2012年6月30日
南相馬市や郡山市から新潟に避難されている方々との交流会
小千谷市極楽寺にて
手記 高島さん
~大震災と原発の事故から今までとこれから~
私には子供が3人います。私たち家族が住んでいた福島県郡山市。福島第一原発から直線で55キロの所、四季折々の豊かな自然に囲まれ、そして水と緑がとてもきれいな街です。
2011年3月11日、とても大きな地震がありました。
そしてその後、その影響により福島第一原発の爆発事故が起こりました。
爆発事故が起こったのにも関わらず、私たち家族は避難指示もでないし、大丈夫だろうと、避難は考えませんでした。
私の住んでいた街には爆発の翌日、夕方に降り出した雨により、空から放射性物質がたたき落とされひどく汚染されたといわれています。
当時は地震の影響で断水がまだ続いて、給水車の列に2時間並んだよと言った方。ガソリンを給油する車の列に4時間並んだという方もいます。車が使えないからと自転車で子供と移動した方。
学校の体育館が避難所になっていたので、そこへ避難していた子供たちは校庭で元気に走り回って遊んでいました。
まさか見えない放射能が降っているとも知らないで、私たちは普通に生活を送ってしまいました。
もしも、5年後、10年後、20年後。もしくは子供たちの子供、つまりは子孫に放射能の影響が出たらどうしようかと今から不安に駆られます。
子供たちを放射能の危険から守って上げられなかったこと。
「安全だ」と騙されてしまったこと。
なぜもっと早く逃げなかったのかとても悔やんでいます。
私は避難を決めるまで数ヶ月かかりました。
震災直後、テレビや新聞で報道される原発事故の「安心安全」の情報に、私は原発事故も放射能も、どちらの問題もすぐに解決するものだと勘違いしました。
福島県放射線健康リスクアドバイザーの方の講演会の話では「子供を外で遊ばせて良い」「笑っている人には放射線の影響はない」「100ミリシーベルトは大丈夫」とアドバイスしていました。
3号機の大きな爆発事故からまだ10日も経っていない時でした。
4月に入り、家の近所の高校の校庭では高校生らが野球やサッカーの部活の練習を始め、周りは徐々に普通の生活に戻りつつありました。
数日後小学校の新学期の始業式が行われ、子供たちはマスクをして、肌を露出しないように長袖長ズボン。放射性物質をなるべく付着させないように帽子をかぶりナイロン製のジャンバーを着て学校へ行きました。真夏の暑い日でもその格好で登下校しました。真っ赤な顔をしてたくさん汗をかいて毎日帰って来ました。
5月の連休明けに隠されていた原発事故の重大な情報が報道されました。
「メルトダウンを起こしていた」「【放射能影響予測】SPEEDIが公開されず情報が隠されていた」などの悲惨な真実が報道され、驚き、「本当に福島は安全なのか?」と疑いの気持ちが起こりました。
そんな中、私はインターネットにて「終わりなき人体汚染:チェルノブイリ原発事故から10年」という1996年に放送されたNHKスペシャルのドキュメンタリー映像を見て、かなりの衝撃を受けました。
そのドキュメンタリーの内容は10年たっても放射は人々から大地と家を奪い続けていて、人体への影響が日に日に酷くなっている事。毎週のように人々が亡くなっていること。白血病や小児甲状腺がんになる子供が増えたこと。
甲状腺に出来た癌細胞摘出の為に首に出来るチェルノブイリネックレスと呼ばれる傷跡。その他の色々な健康被害。
事故当時3才だったという女の子が10年後、がんになりまもなく死亡、悲しみの葬儀のシーンから番組は始まります。
自分の娘と重なり、涙が止まりませんでした。
当時、私の娘がまさに同じ3才。居ても立ってもいられない程、不安になりました。私はやっと、どれほど放射性物質の危険な場所に住んでいるのかに気がつきました。それが震災から2ヶ月後の5月の中旬のことでした。
チェルノブイリと同じ事がここ福島で起こっている。
そんな危険な現状なのに、小学校より校庭を6月から授業で使用するとのプリントが来ました。校庭を削ったあと近くの湖の土を校庭に敷き、線量が平均して毎時0.4マイクロシーベルトに下がったからとの理由でしたが、まだ削った土が校庭の隅にあり強い放射線を放っていてとても危険な状態でした。
危険を冒してまで、何故スポーツをしなければならないのか、もはや理解不能でした。
その時に、では一体どのぐらい線量が下がれば校庭に自分の子供を出せるのかと、自問自答した時、たとえ数値が0.1マイクロシーベルト以下になったとしても、危険な放射性物質がある限り、校庭の使用は無理だと思いました。
そんな折り、娘が熱を出し下痢をして体調を崩し、次に長男と次男も熱を出しました。ちょうど季節の変わり目でもあり体調を崩しやすかったのかも知れませんが、私は放射線の影響によるものではないのかと、とても心配しました。
子供たちの体調不慮をきっかけに、自宅の線量が気になり、放射線を計る機械をレンタルしてくれる所を見つけ、自宅の線量を計り、目にしたその数値に驚きました。
当時、市で発表されていた空間線量と自宅2階の子供部屋の数値が殆ど変わらない値でした。私の家は木造2階建ての家で、木造はコンクリートに比べて放射線をあまり遮断出来ないのと、2階は屋根に付着している放射性物質のせいで線量が高くなるとのこと。その為に2階の子ども部屋が高い線量になっていたのですが。
家の中は安全だと思っていたので家の外と家の中であまり変わらない線量に驚き、そんな中に知らずに暮らしていたことにかなりのショックを受けて、これ以上子供を危険にさらしてはダメだと避難を決め新潟に来ました。
私の父母はまだ福島に住んでいます。
長年住んできた土地を離れることは出来ないし、避難指示もない。周りのみんなも住んでいるからと言います。
今年の春、私の実家の近所にある公民館で食品の簡易測定が出来るようになり、実家で露地栽培されている「椎茸」を父が持って行き計った結果、数値が1キロあたり1300ベクレルあったそうです。
驚いた公民館の方が郡山市で行っている食品測定所へ持って行き、より正確に計ってみたところ、セシウム134が750 セシウム137が1100、合わせて1キロあたり1850ベクレルという結果だったそうで、みんながさらに驚いたと聞きました。
去年は食品の数値を簡単に計れるところもなく、しかも少しぐらい食べても大丈夫だろうとか、そこまで汚染されていないと思い、椎茸を両親は食べていましたが、計った数値をみて、食べないようにしました。
このことにより「危険だ」ということに、やっと両親も気がついてくれて良かったと思いましたが、それと同時に、ものすごくショックな出来事でした。
一年以上も、市民の生活はなんの政策も対策もなされず、危険にさらされている状況であること。
そして・・・ 未だに酷い放射能汚染の実態の証明でもありました。
放射性物質はやはりすぐには消えないこと。
汚染された場所が元のような安全な場所になる日は永遠に来ないような気にさえなりました。
そしてそんな場所に両親が住んでいる。
まだまだ多くの人が住んでいる。たくさんの子供もいる。とても複雑な思いになりました。
私は避難指示の出ていない区域からの「自主避難者」です。
私の周りにいる同じ状況の方々は皆同じ思いで避難を選択しました。
「子供を守りたい!」ただそれだけの思いで、住み慣れた土地を離れるという辛い選択をしました。
避難者の中でも、家族一緒に避難出来ている方は少なく、母親と子供だけで避難して来ている、母子避難者も多いです。本来ならば一緒にいるはずの家族がバラバラに生活しています。
お父さんは福島に残り、生活のため働き、家族との思いでが一杯詰まった家で孤独に耐えながら、しかもかわいい盛りの子供の成長を見ることも出来ない淋しい生活しています。
お母さんは、身よりもない、慣れない土地で不安になりながらも、子供を支えながら一生懸命子育てをしています。
みんな 思いは同じく子供を守りたい一心で避難生活を送っています。
いつになったら福島へ帰れるのか。
いつになったら家族一緒に暮らせるのか。
家族一緒に暮らしたい。でも子供を守りたい。
いつも悩んでいます。
ある人は、「福島に戻ってこないのなら、離婚だ」と言われ続けている人。
ある人は離婚を選んでまで避難した人。
両親に理解を得られず、出て行くならもう二度と家の敷居をまたぐなと、勘当された人。
避難するならもう友達じゃないからと言われたお子さんも居ます。
先日、知り合いの方が電話をくれました。20過ぎた娘さんが「帰りたい」といい、鬱になり、過呼吸を起こし、体が硬直してしまい、救急車を呼んだと。それぐらい精神的にも参ってしまったと。
うちの子供は先日「転校するのにお金がいっぱいかかる?」と聞いてきました。なぜ?今の学校が嫌なの?と聞くと、「うんん、嫌じゃないけど、前の学校に戻りたいんだ」って言いました。
大人にとっても、子供たちにとっても、引っ越しや転校などの精神的な負担はかなり大きく、ふるさとを思い出しては日に日に、切なさが増すばかりなのです。
原発の事故により引き裂かれ、奪われた沢山のモノ。
築き上げてきた絆。大切な家族。親友。
通い慣れた学校。住み慣れた街。安心して暮らしていた場所。
美しかったふるさと福島。
避難した方も福島に残っている方も みんな傷つき、苦しんでいます。
大震災と原発の事故から 一年以上経ちましたが、
私たち福島県の多くの人は、未だに大きな不安と悲しみの中に生きています。
福島の悲劇を繰り返さないでほしい。
福島から避難する時もそうでしたが、子供たちは何も選択は出来ないのです。
避難をするかしないか、大人しか選択できないことでした。
原発の問題も同じかと思います。
子供たちが担う日本の将来がより安全なものになるように、
第二のフクシマを作らないためにも、原発のない国にして行くこと。
それが私達の切実な願いです。
高島 2012/06/27
南相馬市や郡山市から新潟に避難されている方々との交流会
小千谷市極楽寺にて
手記 高島さん
~大震災と原発の事故から今までとこれから~
私には子供が3人います。私たち家族が住んでいた福島県郡山市。福島第一原発から直線で55キロの所、四季折々の豊かな自然に囲まれ、そして水と緑がとてもきれいな街です。
2011年3月11日、とても大きな地震がありました。
そしてその後、その影響により福島第一原発の爆発事故が起こりました。
爆発事故が起こったのにも関わらず、私たち家族は避難指示もでないし、大丈夫だろうと、避難は考えませんでした。
私の住んでいた街には爆発の翌日、夕方に降り出した雨により、空から放射性物質がたたき落とされひどく汚染されたといわれています。
当時は地震の影響で断水がまだ続いて、給水車の列に2時間並んだよと言った方。ガソリンを給油する車の列に4時間並んだという方もいます。車が使えないからと自転車で子供と移動した方。
学校の体育館が避難所になっていたので、そこへ避難していた子供たちは校庭で元気に走り回って遊んでいました。
まさか見えない放射能が降っているとも知らないで、私たちは普通に生活を送ってしまいました。
もしも、5年後、10年後、20年後。もしくは子供たちの子供、つまりは子孫に放射能の影響が出たらどうしようかと今から不安に駆られます。
子供たちを放射能の危険から守って上げられなかったこと。
「安全だ」と騙されてしまったこと。
なぜもっと早く逃げなかったのかとても悔やんでいます。
私は避難を決めるまで数ヶ月かかりました。
震災直後、テレビや新聞で報道される原発事故の「安心安全」の情報に、私は原発事故も放射能も、どちらの問題もすぐに解決するものだと勘違いしました。
福島県放射線健康リスクアドバイザーの方の講演会の話では「子供を外で遊ばせて良い」「笑っている人には放射線の影響はない」「100ミリシーベルトは大丈夫」とアドバイスしていました。
3号機の大きな爆発事故からまだ10日も経っていない時でした。
4月に入り、家の近所の高校の校庭では高校生らが野球やサッカーの部活の練習を始め、周りは徐々に普通の生活に戻りつつありました。
数日後小学校の新学期の始業式が行われ、子供たちはマスクをして、肌を露出しないように長袖長ズボン。放射性物質をなるべく付着させないように帽子をかぶりナイロン製のジャンバーを着て学校へ行きました。真夏の暑い日でもその格好で登下校しました。真っ赤な顔をしてたくさん汗をかいて毎日帰って来ました。
5月の連休明けに隠されていた原発事故の重大な情報が報道されました。
「メルトダウンを起こしていた」「【放射能影響予測】SPEEDIが公開されず情報が隠されていた」などの悲惨な真実が報道され、驚き、「本当に福島は安全なのか?」と疑いの気持ちが起こりました。
そんな中、私はインターネットにて「終わりなき人体汚染:チェルノブイリ原発事故から10年」という1996年に放送されたNHKスペシャルのドキュメンタリー映像を見て、かなりの衝撃を受けました。
そのドキュメンタリーの内容は10年たっても放射は人々から大地と家を奪い続けていて、人体への影響が日に日に酷くなっている事。毎週のように人々が亡くなっていること。白血病や小児甲状腺がんになる子供が増えたこと。
甲状腺に出来た癌細胞摘出の為に首に出来るチェルノブイリネックレスと呼ばれる傷跡。その他の色々な健康被害。
事故当時3才だったという女の子が10年後、がんになりまもなく死亡、悲しみの葬儀のシーンから番組は始まります。
自分の娘と重なり、涙が止まりませんでした。
当時、私の娘がまさに同じ3才。居ても立ってもいられない程、不安になりました。私はやっと、どれほど放射性物質の危険な場所に住んでいるのかに気がつきました。それが震災から2ヶ月後の5月の中旬のことでした。
チェルノブイリと同じ事がここ福島で起こっている。
そんな危険な現状なのに、小学校より校庭を6月から授業で使用するとのプリントが来ました。校庭を削ったあと近くの湖の土を校庭に敷き、線量が平均して毎時0.4マイクロシーベルトに下がったからとの理由でしたが、まだ削った土が校庭の隅にあり強い放射線を放っていてとても危険な状態でした。
危険を冒してまで、何故スポーツをしなければならないのか、もはや理解不能でした。
その時に、では一体どのぐらい線量が下がれば校庭に自分の子供を出せるのかと、自問自答した時、たとえ数値が0.1マイクロシーベルト以下になったとしても、危険な放射性物質がある限り、校庭の使用は無理だと思いました。
そんな折り、娘が熱を出し下痢をして体調を崩し、次に長男と次男も熱を出しました。ちょうど季節の変わり目でもあり体調を崩しやすかったのかも知れませんが、私は放射線の影響によるものではないのかと、とても心配しました。
子供たちの体調不慮をきっかけに、自宅の線量が気になり、放射線を計る機械をレンタルしてくれる所を見つけ、自宅の線量を計り、目にしたその数値に驚きました。
当時、市で発表されていた空間線量と自宅2階の子供部屋の数値が殆ど変わらない値でした。私の家は木造2階建ての家で、木造はコンクリートに比べて放射線をあまり遮断出来ないのと、2階は屋根に付着している放射性物質のせいで線量が高くなるとのこと。その為に2階の子ども部屋が高い線量になっていたのですが。
家の中は安全だと思っていたので家の外と家の中であまり変わらない線量に驚き、そんな中に知らずに暮らしていたことにかなりのショックを受けて、これ以上子供を危険にさらしてはダメだと避難を決め新潟に来ました。
私の父母はまだ福島に住んでいます。
長年住んできた土地を離れることは出来ないし、避難指示もない。周りのみんなも住んでいるからと言います。
今年の春、私の実家の近所にある公民館で食品の簡易測定が出来るようになり、実家で露地栽培されている「椎茸」を父が持って行き計った結果、数値が1キロあたり1300ベクレルあったそうです。
驚いた公民館の方が郡山市で行っている食品測定所へ持って行き、より正確に計ってみたところ、セシウム134が750 セシウム137が1100、合わせて1キロあたり1850ベクレルという結果だったそうで、みんながさらに驚いたと聞きました。
去年は食品の数値を簡単に計れるところもなく、しかも少しぐらい食べても大丈夫だろうとか、そこまで汚染されていないと思い、椎茸を両親は食べていましたが、計った数値をみて、食べないようにしました。
このことにより「危険だ」ということに、やっと両親も気がついてくれて良かったと思いましたが、それと同時に、ものすごくショックな出来事でした。
一年以上も、市民の生活はなんの政策も対策もなされず、危険にさらされている状況であること。
そして・・・ 未だに酷い放射能汚染の実態の証明でもありました。
放射性物質はやはりすぐには消えないこと。
汚染された場所が元のような安全な場所になる日は永遠に来ないような気にさえなりました。
そしてそんな場所に両親が住んでいる。
まだまだ多くの人が住んでいる。たくさんの子供もいる。とても複雑な思いになりました。
私は避難指示の出ていない区域からの「自主避難者」です。
私の周りにいる同じ状況の方々は皆同じ思いで避難を選択しました。
「子供を守りたい!」ただそれだけの思いで、住み慣れた土地を離れるという辛い選択をしました。
避難者の中でも、家族一緒に避難出来ている方は少なく、母親と子供だけで避難して来ている、母子避難者も多いです。本来ならば一緒にいるはずの家族がバラバラに生活しています。
お父さんは福島に残り、生活のため働き、家族との思いでが一杯詰まった家で孤独に耐えながら、しかもかわいい盛りの子供の成長を見ることも出来ない淋しい生活しています。
お母さんは、身よりもない、慣れない土地で不安になりながらも、子供を支えながら一生懸命子育てをしています。
みんな 思いは同じく子供を守りたい一心で避難生活を送っています。
いつになったら福島へ帰れるのか。
いつになったら家族一緒に暮らせるのか。
家族一緒に暮らしたい。でも子供を守りたい。
いつも悩んでいます。
ある人は、「福島に戻ってこないのなら、離婚だ」と言われ続けている人。
ある人は離婚を選んでまで避難した人。
両親に理解を得られず、出て行くならもう二度と家の敷居をまたぐなと、勘当された人。
避難するならもう友達じゃないからと言われたお子さんも居ます。
先日、知り合いの方が電話をくれました。20過ぎた娘さんが「帰りたい」といい、鬱になり、過呼吸を起こし、体が硬直してしまい、救急車を呼んだと。それぐらい精神的にも参ってしまったと。
うちの子供は先日「転校するのにお金がいっぱいかかる?」と聞いてきました。なぜ?今の学校が嫌なの?と聞くと、「うんん、嫌じゃないけど、前の学校に戻りたいんだ」って言いました。
大人にとっても、子供たちにとっても、引っ越しや転校などの精神的な負担はかなり大きく、ふるさとを思い出しては日に日に、切なさが増すばかりなのです。
原発の事故により引き裂かれ、奪われた沢山のモノ。
築き上げてきた絆。大切な家族。親友。
通い慣れた学校。住み慣れた街。安心して暮らしていた場所。
美しかったふるさと福島。
避難した方も福島に残っている方も みんな傷つき、苦しんでいます。
大震災と原発の事故から 一年以上経ちましたが、
私たち福島県の多くの人は、未だに大きな不安と悲しみの中に生きています。
福島の悲劇を繰り返さないでほしい。
福島から避難する時もそうでしたが、子供たちは何も選択は出来ないのです。
避難をするかしないか、大人しか選択できないことでした。
原発の問題も同じかと思います。
子供たちが担う日本の将来がより安全なものになるように、
第二のフクシマを作らないためにも、原発のない国にして行くこと。
それが私達の切実な願いです。
高島 2012/06/27