです。

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東京暗渠:神田川支流 #21

2006-06-14 03:05:05 | ・東京暗渠
…∽ 初台西分水 2 ∽…

新宿の西部から渋谷区北部一帯を流れていた神田川支流の暗渠を、
現存する橋を中心にアップしています。

昨日からは神田川支流のさらにまた支流の初台地域を流れる川筋をアップしています。
昨日アップしたレトロ写真館の付近をうろうろしてみると、
終わりかけのアパートの裏に忘れかけの空地があったりします。
川筋見学の以前にこの界隈を晩秋に散歩した時の画像がありました。
空地にはめいっぱい枯葉が積もっています。



再び支流の支流にもどって、
昨日の記事で触れた不動通りを越えると、
また川筋然とした道がはじまります。→Mapion



両側にせまる住宅の幅からして、
この川筋は相当狭かったことが想像できます。
おそらく晩年は川というより、
生活用水を流し込んでいたドブ川だったんではないかと思います。

Mapionのマーキングした位置の地図をみると、
南に帝京短大があって、その右に「本町6」の表示があると思います。
Mapionでは、「本町」と「6」の文字の間に書かれている細い道が、
18→19→24→22番地と、とぎれとぎれになっていますが、
実際はこの記事の2枚目の画像の位置からずっと繋がっています。

やがて暗渠道はその昔の玉川上水新水路、
現在の東京水道通りにつきあたります。
おそらく当時は新水路の下を通過していたと思うトンネルは、
今では残っていません。
残っているのはすぐ横にある隧道だけです。→Mapion



トンネルは本町隧道
画像の上に通っている道が東京水道通りです。

江戸時代から東京の水を供給してきた玉川上水が、
明治に入って老朽化し、
その結果水質悪化で起こったコレラの大流行を機に計画されたのが、
玉川上水新水路でした。
しかし高い築堤と淀橋浄水場の建設とともに竣工した近代上水は、
結局は東京都のためのもので、
幡ヶ谷の村人たちは綺麗な水を指をくわえて眺めながらの、
あいかわらずの井戸水生活だったそうです。
更に高い築堤が村を寸断してしまい、結局この新水道は、
幡ヶ谷の村人たちにとってはいい迷惑以外のなにものでもなかったそうです。
東京最優先の行政が作り出す弊害。。。
この神田川支流の特集の最初の頃に触れた、
都庁と都営大江戸線の開通で終焉を迎えた、
みのり商店街の仲乃すしのおかみさんの話を思い出しました。

本町隧道のすぐ横には、
塞がれたかつての隧道の遺構が残っています。→Mapion



『幡ヶ谷郷土誌』掲載の「明治末葉幡ヶ谷地図」には、
現在の本町隧道はまだ書かれてなく、
この塞がったトンネルの位置に「小トンネル」と書いてあります。

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東京暗渠:神田川支流 #20

2006-06-13 01:23:02 | ・東京暗渠
…∽ 初台西分水 1 ∽…

新宿の西部から渋谷区北部一帯を流れていた神田川支流の暗渠を、
現存する橋を中心にアップしています。

『幡ヶ谷郷土史』掲載の「明治末葉幡ヶ谷地図」をみると、
昨日アップした氷川橋の近辺から、
2本の南下する川筋が書かれています。
しばらくは神田川支流の本流(←変な言い方ですが)を離れて、
この分水というか、支流の支流というか、
そこらへんを見て行こうと思います。

ちなみに「初台西分水」という表現は、
2本の南下する川筋がいずれも初台近辺を流れていて、
東西にあるので便宜上つけた名前です。

東分水は、明治末葉地図をみると、
氷川橋のすぐたもとから分かれているように書いてありますが、
氷川橋の近辺をみても川筋跡らしき小道がみあたらなかったので、
それらしき道筋が現存する西分水から見て行こうと思います。

氷川橋から少し遡ると、南へ進む小道があります。→Mapion



ここがおそらく初台西分水のスタート地点だと思いますが、
しばらくは川跡らしきそぶりもない道が続いて、
やがて初台の北にある由緒ある不動尊に因んだ不動通りへ抜けます。
不動通りへ抜ける付近には、
弘法大師を祀った小さな祠がありますが、
祠の裏にある民家の人が綺麗に手入れをしていて、
今でも地元に密着した祠なことがわかります。→Mapion



すこし進むと超レトロな写真館がありました。→Mapion



ここは、川筋見学以前にも何度か通ったことがある場所で、
玄関の前に置かれた植木鉢がどかされていた事は一度もないので、
たぶん仕舞屋なのでしょう。
TOKYO RHOTO SERVICE の文字がいい感じの手書き感ですが、
これは画像処理のせいではなく、実際もこのまんまです。

入口に近づいてみると、
内外クラシックカメラ店 大正十年創業
と書いてあります。



もし営業していたら覗いてみたいような店ですが、
やってないのは残念です。
ショーウインドウの中のサンプルが、
朕様の写真なのが泣かせてくれます。

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東京暗渠:神田川支流 #19

2006-06-12 02:39:27 | ・東京暗渠
…∽ 氷川橋 ∽… 昭和6年 (1931) 竣工

新宿の西部から渋谷区北部一帯を流れていた神田川支流の暗渠を、
現存する橋を中心にアップしています。

酒呑地蔵尊のある地蔵橋の次には、
新宿区のエリアにあった柳橋と同じ漢字の柳橋がありますが、→Mapion
平成6年(1994)に作り替えられたこの橋は面白みがないのでとばします。

次にあるのは近隣の氷川神社にちなんで命名された、
氷川橋です→Mapion



昭和6年に掛け替えられたこの橋は、
すでに欄干などはなく、残存する地覆の上に、
黒と黄色で塗装された鉄パイプがあるだけです。

橋を少し北上したところにある氷川神社は、
歴史も規模もそこそこありそうな神社です。



東京暗渠:神田川支流 #13でアップした弁天橋の時に触れた弁天様は、
その後この特集の最後の頃に取り上げる神社へと移されますが、
最終的には大正8年(1919)にこの氷川神社に移転され、
今も摂社として境内にあります。
その昔、この川筋の運命を握った弁天様の話は最後の記事でするとして、
それほどこの地域にとって重要だった筈の弁天様の摂社は、
今では境内の片隅に忘れられたような状態で佇んでいます。



横長の屋根の下には柱ごとに違う神社の札が掲げられ、
それぞれの祠がありますが、
どれもこれも無造作に網がかけられ、
近づいてみると、荒れ放題の放置状態です。
長年の埃が積もり、七福神らしき彫像やご神体と思われる鏡が、
外に放り出されているものもあります。
問題の弁天様を祀った祠は赤い鳥居の隣にありますが、
札には本来の「市寸島(いつくしま)神社」ではなく、
「厳島神社」の文字がかかれてあります。

かつてはこの摂社エリアをお参りできるようにしていたのか、
中央に小さな狛犬も対でおかれてありますが、
今ではその目の前にが駐車場になっているため、
お参りどころではありませんね。



摂社の放置状態といい、
昔から地元の信仰を集めていたという以外、
その由来も創建の年もいっさいわからない(『幡ヶ谷郷土誌』)という、
謎の神社です。

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東京暗渠:神田川支流 #18

2006-06-11 03:44:32 | ・東京暗渠
…∽ 地蔵橋 ∽… 昭和36年 (1961) 竣工

新宿の西部から渋谷区北部一帯を流れていた神田川支流の暗渠を、
現存する橋を中心にアップしています。

橋のたもとに地蔵尊があることからその名前が付けられた、
地蔵橋です。→Mapion



昨日アップした新橋同様、
当初から使われていたと思われる具合の橋名プレートが、
作り替えられたと思われるコンクリの角柱に埋め込まれています。
橋のたもとの竣工年プレートをみると昭和36年 (1961) とあるので、
近年表面を掃除したのでしょう。真新しいコンクリでした。

画像からもわかるように、
祀られているお地蔵さんは酒呑地蔵というものですが、
妙な名前です。
入口に掲げられた由来板を読むと、
宝永5年 (1708) 年に四谷からこの地へ来た
中村瀬平という人の勤勉さをたたえた村人の招きで、
31歳の正月に生まれて初めて呑んだお酒に泥酔して、
この橋のたもとでおぼれ死んだのを供養して作られた地蔵尊のようです。
昭和の初期には子育て地蔵尊としても信仰を集め、
祭の日には夜店が出るほど賑わい、
今でも地元の人々や古くからの信者による線香の煙が絶えないというのは、
祠の周りに沢山並ぶノボリをみてもわかります。



ちなみに橋名プレートが埋め込まれた、
橋らしい形をしているのは下流側だけで、
祠のある上流側は、地覆はあるものの、
その上には黄色と黒の鉄パイプが設置されています。
そして、これ以降の橋は軒並みこの状態のものが続きます。

堂内も綺麗に整備され、
両壁には寄進札や祈願札が所狭しと並んでいます。



ところで祠の横に立つ由来板は渋谷区教育委員会のものなので、
同じく渋谷区編纂の『渋谷区の橋』には、
由来板とほぼ同じ内容のことが書かれていますが、
『幡ヶ谷郷土誌』を読むと、似たところはあるものの、
細かなディテールが大きく違う内容がかかれています。
同じなのは溺死した中村氏の出身地が四谷ということと、
事件が起きたのが宝永5年というだけで、
あとは中村氏の名前が瀬平ではなく満平だし、
中村満平は大酒呑みだったと書かれています。
更にいくら泥酔していたとはいえ、
ただでさえ水量が少ない上に冬枯れの時期のこの川に落ちて、
致命傷を負うことはとうてい考えられず、
また死後の供養地蔵を建てられるのは、
よほどの財産家の出でない限り困難な事から、
本来地蔵尊は、一介の職人だった中村氏のものではなく、
辻斬りにあったか行き倒れになった、
資産家の血筋を引く者に違いないと言い切ってます。

『渋谷区の川』は平成8年 (1996) 刊、
『幡ヶ谷郷土誌』は昭和53年 (1978) 刊なので、
渋谷区教育委員会がこの幡ヶ谷郷土誌を読んでないわけはないと思います。
だとすると、その後の調査によって、
地蔵尊は中村瀬平氏のものだという結論になったのでしょうか。

以前にアップした川崎の夜光町の名前の由来に、
海中に光る弘法大師の像を引き上げた平間兼乗伝説と、
漁から帰らぬ父を待ちながら死んだ娘の松明に因んだ不知火の松伝説があるように、
民間伝承は謎に満ちています。

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東京暗渠:神田川支流 #17

2006-06-10 01:31:03 | ・東京暗渠
…∽ ? 橋 ∽…

新宿の西部から渋谷区北部一帯を流れていた神田川支流の暗渠を、
現存する橋を中心にアップしています。

今日は小学校の裏門から続く名前の判らない橋です。→Mapion



この暗渠沿いの殆どの橋が、
暗渠と橋を通る道の高さに段差がないため、
かつて川だった事を感覚的に想像するのは難しいですが、
ここは珍しく橋と暗渠にかなりの段差が残っています。

親柱に橋名がありませんが、ちゃんと橋の形として残っているので、
きっと「なんとか橋」、例えば「学校橋」とか呼んでいたのかなと思い、
橋のたもとにあった、その昔からやってそうな店の人に聞いてみましたが、
全くわかりません。
後日、学校に電話をして尋ねてみると、
電話に出てくれたのはなんと校長先生で、
判り次第電話をもらう約束を取り付けました。
後日電話があり、
卒業生で自治会の会長さんをしておられる方にまで聞いて頂いたようですが、
結局誰も知る人はいなかったそうです。

渋谷区教育委員会編纂の『渋谷区の橋』には、
この暗渠沿いにかつてあった、
今では影も形もなくなってしまった橋も沢山載っていますが、
形がしっかり残っていながら全く触れていないのは、
この橋と、後日アップする予定の橋の2つだけです。

学校を越えて少し進むと、
マンホールに「空気抜き」とかいてあって、
通常のマンホールにはない小さな穴が沢山あいています。



橋の名前を知りたくて下水道局にも電話をしましたが、
その際にこの空気抜きについても聞いてみると、
そのマンホールがある所には強力な空気圧で大量の水を一気に押し流す、
ジェットなんとか(難しくて覚えきれません)
という装置があるはずだということでした。

また川沿いの民家の塀に沿って、
小さめのボールをひっくり返したような形の、
分厚い鋼鉄製の装置らしきものが点々と配置されています。



おそらくこれも下水関係のものかと思って尋ねましたが、
もはやこれは広報のレベルではなんだか判らないもののようでした。
って、普通、そんな問い合わせ、あるわけないですよね

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東京暗渠:神田川支流 #16

2006-06-09 01:35:23 | ・東京暗渠
…∽ 新 橋 ∽… 昭和15年 (1940) 竣工

新宿の西部から渋谷区北部一帯を流れていた神田川支流の暗渠を、
現存する橋を中心にアップしています。

昭和15年、第二次大戦の前夜に架け替えられた時に、
旧名を廃して名付けられたといわれる新橋です。→Mapion



恐らくそれ以前の橋は、現存する他の橋のように、
親柱や束柱に、ちょっとしたデザインが施されていたんではないかと思いますが、
現存するものは、ただのコンクリの角柱に、
橋名のプレートが埋め込まれただけのものです。

ただ、この緑青がいい感じに浮き出たプレートは、
恐らくそれ以前から使われていたものを
再度埋め込んだのかもしれないと思います。



明治時代、この川筋にはいくつも水車があり、
この新橋付近にあった水車は直径4.5mもある巨大な水車で、
6基の臼をついていたそうですが、
田んぼ同様、今ではまったくその面影はありません。

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東京暗渠:神田川支流 #15

2006-06-08 07:56:04 | ・東京暗渠
…∽ 本村橋 ∽… 平成18年 (2006) 竣工

新宿の西部から渋谷区北部一帯を流れていた神田川支流の暗渠を、
現存する橋を中心にアップしています。

今年の3月に作り替えられた新品の橋、本村橋です。→Mapion



まだ橋の周囲は工事の後片づけの状態が少し残っていますが、
2日前にアップした観音橋しかり、
既に川ではなくなった今、
橋をあえて新しく作り替えているところが何カ所かあります。
何年かおきに作り替えているところをみると、
恐らく今後も少しずつ橋をモニュメントとして残していくのかと思いますが、
しかし何故そこまでして用のない橋を残しているのか不思議です。
特にこの橋は、もう橋の形は残ってなく、
純粋にモニュメントとしての役割しかない形です。



橋のすぐ脇にある灯油屋さんの塀沿いに、
配達用の自転車が停まっていました。
荷台に取り付けられた、恐らく灯油の缶をのせる板だと思いますが、
年季が入っていい具合です。



橋の名前にある「本村」は、この付近のもともとの土地名で、
今では本町(ほんまち)と呼ばれる一帯です。
『幡ヶ谷郷土誌』掲載の、「明治末葉農村幡ヶ谷地図」をみると、
渋谷区に入ってすぐの杢右衛門橋からこの川筋の最上流まで一帯が、
「長田圃」と呼ばれる田園地帯だったように書かれています。
勿論今では、田圃はどこにもありませんが、
かつてこの暗渠が実際に川だった時代には、
極めて細い流れのこの川が、
両岸に広がる田園地帯を潤す唯一の水脈だったそうです。

橋の周囲には、新宿区の橋の時にアップした、
みのり商店街よりも遙かに規模の小さい商店街が広がっていますが、
特に商店街の名前を明示したモノはなにもありません。



看板に残る3桁の市内局番、
灯油屋さんが同時に経営する薬局の店先に残る、
「楽しい家族計画」の自動販売機、
ここも時が止まった町です。

フジテレビの定番番組『世にも奇妙な物語』の、
何年か前にオンエアされた渡辺謙主演のエピソードを時々思い出します。
大企業の社長になった渡辺謙が町をまるごと買い取り、
昭和のよき時代をエキストラまで使って再現しますが、
それは渡辺兼の青春時代の思い出の町で、
そこにふらっと立ち寄った渡辺兼が、
やがてその町で犯した恋人の殺人を、
自ら作ったバーチャルの町で告白してしまうという内容です。

神田川支流の暗渠を進んでいると、
何回となくそのドラマのことを思い出します。

で、ドラマとは全く関係ないですが、
暗渠の至る所にある通気口でしょうか。
3つのスリットがはいった小さな鉄の蓋が、
結構いい具合です。



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東京暗渠:神田川支流 #14

2006-06-07 00:52:22 | ・東京暗渠
…∽ 村木橋 ∽… 昭和30年 (1955) 竣工

新宿の西部から渋谷の北部一帯を流れていた神田川支流の暗渠を、
現存する橋を中心にアップしています。

弁天橋の次には、上広がりの団扇のような形の束柱が印象的な、
村木橋があります→Mapion



渋谷区に入ると、親柱や束柱はコンクリ製なのに、
欄干が鉄パイプ製のものが殆どです。
この鉄パイプが当初からそうだったのか、
後年に付け替えられたものなのかはわかりません。

この暗渠に残る橋はどれも欄干が低く、
前回アップした観音橋をのぞくと、殆どが膝下位の高さのもので、
人が落ちないためというよりは、
車の脱落防止のためのものだったんではないかと思います。



夕暮れ時にこの近辺をうろうろしていると、
どこからともなく豆腐売りのラッパの音が聞こえてきます。
ここではまだ懐かしの豆腐の行商が残っているんですね。

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東京暗渠:神田川支流 #13

2006-06-06 01:08:45 | ・東京暗渠
…∽ 弁天橋 ∽… 平成14年 (2002) 竣工

新宿の西部から渋谷の北部一帯を流れていた神田川支流の暗渠を、
現存する橋を中心にアップしています。

今日はつい最近造り換えられた弁天橋です。→Mapion



『渋谷区の橋』に載っている写真を見ると、
もともとの弁天橋は束柱が綺麗に並ぶ、
神田川支流の中では一番派手な造りの橋だったようですが、
現在では当時をしのぶ面影はありません。

弁天橋の名前の由来は、
かつてこの橋が架かる道の先に
市寸島(いつくしま)神社、通称、弁天神社があったので、
そう呼ばれたそうですが、
実はこの弁天神社に祀られた弁天様が、
この名もなき川筋の運命を左右する重要な役割を果たすなんて事は、
最初にこの暗渠を遡った時には知る由もないことでした。

これから見て行くいくつかの橋に関わり、
同時にこの川筋の周囲に生活した人々の生死を握った弁天様については、
おいおいアップしていこうと思います。

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東京暗渠:神田川支流 #12

2006-06-05 04:42:34 | ・東京暗渠
…∽ 二軒家橋 ∽… 大正13年 (1924) 竣工

新宿の西部から渋谷の北部一帯を流れていた神田川支流の暗渠を、
現存する橋を中心にアップしています。

渋谷区に入って大通り沿いの2つの橋を越えると、
また住宅街の間をぬうように川筋は続いていきます。
清水橋の次には杢右衛門橋Mapionという橋もあったそうですが、
現在では撤去され、殆どわかりません。
次に橋の形をとどめているのは、
二軒家橋という橋でした。→Mapion



大正13年竣工は、以前アップした「榎橋」同様、
この川筋で残存する橋の中では最も古いものです。
渋谷区教育委員会発行の『渋谷の橋』をみると、
二軒家橋の名前は、近辺の土地の旧名にちなんでいるそうですが、
親柱に残る僅かに確認できる橋名をみると、
「二軒」ではなく「二杵」と彫ってあるようにみえるのは、
永年の磨耗と削れによるものかと思います。



上画像は上流側、下画像は下流側ですが、
下流側の親柱は倒壊してしまったのか、
ただの柱状のコンクリです。



新宿区と同様、渋谷区に入っても、
暗渠の上は車が侵入できない遊歩道になっていますが、
新宿との大きな違いは、
カラフルな遊技具や侵入防止柵がないことです。
暗渠自体は都下水道局の管理ですが、
暗渠の上は区の公園緑地課などの管轄なので、
新宿区と渋谷区の、街づくりに対する考え方の違いが見えるようです。

遊歩道には、いい具合のベンチが幾つか並んでいました。



◆東京暗渠:神田川支流◆
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東京暗渠:神田川支流 #11

2006-06-03 00:37:37 | ・東京暗渠
…∽ 大関橋・清水橋 ∽…

新宿区の西、淀橋地区を流れていた神田川支流の暗渠を、
現存する橋を中心にアップしています。

都営大江戸(石原)線の西新宿5丁目駅のあるビルの裏側を、
弧を描くように流れいた川筋の、
ちょうど新宿区と渋谷区の境目のあたりです。→Mapion



川はこのあと大きな弧を描いて、
いったん昨日アップした方南通りへ近づきますが、
再び道から離れて行きます。
方南通りに接触するあたりはT字路状になっていて、
Tの字の足の付け根に人が渡るための橋と、
Tの字の上の横棒、つまり方南通りぞいの両側に、
フェンス状の橋が設置された、
ちょっと変わった橋、大関橋がありましたが、
方南通り拡張の際に、
コンクリ製の橋は撤去されてしまったようです。→Mapion



やがて川筋は環状六号線、通称山手通りへつきあたります。
山手通りは今、地下高速道路の建設中で、
あたりは建設用の施設が所狭しと立ち並んでいます。



山手通りと方南通りの交差点からすこし南にあった清水橋Mapionは、
橋の長さが2m強なのに、幅が20m以上もある、
殆ど橋としての機能を備えていない橋だったようですが、
これも高速道路の工事のため、撤去されてしまっています。

清水橋の由来は、その昔この一帯に清水が湧く池があったそうですが、
いまでは影も形もありません。

◆東京暗渠:神田川支流◆
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東京暗渠:神田川支流 #10

2006-06-02 00:25:58 | ・東京暗渠
…∽ 交和橋 ∽…

新宿区の西、淀橋地区を流れていた神田川支流の暗渠を、
現存する橋を中心にアップしています。

ゆっくりみてきた神田川支流の橋も、
新宿区で最後の橋まできました。
方南通りの拡張の際に恐らく撤去され、
鉄パイプになってしまった交和橋です。→Mapion



橋のたもとから新宿方面をみています。
この一帯も以前は、
新宿ノーザンウエストの特集でアップしたような
レトロな雰囲気の街並でしたが、
さすがに幹線道路は開発の進みがはやいのか、
随分と綺麗な街に生まれ変わっています。



歩道も綺麗に舗装され、
チェーン展開するカニ料理屋も、そんなに古くはありません。

横断歩道を渡ると、再び続く川筋は、自転車置き場に転用されています。
柳橋の周囲にあった古い商店街を没落に追い込んだ、
都営大江戸(石原)線の西新宿5丁目駅の裏を緩やかに蛇行して、
やがて渋谷区へ入って行きます。



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東京暗渠:神田川支流 #09

2006-06-01 00:45:10 | ・東京暗渠
…∽ 榎 橋 ∽… 大正13年 (1924) 竣工

新宿区の西、淀橋地区を流れていた神田川支流の暗渠を、
現存する橋を中心にアップしています。

一つ前の柳橋に比べると、手摺の部分が少し張り出してるだけの、
なんの飾りもない素朴な橋、榎橋があります。→Mapion



橋自体は面白みがありませんが、
親柱の位置に残る竣工年月をみると、
大正13年3月竣工と彫ってあります。
最初の頃にアップした昭和13年築の長者第一號橋より、
さらに古い橋です。

いまのところ見てきた橋の親柱には、
漢字名だけが彫られたものばかりでしたが、
この榎橋の片方には平仮名が彫ってあり、
それもかなり流暢な自体です。

橋のたもとは最近開発されたのか、
新しめのデザインのコンクリ打ちっぱなしのアパートが建っています。



打ちっぱなしのコンクリと木材を融合させた造りは、
印象的には全然違いますが、
軍艦島の島内にある、
鉄筋コンクリートと長屋の路地を合体させたような造りの、
大正時代のアパートを思い出させてくれます。

進行方向に残る橋の左側には
漢字の榎橋の文字が彫られていますが、
電柱と民家の敷地からはみ出した植物で殆どみえません。



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