…∽ 初台東分水 1 ∽…
新宿の西部から渋谷区北部一帯を流れていた神田川支流の暗渠を、
現存する橋を中心にアップしています。
4日前にアップした氷川橋まできた所で、
その近辺で合流していた支流のさらに支流をアップしています。
昨日までは氷川橋近辺へ流れ込んでいた2つの川筋のうち、
西側のものをアップして来ましたが、
今日は東側の川筋です。
『明治末葉農村幡ヶ谷地図』には、
氷川橋のすぐ隣へ流れ込んでいるように書かれていますが、
あたりを探しても川筋らしき暗渠道はありません。→Mapion
おそらく氷川橋と交差する道の片隅に流れていたものが、
埋められた後、道と一体化してしまったんだと思います。
明治末葉の地図をたよりに道をすすんでみますが、
結局東京水道通りまで川筋跡らしき暗渠はみあたりませんでした。
東京水道通りと交差する位置に、
明治末葉地図には大トンネルと書かれた、
ギリシャ神殿風の柱が印象的な本村隧道があります。→Mapion
▼
上に記したMapionを見ると、
一昨日アップした本町隧道が左端に見えると思います。
本来、本町隧道の方が古かったんではないかと思いますが、
一昨日の記事でアップしたように、
小トンネルの方は現在では塞がれ本町隧道に変わっているので、
現存する隧道としては、この本村隧道の方が古いのだと思います。
隧道を抜けて道を迂回すると、
川筋跡らしき暗渠道がはじまります。
石の摩耗具合からして、
川だった時代に川へ降りる為のものだったんではないか、
と思われる感じの階段がありました。Mapion
▼
明治末葉の地図を見ると、
その先にこの川筋の源流の一つ、洗旗(あらはた)池が書かれています。
かつてこの一帯には沢山の清水池があり、
それらから流れ出した小さな川が徐々に集まって、
やがて神田川支流へ流れ込んでいたらしいですが、
洗旗池はその中でも規模が大きそうなので、
もしや現在でも残っているのかと思い探してみました。
結局あったのは石碑だけでしたが、
他の池が何の痕跡も残していないこの地域にあって、
石碑が残っているというだけで
この池がそこそこ意味のある池だった事がわかります。→Mapion
▼
画像中央の草むらの中にどーんとある石が石碑ですが、
なぜか道に背中を向けています。
横に立つ由来板が道の方を向いているのをみると、
もともとは道と反対側から石碑を見られるようになっていたのだと思いますが、
現在は高知新聞の寮の敷地の一部になってしまってます。
源義家が白旗を洗ったことから命名されたという洗旗池。
その真偽は例によって確かではないそうですが、
神田川支流が埋め戻された昭和39年(1964)の前年に埋め立てられ、
後ろを向いた石碑に残されている洗旗池の文字は、
東郷平八郎氏のものだそうです。
▼
なんで東郷氏の文字が残されているのか。
由来板によると、ただ「明治38年にここで遊んだ」からだそうです。
たったそれだけで石碑が残るなんて・・・
◆東京暗渠:神田川支流◆
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新宿の西部から渋谷区北部一帯を流れていた神田川支流の暗渠を、
現存する橋を中心にアップしています。
4日前にアップした氷川橋まできた所で、
その近辺で合流していた支流のさらに支流をアップしています。
昨日までは氷川橋近辺へ流れ込んでいた2つの川筋のうち、
西側のものをアップして来ましたが、
今日は東側の川筋です。
『明治末葉農村幡ヶ谷地図』には、
氷川橋のすぐ隣へ流れ込んでいるように書かれていますが、
あたりを探しても川筋らしき暗渠道はありません。→Mapion
おそらく氷川橋と交差する道の片隅に流れていたものが、
埋められた後、道と一体化してしまったんだと思います。
明治末葉の地図をたよりに道をすすんでみますが、
結局東京水道通りまで川筋跡らしき暗渠はみあたりませんでした。
東京水道通りと交差する位置に、
明治末葉地図には大トンネルと書かれた、
ギリシャ神殿風の柱が印象的な本村隧道があります。→Mapion
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上に記したMapionを見ると、
一昨日アップした本町隧道が左端に見えると思います。
本来、本町隧道の方が古かったんではないかと思いますが、
一昨日の記事でアップしたように、
小トンネルの方は現在では塞がれ本町隧道に変わっているので、
現存する隧道としては、この本村隧道の方が古いのだと思います。
隧道を抜けて道を迂回すると、
川筋跡らしき暗渠道がはじまります。
石の摩耗具合からして、
川だった時代に川へ降りる為のものだったんではないか、
と思われる感じの階段がありました。Mapion
▼
明治末葉の地図を見ると、
その先にこの川筋の源流の一つ、洗旗(あらはた)池が書かれています。
かつてこの一帯には沢山の清水池があり、
それらから流れ出した小さな川が徐々に集まって、
やがて神田川支流へ流れ込んでいたらしいですが、
洗旗池はその中でも規模が大きそうなので、
もしや現在でも残っているのかと思い探してみました。
結局あったのは石碑だけでしたが、
他の池が何の痕跡も残していないこの地域にあって、
石碑が残っているというだけで
この池がそこそこ意味のある池だった事がわかります。→Mapion
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画像中央の草むらの中にどーんとある石が石碑ですが、
なぜか道に背中を向けています。
横に立つ由来板が道の方を向いているのをみると、
もともとは道と反対側から石碑を見られるようになっていたのだと思いますが、
現在は高知新聞の寮の敷地の一部になってしまってます。
源義家が白旗を洗ったことから命名されたという洗旗池。
その真偽は例によって確かではないそうですが、
神田川支流が埋め戻された昭和39年(1964)の前年に埋め立てられ、
後ろを向いた石碑に残されている洗旗池の文字は、
東郷平八郎氏のものだそうです。
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なんで東郷氏の文字が残されているのか。
由来板によると、ただ「明治38年にここで遊んだ」からだそうです。
たったそれだけで石碑が残るなんて・・・
◆東京暗渠:神田川支流◆
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