面白い経験をしました。
歩いている時、膝の後ろを誰かに軽く手を添えてサポートしてもらうと、
その手が離れてからもしばらくは、
手を添えてもらっていたときの楽な感じが持続するのです。
追い風にのって歩いているような、不思議な感覚。
これは何かというと、サポートしてもらうことによって、
その動きにまつわる無駄な動きが解除されて必要な動きだけになり、
サポートの手が離れた後もそのシンプルな動きが持続するため、
「楽」に感じる。
つまり、もともと歩くという動作は、
普段感じているよりもずっと楽な動作だということです。
それが脳・神経の余計な働きによって、必要以上に複雑化された結果、
負荷がかかっているということですね。
脳の「余計な」働きとは、
生まれてからずーっと今までに積み重なった経験がつくりだした無数の事、
たとえば「手はこうした方がかっこ良い」とか、
「背筋は伸ばさなきゃ」とか、「車にぶつからないようにしよう」とか…
意識に上る上らないにかかわらず、
ただ歩くだけでも、ばかみたいに余計な情報が脳には飛び交うわけです。
そしてそれはいつしか「パターン」となり、
歩くという行為のたびに、うっすらと苔のように張り付いて離れなく
なっているのです。
これがつまり「癖」(くせ)というやつですね。
人間、あらゆる行動、思考においても、
この癖というものからは逃れようがありません。

《緑香庵から見た若林公園の木々》
そこで思い当たったのが私が長年苦労したヴォイストレーニング。
声のトレーニングをする時目指すのは、やはり「癖をとる」ということでした。
(この話、次回に続きます)
歩いている時、膝の後ろを誰かに軽く手を添えてサポートしてもらうと、
その手が離れてからもしばらくは、
手を添えてもらっていたときの楽な感じが持続するのです。
追い風にのって歩いているような、不思議な感覚。
これは何かというと、サポートしてもらうことによって、
その動きにまつわる無駄な動きが解除されて必要な動きだけになり、
サポートの手が離れた後もそのシンプルな動きが持続するため、
「楽」に感じる。
つまり、もともと歩くという動作は、
普段感じているよりもずっと楽な動作だということです。
それが脳・神経の余計な働きによって、必要以上に複雑化された結果、
負荷がかかっているということですね。
脳の「余計な」働きとは、
生まれてからずーっと今までに積み重なった経験がつくりだした無数の事、
たとえば「手はこうした方がかっこ良い」とか、
「背筋は伸ばさなきゃ」とか、「車にぶつからないようにしよう」とか…
意識に上る上らないにかかわらず、
ただ歩くだけでも、ばかみたいに余計な情報が脳には飛び交うわけです。
そしてそれはいつしか「パターン」となり、
歩くという行為のたびに、うっすらと苔のように張り付いて離れなく
なっているのです。
これがつまり「癖」(くせ)というやつですね。
人間、あらゆる行動、思考においても、
この癖というものからは逃れようがありません。

《緑香庵から見た若林公園の木々》
そこで思い当たったのが私が長年苦労したヴォイストレーニング。
声のトレーニングをする時目指すのは、やはり「癖をとる」ということでした。
(この話、次回に続きます)