さようなら柏崎刈羽原発プロジェクト

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7月12日、柏崎刈羽原発運転差止請求訴訟 第1回口頭弁論期日等の予定について(お知らせ)

2012年07月09日 | お知らせ
柏崎刈羽原発運転差止請求訴訟
第1回口頭弁論期日等の予定について(お知らせ)


7月12日(木)の予定
①午前8時30分~午前9時00分(予定)傍聴整理券配布、午前9時05分、抽選
新潟地方裁判所にて

※後記③の法廷内に入っていただく方として予めご連絡を差し上げた方以外の方で、法廷内での傍聴を希望される方は、上記時間帯で整理券を受け取り抽選に参加いただく必要があります。
②午前9時00分~9時30分、口頭弁論期日前集会・入廷行動
白山会館(新潟地裁から徒歩5分程度)1階芙蓉の間にて

※場所と開始時刻が変更となりましたのでご注意ください。午前9時20分には白山会館を出発し、歩道を行進し新潟地裁へ向かいます。
※駐車場に限りがあります。新潟市役所や新潟県民会館ほか近隣の有料駐車場をご利用ください。
③午前10時~正午頃、第1回口頭弁論期日
新潟地方裁判所裁判員棟101号法廷にて

※法廷内の原告・代理人席、傍聴席に限りがあるため、出席予定の原告の皆様から法廷内に入っていただく方を選定させていただきました。何卒ご了承ください。その方々には別途ご連絡を差し上げます。
※法廷内に入れない方々は、白山会館1階芙蓉の間にて報告集会・記者会見開始までお待ちください。
④正午頃~(1時間強を予定)、報告集会・記者会見
白山会館1階芙蓉の間にて





手記(菅野さん) 南相馬市や郡山市から新潟に避難されている方々との交流会

2012年07月08日 | お知らせ
2012年6月30日
南相馬市や郡山市から新潟に避難されている方々との交流会
小千谷市極楽寺にて
手記 菅野さん 

小千谷市 極楽寺 2012年6月30日(土) 14時~

お礼
まず始めに新潟の皆さんにお伝えしたいのは、「感謝」の気持ちです。温かく迎えてもらっています。色々な不安な中、皆さんからの支えがどんなに心強いか分かりません。ありがとうございます。

始めに
先日、クレヨンハウスの落合恵子さんの講演会が新潟市でありました。次のような事を言っていました。「休日のこのような集まりに参加されるような人達には、話をしなくても大丈夫」と。私も同じ考えです。このような集まりに参加されない人達に、どれだけ知ってもらうかが難しいと考えています。

一番伝えたい事
新潟県は福島県と似ているところがあると思います。大きくふたつ。ひとつ目は、巨大地震を体験した事。ふたつ目は、運転能力がない東京電力の原発がある事。一歩間違えば、新潟県も福島県の二の舞になると言う事です。原発や放射能に対して、頭の中に入れておかなければならないと思います。

家族構成
震災前は、私の父・母・姉・私・妻・二人の娘の7人家族でした。そんな大家族から、今は一転して、新潟で妻子のみの三人で暮らしています。

震災当日
中越地震・中越沖地震を体験した新潟の方々には、地震の恐怖を言うまでもないでしょう。私も凄い恐怖を感じました。しかし、地震は自然災害ですし、なすすべはありません。道路は波をうち、瓦は落ち、家は潰れ、ビルは傾き、ガラスが割れている車とも多数すれ違いました。部屋はグチャグチャでしたが幸い自宅は無事でした。当日は津波の映像ばかりで、原発の電源が失われたと聞いても、こんな重大な事故につながるとは思ってもみませんでした。しかし、震災当日から避難をしていた人達を後で知りました。それも大勢。その人達は初期の大量被曝を避けられました。私の判断ミスにより、妻子を避難させることが出来ず、被曝をさせてしまいました。悔やんでも悔やんでも悔やみきれません。日頃からの危機管理能力の差だと思います。情報収集の差だと思います。

長岡一時避難
震災から約一週間後に長岡へ避難を決断しました。当時、テレビでやっていた避難所は、一日の食料がおにぎりひとつと、飴玉ひとつでした。そのような避難所で当時1歳だった次女が耐えられるのか、凄く凄く不安でした。私が弱音を吐いたら、妻子はもっと、もっと不安になるだろうと、強がってはみたものの、とても不安でした。阿賀の避難相談所で保養施設を紹介してもらい、ホッとして涙が出そうになりました。そこでは、おにぎり・お茶・子供のお菓子・オムツなどを頂き、感謝の気持ちでいっぱいでした。阿賀までの道のりとは打って変わって、阿賀から長岡までの道のりは、軽やかになりました。私は仕事があるので、郡山へ帰ったものの、娘達は友達が出来、楽しく過ごしていると言う事で安心しました。

一学期
一学期が始まるので、郡山へ帰ってきました。その頃になると、郡山も放射能汚染されている事が分かってきていて、登校はマスク・帽子着用、長袖でした。外出も一切させませんでした。外で遊びたい年頃なのに可哀想で、休日は会津・山形・新潟・那須へ出掛けました。そんな中、調べれば調べる程、放射能は危険で郡山も汚染されていると知り、毎晩のように妻と相談しました。

新潟市避難
色々と検討した結果、新潟市に決めました。綺麗な空気を吸いながら、下見に来てリフレッシュをしていきました。夏休みに引越を完了させ、二学期からは新潟市と郡山市の二重生活が始まりました。

二重生活
育ち盛りの娘達との離れた生活など考えてもみませんでした。次女は二歳。毎週新しい言葉を覚えています。長女も日に日に大きくなり、身長も靴も妻を追い越そうとしています。そんな娘達と一緒に暮らす事ができません。
新潟に引越をしたのは、お盆休み前でした。一週間新潟で家族と過ごしました。連休が終わり、私が帰る時には長女は大泣きでした。部屋で泣かれ、玄関で泣かれ、駐車場で泣かれ、車で泣かれ、一時間以上が過ぎました。娘が悪い訳ではないので、無理に帰る事はできませんでした。この頃、次女は離れた生活を理解していなく、泣く事はありませんでしたが、最近になって、泣くようになりました。せっかく長女が生活に慣れてきて泣かなくなったのに、次女が泣くようになり、もらい泣きをするようになってしまいました。その様子をみて、妻も悲しくなり涙を流すそうです。この怒りを誰にぶつければいいのでしょうか。そんな企業が、値上げをし、天下りをし、ボーナスを貰い、大企業並の給料を貰い、レジャー費用まで計上しています。

避難費用
引越費用や初期の準備費用などは、大きな金額ですが、一度で済みます。しかし、光熱費や食費などは毎月重くのしかかってきます。大家族がふたつに別れて暮らす事は、予想以上の出費になります。震災前は、妻の実家から米を始め、様々な野菜(きゅうり・トマト・ナス・トウモロコシ・枝豆・ほうれん草)を貰っていました。それも放射能の影響で貰わなくなり、出費に響きます。私は金曜日の仕事終了後に新潟に来て、日曜日の夕食を食べてから、郡山へ帰ります。毎週のガソリン代・高速代・片道二時間の無駄な時間・事故のリスクなど、通常の生活では考えられない事の連続です。しかし、今でも東京電力からは一円たりとも補償をしてもらっていません。

様々な避難者
避難者といっても様々なパターンがあり、一口で避難者をまとめる事は出来ません。私のように妻子を避難させ、自分は地元に留まり仕事をしている二重生活の方。家族で避難をした方。自主避難の方・警戒区域の方・補償から外された白河など県南地域から避難の方。避難生活から福島へ戻った人、永住を考えている人、数年を目処に帰宅予定の人。この様々な避難者がいる為に、色々な壁ができてしまっています。同じ避難者なのに、なぜ壁ができてしまうのか。分かりません。正直、私もいまだに理解できていません。現に、家族で避難している高島さん、警戒区域から避難の後藤さんと壁を感じていません。週末しか居ないので分からないのかもしれません。鈍感だからかもしれません。しかし、避難者の壁はお母さん方からよく聞く話です。本音で話ができない、辛いと思います。

子供の健康
震災2日後から3日連続で長女が鼻血を出しました。その頃は放射能の知識はなく、地震によるストレスかと思っていました。しかし、通常の鼻血とは量が違いました。バスタオルが真っ赤に染まるくらいの量でした。もちろん放射能との因果関係は分かりません。ただ、今までに鼻血を出した事がなく、ティッシュ1枚2枚の量ではありません。しかも、地震が頻発した当日・翌日ではありません。原発が爆発した日です。何を疑うでしょう。

検査体制
新潟でもやっと5月より一般の人達がWBC(ホールボディーカウンター)が受けられるようになりました。早速申し込みをして検査をしてきました。ところが、検出限界を聞いてビックリです。なんと500Bq/bodyだったのです。福島県のWBCは250Bq/bodyです。長女は約20kg。20Bq/kg以上にならないと検出できません。こんな数値は原発作業員でも出ないでしょう。そんな検査をする意味がわかりません。避難者の多くは子供達を放射能から守る為に来ています。子供を守りたい一心で困難に立ち向かっています。それなのに、国は全く助けようとしてくれません。
放射能の恐怖
少しでも体調が悪いと、悪い方・悪い方に考えてしまいます。普通の風邪でも「放射能の影響なのか」。ダルイと「放射能の影響なのか」。放射能とは全く関係ないかもしれません。しかし、「もしも」を考えなければならないストレス。必要のないストレス。明日の朝は生きて起きられるのか。放射能の地域で過ごしている人にしか分からない恐怖。健康だった人が朝、冷たくなっていた。福島だけではなく、関東圏でもでています。明日は我が身なのか。

マスコミの現実
放射能・原発に関する情報は、ほとんどのメディアは報道しませんでした。マスコミを信用し動いていたのでは、死んでしまいます。自分達が思っている以上に日本は情報統制されています。受け身では子供を守れません。自分で情報収集しないと本当の事は分かりません。イザって時に急に情報収集はできません。常日頃から、どれだけアンテナを張っているか。

今後
子供を守る為になにをすればいいのか。人それぞれだと思います。新潟のお母さん方は色々と動いてくれています。ありがたいです。食品汚染・瓦礫問題・原発問題、本当に勉強をしています。詳しいです。避難者は動きたくても生活に精一杯です。それでも、少しずつでも動く人がでてきています。何もやらなくては変わらない。諦めちゃ駄目。こんな想いを誰もしちゃいけない。現状を訴え自分の事として受け止めてもらい、真剣に考えてもらえたら嬉しいです。

郡山市 菅野

手記(高島さん) 南相馬市や郡山市から新潟に避難されている方々との交流会

2012年07月06日 | お知らせ
2012年6月30日
南相馬市や郡山市から新潟に避難されている方々との交流会
小千谷市極楽寺にて
手記 高島さん 

~大震災と原発の事故から今までとこれから~

私には子供が3人います。私たち家族が住んでいた福島県郡山市。福島第一原発から直線で55キロの所、四季折々の豊かな自然に囲まれ、そして水と緑がとてもきれいな街です。

2011年3月11日、とても大きな地震がありました。
そしてその後、その影響により福島第一原発の爆発事故が起こりました。

爆発事故が起こったのにも関わらず、私たち家族は避難指示もでないし、大丈夫だろうと、避難は考えませんでした。

私の住んでいた街には爆発の翌日、夕方に降り出した雨により、空から放射性物質がたたき落とされひどく汚染されたといわれています。

当時は地震の影響で断水がまだ続いて、給水車の列に2時間並んだよと言った方。ガソリンを給油する車の列に4時間並んだという方もいます。車が使えないからと自転車で子供と移動した方。
学校の体育館が避難所になっていたので、そこへ避難していた子供たちは校庭で元気に走り回って遊んでいました。
まさか見えない放射能が降っているとも知らないで、私たちは普通に生活を送ってしまいました。

もしも、5年後、10年後、20年後。もしくは子供たちの子供、つまりは子孫に放射能の影響が出たらどうしようかと今から不安に駆られます。

子供たちを放射能の危険から守って上げられなかったこと。
「安全だ」と騙されてしまったこと。
なぜもっと早く逃げなかったのかとても悔やんでいます。

私は避難を決めるまで数ヶ月かかりました。
震災直後、テレビや新聞で報道される原発事故の「安心安全」の情報に、私は原発事故も放射能も、どちらの問題もすぐに解決するものだと勘違いしました。

福島県放射線健康リスクアドバイザーの方の講演会の話では「子供を外で遊ばせて良い」「笑っている人には放射線の影響はない」「100ミリシーベルトは大丈夫」とアドバイスしていました。
3号機の大きな爆発事故からまだ10日も経っていない時でした。

4月に入り、家の近所の高校の校庭では高校生らが野球やサッカーの部活の練習を始め、周りは徐々に普通の生活に戻りつつありました。

数日後小学校の新学期の始業式が行われ、子供たちはマスクをして、肌を露出しないように長袖長ズボン。放射性物質をなるべく付着させないように帽子をかぶりナイロン製のジャンバーを着て学校へ行きました。真夏の暑い日でもその格好で登下校しました。真っ赤な顔をしてたくさん汗をかいて毎日帰って来ました。

5月の連休明けに隠されていた原発事故の重大な情報が報道されました。
「メルトダウンを起こしていた」「【放射能影響予測】SPEEDIが公開されず情報が隠されていた」などの悲惨な真実が報道され、驚き、「本当に福島は安全なのか?」と疑いの気持ちが起こりました。

そんな中、私はインターネットにて「終わりなき人体汚染:チェルノブイリ原発事故から10年」という1996年に放送されたNHKスペシャルのドキュメンタリー映像を見て、かなりの衝撃を受けました。
そのドキュメンタリーの内容は10年たっても放射は人々から大地と家を奪い続けていて、人体への影響が日に日に酷くなっている事。毎週のように人々が亡くなっていること。白血病や小児甲状腺がんになる子供が増えたこと。
甲状腺に出来た癌細胞摘出の為に首に出来るチェルノブイリネックレスと呼ばれる傷跡。その他の色々な健康被害。
事故当時3才だったという女の子が10年後、がんになりまもなく死亡、悲しみの葬儀のシーンから番組は始まります。

自分の娘と重なり、涙が止まりませんでした。
当時、私の娘がまさに同じ3才。居ても立ってもいられない程、不安になりました。私はやっと、どれほど放射性物質の危険な場所に住んでいるのかに気がつきました。それが震災から2ヶ月後の5月の中旬のことでした。

チェルノブイリと同じ事がここ福島で起こっている。

そんな危険な現状なのに、小学校より校庭を6月から授業で使用するとのプリントが来ました。校庭を削ったあと近くの湖の土を校庭に敷き、線量が平均して毎時0.4マイクロシーベルトに下がったからとの理由でしたが、まだ削った土が校庭の隅にあり強い放射線を放っていてとても危険な状態でした。
危険を冒してまで、何故スポーツをしなければならないのか、もはや理解不能でした。

その時に、では一体どのぐらい線量が下がれば校庭に自分の子供を出せるのかと、自問自答した時、たとえ数値が0.1マイクロシーベルト以下になったとしても、危険な放射性物質がある限り、校庭の使用は無理だと思いました。

そんな折り、娘が熱を出し下痢をして体調を崩し、次に長男と次男も熱を出しました。ちょうど季節の変わり目でもあり体調を崩しやすかったのかも知れませんが、私は放射線の影響によるものではないのかと、とても心配しました。

子供たちの体調不慮をきっかけに、自宅の線量が気になり、放射線を計る機械をレンタルしてくれる所を見つけ、自宅の線量を計り、目にしたその数値に驚きました。

当時、市で発表されていた空間線量と自宅2階の子供部屋の数値が殆ど変わらない値でした。私の家は木造2階建ての家で、木造はコンクリートに比べて放射線をあまり遮断出来ないのと、2階は屋根に付着している放射性物質のせいで線量が高くなるとのこと。その為に2階の子ども部屋が高い線量になっていたのですが。

家の中は安全だと思っていたので家の外と家の中であまり変わらない線量に驚き、そんな中に知らずに暮らしていたことにかなりのショックを受けて、これ以上子供を危険にさらしてはダメだと避難を決め新潟に来ました。

私の父母はまだ福島に住んでいます。
長年住んできた土地を離れることは出来ないし、避難指示もない。周りのみんなも住んでいるからと言います。

今年の春、私の実家の近所にある公民館で食品の簡易測定が出来るようになり、実家で露地栽培されている「椎茸」を父が持って行き計った結果、数値が1キロあたり1300ベクレルあったそうです。

驚いた公民館の方が郡山市で行っている食品測定所へ持って行き、より正確に計ってみたところ、セシウム134が750 セシウム137が1100、合わせて1キロあたり1850ベクレルという結果だったそうで、みんながさらに驚いたと聞きました。

去年は食品の数値を簡単に計れるところもなく、しかも少しぐらい食べても大丈夫だろうとか、そこまで汚染されていないと思い、椎茸を両親は食べていましたが、計った数値をみて、食べないようにしました。

このことにより「危険だ」ということに、やっと両親も気がついてくれて良かったと思いましたが、それと同時に、ものすごくショックな出来事でした。

一年以上も、市民の生活はなんの政策も対策もなされず、危険にさらされている状況であること。
そして・・・ 未だに酷い放射能汚染の実態の証明でもありました。

放射性物質はやはりすぐには消えないこと。
汚染された場所が元のような安全な場所になる日は永遠に来ないような気にさえなりました。
そしてそんな場所に両親が住んでいる。
まだまだ多くの人が住んでいる。たくさんの子供もいる。とても複雑な思いになりました。

私は避難指示の出ていない区域からの「自主避難者」です。
私の周りにいる同じ状況の方々は皆同じ思いで避難を選択しました。
「子供を守りたい!」ただそれだけの思いで、住み慣れた土地を離れるという辛い選択をしました。

避難者の中でも、家族一緒に避難出来ている方は少なく、母親と子供だけで避難して来ている、母子避難者も多いです。本来ならば一緒にいるはずの家族がバラバラに生活しています。
お父さんは福島に残り、生活のため働き、家族との思いでが一杯詰まった家で孤独に耐えながら、しかもかわいい盛りの子供の成長を見ることも出来ない淋しい生活しています。

お母さんは、身よりもない、慣れない土地で不安になりながらも、子供を支えながら一生懸命子育てをしています。
みんな 思いは同じく子供を守りたい一心で避難生活を送っています。

いつになったら福島へ帰れるのか。
いつになったら家族一緒に暮らせるのか。
家族一緒に暮らしたい。でも子供を守りたい。

いつも悩んでいます。
ある人は、「福島に戻ってこないのなら、離婚だ」と言われ続けている人。
ある人は離婚を選んでまで避難した人。
両親に理解を得られず、出て行くならもう二度と家の敷居をまたぐなと、勘当された人。
避難するならもう友達じゃないからと言われたお子さんも居ます。

先日、知り合いの方が電話をくれました。20過ぎた娘さんが「帰りたい」といい、鬱になり、過呼吸を起こし、体が硬直してしまい、救急車を呼んだと。それぐらい精神的にも参ってしまったと。
うちの子供は先日「転校するのにお金がいっぱいかかる?」と聞いてきました。なぜ?今の学校が嫌なの?と聞くと、「うんん、嫌じゃないけど、前の学校に戻りたいんだ」って言いました。

大人にとっても、子供たちにとっても、引っ越しや転校などの精神的な負担はかなり大きく、ふるさとを思い出しては日に日に、切なさが増すばかりなのです。

原発の事故により引き裂かれ、奪われた沢山のモノ。
築き上げてきた絆。大切な家族。親友。
通い慣れた学校。住み慣れた街。安心して暮らしていた場所。
美しかったふるさと福島。

避難した方も福島に残っている方も みんな傷つき、苦しんでいます。

大震災と原発の事故から 一年以上経ちましたが、
私たち福島県の多くの人は、未だに大きな不安と悲しみの中に生きています。

福島の悲劇を繰り返さないでほしい。

福島から避難する時もそうでしたが、子供たちは何も選択は出来ないのです。
避難をするかしないか、大人しか選択できないことでした。
原発の問題も同じかと思います。

子供たちが担う日本の将来がより安全なものになるように、
第二のフクシマを作らないためにも、原発のない国にして行くこと。
それが私達の切実な願いです。

高島 2012/06/27